第36話「それでも数える」
瓦礫に覆われた王都の広場は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
つい先ほどまで死の恐怖に悲鳴を上げ、あるいは奇跡に熱狂していた数万人の市民たちは、今はもう誰も声を発していない。ただ、虚空を見つめるような焦点の合わない瞳で、同じ方向を向き、規則正しい呼吸を繰り返している。
アインが発動した『無限神託』。
人々の意識を王都の地下を巡る世界式へと強制的に接続し、一切の迷いも、苦痛も、そして自分で選ぶという自由意志をも完全に消去した絶対の統制。誰も間違えない代わりに、誰も人間ではなくなった光景がそこにあった。
俺は、崩れた石柱の傍らに座り込むイネラと、俺から距離をとって震えているゼロを見つめた。
俺が過去に、全体最適のために彼らの意思を無視して接続を切ったという真実。その罪悪感と、拒絶された痛みが胸を締め付けている。
これまでの俺なら、この絶望的な状況を打破するための「最も正しい最適解」を瞬時に計算し、彼らに役割を命じていただろう。
だが、俺は固く握りしめていた拳を解き、静かに口を開いた。
「……俺からは、もう何も命じない」
俺の声に、ビクッとゼロの肩が跳ねる。イネラも、伏せていた顔を微かに上げた。
「俺は過去に、お前たちを救うためだと言い聞かせて、お前たちの選択を奪った。数時間前も同じだ。被害を減らすという正しい結果のために、イネラの意思を無視して死地へ配置した。……結果が正しければ、他人の意思をただの数字として扱ってもいい。俺のその傲慢な計算式が、アインのやり方と何が違うのか、今はもう分からない」
俺は血の滲む手で、自分の左手首にある完全な『Σ』の紋章を抑えた。
「だから、俺が答えを決めるのはこれで終わりだ。アインを止めるか、逃げるか、それとも他の道を探すか。……お前たちが、自分で選んでくれ」
冷たい風が吹き抜ける。
沈黙が落ちた。俺はどんな罵倒も、決別も受け入れる覚悟だった。
やがて、瓦礫に背を預けていたイネラが、痛む身体を庇いながらゆっくりと立ち上がった。彼女の紫色の瞳には、まだ俺に対する怒りと悲しみが残っている。
「……あなたは本当に、計算ばかりで人の心が分かっていないわね」
イネラはかすれた声で言い、視線を広場を埋め尽くす感情のない市民たちへと向けた。
「私が怒っているのは、あなたが理由もなく私たちを消したからじゃない。私の『助けたい』って意思を、あなたが最初から存在しないものとして扱ったからよ。……でもね」
彼女は、血に汚れた手で自身の曲線状の紋章を握りしめた。
「他人に運命を決められることの恐ろしさは、私が一番よく知っている。この人たちが、アインの都合のいい計算の歯車にされているのを、黙って見過ごすことなんてできない」
「イネラ……」
「私は、私自身の意思で、アインを止めるわ。あなたがどうであれ関係ない」
その毅然とした言葉に、俺の奥底で張り詰めていた糸が微かに震えた。
すると、物陰に隠れていたゼロも、おずおずと前に進み出てきた。
「俺も……怖いよ。またシグに消されるかもしれないって思うと、足がすくむ。でも……」
ゼロは、感情を失った子どもたちが、親の手も握らずに機械のように歩き出している姿を指差した。
「あんな風に、何も感じなくなるのが『生き残る』ってことなら、俺は嫌だ。美味しいお肉を食べて笑いたいし、怒りたい。俺も、戦うよ。シグに言われたからじゃなく、俺がそうしたいからだ」
「左右は等しくなければならない。片方だけが意志を奪われるなど、最も醜悪な不均衡だ」
崩れた地下への階段から、イクアが王女セレナ、そしてミラと共に地上へと姿を現した。
イクアの言葉に、セレナが深く頷く。
「ええ。この国の民の尊厳を取り戻さなければ、王家が存在する意味もありません。……シグマ殿、あなたはどうしますか?」
全員の視線が俺に集まる。
仲間たちが、それぞれの理由で、明確に同じ目的を選び取った。
