第41話「ゼロになるのは怖い」
『シグ……俺の手が、身体が……透けてるんだ』
総和線を伝わってくる東の鉱山塔の数値が、まるで指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、サラサラと音を立てて減少していく。
俺の脳内に、けたたましい警告の不協和音が鳴り響いた。
イクアが西の塔の無限拡張を削り取った反動は、世界式のバランスを大きく揺るがせていた。その余波は、物理的なダメージではなく、相反する『無』の概念を持つ白髪の少年の存在基盤を直接削り取ろうとしている。
このままでは、彼は死ぬのではない。世界から「最初からいなかったもの」として完全に消去されてしまう。
「ゼロ! 今すぐ術式から手を離せ! お前の存在が持たない!」
俺は総和線越しに叫んだ。
かつての鉱山で出会った頃の彼なら、「どうせ俺は無価値だから」と笑って死を受け入れていただろう。自己犠牲を美しいものだと勘違いし、勝手に消え去ろうとしていたはずだ。
『やだ……っ!』
だが、総和線から聞こえてきたのは、涙声混じりの明確な拒絶だった。
『俺、消えたくない! 怖いよ! もっとみんなとご飯食べたいし、笑いたい! ゼロになるのは、怖い……ッ!』
それは、彼が初めて言葉にした、生への執着だった。
虚無の災厄ではなく、一人の血の通った少年としての純粋な恐怖。
俺は安堵と同時に、彼の生命力数値の急激な低下に焦りを感じた。
「なら、今すぐそこから逃げろ! 東の塔は後回しにする!」
『……でも、逃げない』
ゼロの声が、恐怖に震えながらも、確かな芯を持ったものに変わった。
『俺が逃げたら、アインのせいでみんなが人形みたいになっちまう。そんなの絶対嫌だ。……怖くても、俺は、俺の力を使う! 俺がこの塔を止めるんだ!』
彼が自らの意志で、過酷な運命に立ち向かうことを選んだ。
その意志の数値が、総和線を通じて俺の脳内に熱く流れ込んでくる。
だが、気合だけで世界式の歪みによる消去は防げない。彼が単独で無限に挑めば、間違いなくその身は霧散する。俺が総和で強引に引き留めようと計算を巡らせた、その時だった。
『なら、私がその時間を引き伸ばすわ』
北の農業塔にいるイネラの静かな声が割り込んだ。
『対象指定! ゼロの身体が消滅に向かう、その進行時間!』
彼女の『積算』が、総和線を経由して作用する。起き始めた存在消失という変化を消したり逆転させたりはできない。その進行を細かな段階へ分け、イネラ自身が支えられる時間へ薄く引き伸ばしたのだ。猶予を買っただけで、総量も危険も残っている。
『一人で格好つけるな、少年』
続いて、西の貴族塔にいるイクアの声。
『一度に比べられるのは二つだけだ。だから、順に渡す! 対象指定、ゼロと私!』
まずゼロとイクアの負荷が等しくなる。続けてイクアは片方の剣を俺へ向け、俺と自分を均衡させる。最後に俺とイネラを結んだ。
三度の均衡によって、ゼロ一人を押し潰していた存在消去の重圧が四人へ段階的に分けられ、総和線を通じて俺たちの肉体へ乗しかかった。総量は減っていない。
「ぐっ……!」
骨が軋み、存在の輪郭がブレるような奇妙な吐き気が俺を襲う。だが、一人で背負う致命傷に比べれば、四人で分かち合う痛みなど十分に耐えられる計算式だ。
『シグさん! 南の塔の防衛兵は退けました。私たちも、何か手伝わせてください!』
南の水運塔にいるミラから、切羽詰まった声が届く。
『俺たちも戦う! その坊主に力を分けてやってくれ!』
彼女の背後にいるフェル村の村民たちが、自発的に魔力を差し出しているのが分かった。俺は左手首のΣの紋章を輝かせ、彼らの微弱だが確かな魔力を『総和』し、総和線のネットワークを通じて東のゼロへと一気に補給した。
「ゼロ! お前はもう一人じゃない! 全員の力が繋がっている。やれッ!」
『……うんッ!』
ゼロの声はまだ震えていた。恐怖が消えたから進むのではない。消えたくないと願ったまま、それでも自分で選んで手を伸ばしている。
東の戦場。映像は見えないが、彼が東の鉱山塔の巨大な中枢術式に両手を押し当てたのが、数値の変動で手に取るように分かった。
すべてを一括で無に帰す災厄の力ではない。
彼は極限の集中力で、複雑に絡み合った術式の中から『アインが構築した無限拡張の魔力部分だけ』を的確に選び出した。鉱山ではイネラとイクアに境界を示してもらった。今は、ゼロ自身の目で消すべきものを見分けている。
『消えろッ!!』
パリンッ!!!
総和線越しに、巨大なガラス細工が粉々に砕け散るような快音が響いた。
俺の脳内で、東の鉱山塔が吸い上げていた莫大な魔力数値が一瞬でゼロに書き換わる。目を開けると、王都の東の空を汚していた漆黒の光柱が、音もなく霧散していくところだった。
『シグさん! こっちも水路の基部を破壊しました!』
南のミラからの報告と同時に、南の空の光柱も崩れ落ちるように消滅した。
北、西、東、南。
王都の四方にそびえ、民衆の命を吸い上げていた四つの地方塔が、俺たちの連携によって完全に機能停止したのだ。単独犠牲は一人もいない。全員が自らの意志で役割を選び、痛みを分かち合った結果の勝利だった。
俺の肉体にかかっていた異常な負荷がスッと抜け落ち、総和線から仲間たちの安堵の息遣いが聞こえてくる。
だが。
「……まだ、終わっていない」
俺は瓦礫の上から立ち上がり、神託塔の前広場を見渡した。
四つの地方塔による命の吸い上げは止まった。だが、広場を埋め尽くす数万の王国民たちは、依然として感情のない虚無の瞳のまま、機械のように瓦礫の撤去作業を続けている。
彼らの意識は、アインのいる中央の神託塔、すなわち王都の地下を巡る『世界式』そのものに直接接続されたままだ。この接続を断ち切らなければ、彼らが人間としての心を取り戻すことはない。
広場の奥、天を貫く白亜の神託塔。
そこには、すべての元凶である無限聖人アインが、俺が来るのを待っている。
俺は左手首の完全な『Σ』の紋章を握り締め、仲間たちと共に、最後の計算式を解くために歩みを進めた。




