第39話「百年分の一日」
俺の左手首に焼き付いた完全な『Σ』の紋章が、肉を焦がすような激痛を発した。
西の貴族塔へ向かったイクアが、結界の中枢を破壊した直後。吸い上げが止まるという俺たちの計算を嘲笑うかのように、西区画の民衆の『生命反応』の数値が風船のように膨張し、暴走を始めたのだ。
それは、アインが周到に仕掛けた悪辣な偽装だった。
結界の破壊そのものをトリガーとし、吸い上げた魔力を民衆の肉体へ逆流させ、彼らを内部から破裂させる時限爆弾。
そして最悪なことに、四人を繋いでいた『総和線』が、ここで致命的な裏目に出た。
『ぐっ……あぁぁっ!』
『きゃあっ!』
総和線を共有する仲間たちの短い悲鳴が、俺の脳内に直接響き渡る。
西の塔で発生した異常な負荷――魔力の暴走と肉体が引き裂かれるような痛みが、演算器である俺を経由して、他の三つの戦場へと一気に流入し始めたのだ。
『シグマ、すまない! 私が破壊したのは偽の中枢だ! 民衆の体が熱を持って――!』
イクアの焦燥に満ちた声が途切れる。
俺の脳内に広がる座標と数値の海は、今や真っ赤な警告色で埋め尽くされていた。
『シグ、急に魔法が消えた! 鉱山塔の周りだけ、俺の力みたいに全部ゼロになっちまう!』
『シグさん! 地下水路の水位が急激に上がっています! これじゃ塔の基部に近づけません!』
東のゼロ、南のミラからの悲痛な報告。
イクアの引き当てた偽装罠の余波が、各塔の防衛術式を狂わせ、異常現象を引き起こしているのだ。
俺は膝をつき、血を吐きながらも、必死に総和線の魔力分配を再計算した。他へ流れる負荷の数値を、俺自身へと強引に引き寄せる。俺の全身の血管が破裂しそうなほど軋むが、演算器である俺がここで倒れれば、四つの戦場は完全に崩壊する。
だが、数値を処理する中で、俺は絶望的な事実に直面した。
北の農業塔へ向かっている、イネラ。
広場での崩落から子どもたちを救い、すでに限界だった彼女の『肉体の消耗度』を示す数値が、他からの負荷流入によって、ついに致死ラインの赤色を振り切ろうとしていたのだ。
「イネラ、もういい! お前はそこから引け!」
俺は総和線を彼女一人に絞り込み、命令を下した。全体最適などどうでもいい。これ以上は彼女が死ぬ。
『……断るわ』
ノイズ混じりの、だがひどく静かな声が返ってきた。
彼女の現在位置は、北の農業塔の直下。映像は見えないが、俺の脳内の数値が、彼女の周囲の絶望的な状況を物語っていた。
『ここら一帯の農地……土の養分が完全に死滅しているわ。アインが無限増殖の奇跡を乱用したせいで、大地の魔力が枯れ果てている。だからこの塔は、直接民衆から命を吸い上げようとしているのよ』
無限に作物を実らせる奇跡の代償。それは、表土から順に養分と魔力を空にしていくことだ。
塔の吸い上げを止めるには、一本にまとめられた魔力の流れを、農地全体へもう一度分散させなければならない。
だが、イネラの力で百年分の自然魔力を過去から呼び戻すことはできない。扱えるのは、今も土地に残っている蓄積だけだ。
「お前一人の力じゃ足りない! 無理だ!」
『ええ、私一人の力じゃ絶対に無理ね』
イネラは小さく笑ったようだった。
『でも、私一人で治す必要はないのよね。あなたがフェル村の難民の前で、みんなの力を少しずつ集めたように』
俺の言葉が詰まる。
イネラから伝わってくる魔力の波長が、大きく、穏やかに変質していくのを感じた。
『この大地には、アインの無限神託より前から、人が手を入れ続けた痕跡が残っている』
イネラの『積算』が拾い上げたのは、死者の労働力ではない。何世代も掘り直された水路、深層に眠る種、畑の端へ積まれた堆肥、風除け林の根、そして今を生きる農民が受け継いだ手順。過去の営みが、物と知識の形で現在に残した蓄積だった。
『対象指定。埋もれた旧水路、深層の水分、残った種子、堆肥、林の根。農民のみんな、私が場所と順番を示す。動かすかどうかは、自分で決めて』
彼女の声が、静かな祈りのように響く。
『百年かけて覚えた土地の使い方を、今日の私たちが一日で繋ぎ直す!』
総和線へ、農民たちの短い応答が次々と届いた。
旧水路の堰が開かれ、深層の水が乾いた畑へ分かれる。塔へ一直線に吸われていた残存魔力が、風除け林と湿った土と種子へ細かく分散していく。イネラは、その場で実際に始まった吸水、発芽、微生物の働きだけを少しずつ積算し、流れが途切れないよう支えた。
農地が一瞬で豊かな黒土へ戻ったわけではない。だが、塔が独占できる一本の流れは消えた。数千の小さな循環へ分かれた魔力を吸い切れず、北の農業塔が過負荷を起こす。
『シグ! 北の塔の吸い上げが止まったわ!』
イネラの疲労困憊した、だが誇らしげな声。
俺の脳内で、北の塔の吸収量がゼロに落ち込み、同時にイネラ側から流れ込んできていた異常な負荷がスッと消え去った。
彼女は、自分を犠牲にして奇跡を起こす計算を捨てた。過去が残した物と、現在の人々の知識と労働を繋ぎ、一人では不可能な仕事を成立させたのだ。
俺は深く息を吸い込み、頭蓋骨の痛みをねじ伏せた。
北の負荷が消えたことで、俺の演算器に一瞬の余裕が生まれる。俺はそのリソースをすべて、西の貴族塔で孤軍奮闘しているイクアへと振り向けた。
「イクア! 聞こえるか!」
『シグマ! すまない、私の早計が皆に負担を……!』
「謝罪は後だ! お前が壊した結界はただの偽装だ。だが、吸い上げの反動が民衆に向かっているということは、それを操作している『本物の流れ』が必ず近くにあるはずだ!」
俺は西の区画で暴走しつつある民衆の生命反応の数値を、冷徹に分析してイクアへ送る。
「民衆の魔力が暴走し、どこへ向かって流れているかを追え。アインの罠の裏側にある、真の中枢を見つけ出すんだ!」
『……応! この双剣にかけて、今度こそ神殿の嘘を暴き斬る!』
イクアの力強い声と共に、彼女の魔力数値が再び高く跳ね上がる。
四つの塔を巡る戦場。盤面はまだ、完全に崩壊してはいない。俺は血の味を飲み込みながら、再び激しく変動を始めた数字の海へと意識を沈めた。