ならば、俺のやるべき仕事は一つだ。
「俺は、お前たちが選んだそのバラバラの意志を、一つもこぼさずに束ねる」
俺が答えると、イネラは小さく息を吐き、ゼロは少しだけ安心したように表情を緩めた。
わだかまりが完全に消えたわけではない。だが、今は同じ目的に向かって進むことができる。
「アインの中央式から民衆を切り離すには、王都の四方に建てられた『地方塔』を止める必要があります」
セレナが広場の瓦礫の上に王都の地図を広げ、四つの地点を指し示した。
「北の農業塔、東の鉱山塔、西の貴族塔、南の水運塔。これらが巨大な杭となって、王都全域の地脈と民衆の意識をアインのいる中央の神託塔へ繋ぎ止めています。この四つを同時に沈黙させなければ、無限神託は解除できません」
「四箇所同時か。俺たち五人と、セレナたち協力者で手分けをするしかないな」
イクアが戦力を分析する。誰がどこへ向かうか。
俺は口を挟みそうになるのをこらえ、一歩引いた。
「役割は命じない。それぞれの特性を見て、自分で持ち場を選んでくれ」
俺の言葉に、仲間たちは少しの議論を交わし、すぐに担当を決定した。
イネラが北の農業塔へ。ゼロが東の鉱山塔へ。イクアとセレナが西の貴族塔へ。ミラが避難している村民たちを率いて南の水運塔へ向かうことになった。
そして俺は、中央の神託塔に最も近いこの広場に残り、全体の戦況を支える役割を担う。
「もう一つ、先に済ませます」
セレナは王家の印章を使い、四区画の非常用穀倉と救護所の封印を解いた。無限神託から目覚めた者が、食料や治療を失う恐怖だけで再び服従を選ばされないためだ。備蓄の場所と七日間の無償配給を、総和線から伝えられる短い告知文にまとめる。
領都で、三日分の飯と家賃がなければ毒薬を捨てられないと叫んだ男の顔を思い出した。心を起こすだけでは、選択を取り戻したことにはならない。選んだ後を生き延びられる足場も必要なのだ。
「距離が離れれば、連携が取れなくなるわ。どうするの?」
イネラの問いに、俺は左手首のΣの紋章に右手を添えた。
熱を帯びた完全な文字。俺は目を閉じ、これから四方へ散る仲間たち、そして自ら戦うことを選んでくれたミラやセレナたちの存在を強く意識した。
「俺の力で、全員を繋ぐ」
淡い金色の光の糸が俺の紋章から伸び、イネラたち全員の手首へと巻き付いた。
強制的な支配の線ではない。これはただの『計算の共有』だ。
「名付けて『総和線』だ。この糸は、お前たちの内心の思考や、見ている映像は一切共有しない。お前たちの心はお前たちのものだ」
俺は総和の能力の焦点を極限まで絞り込み、条件を厳密に設定した。
「俺の頭に送られてくるのは、お前たちの現在位置、残存魔力の数値、肉体の消耗度合いという客観的な『数字』だけだ。そして、短い音声だけを相互にやり取りできる」
「映像も見えないのに、状況が分かるの?」
「数字の増減を見れば、そこで何が起きているかくらい計算できるさ。お前たちの力が足りなくなった時、俺が他の場所から余剰の力を回して合計する。……俺がお前たちを操るんじゃない。俺という演算器を、お前たちが好きに使え」
支配ではなく、対等な接続。
俺の意図を理解し、イネラは「生意気な計算機ね」と微かに口角を上げた。ゼロも手首の光の糸を珍しそうに触っている。
「では、行きましょう。我らの自由を取り戻すために」
セレナの号令と共に、仲間たちが王都の四方へと駆け出していく。
俺は一人、崩落した広場の瓦礫の上に立ち、左手首の熱に意識を集中させた。四本の線から、確かな鼓動と数字が伝わってくる。
周囲では、感情を失った民衆たちが、瓦礫を素手で退け、アインのための新たな道を整備するという無意味な作業を黙々と続けている。その瞳には、もはや一欠片の迷いも残されていない。
無限の恩恵という名の絶対的な支配。
だが、それでも。どんなに絶望的な状況であろうと、自ら選び取った彼らの意志がある限り、俺は何度でもその小さな数字を数え上げる。




