第34話「忘れられた数学記号」
血に濡れたイネラの身体を抱きしめたまま、俺は声にならない絶叫を上げていた。
彼女の血を吸い、俺の左手首で完全な『Σ』の文字として焼き付いた真理紋。それが鍵となり、分厚い壁に塞がれていた過去の記憶が、荒れ狂う津波となって俺の脳髄を容赦なく打ち据えた。
――果てしなく広がる、純白の無機質な空間。
そこに、俺たちは確かに存在していた。
小さな変化を果てしなく積み重ね、面積と体積を描き出す曲線『∫(インテグラル)』のイネラ。
どんな数字に掛け合わせても結果を無に帰す虚無『0(ゼロ)』の少年。
常に左右の事象を比較し、厳密な公平を保つ『=(イコール)』のイクア。
そして、あらゆる数字を飲み込み、際限なく拡張し続ける『∞(インフィニティ)』のアイン。
最後に、散らばった数え切れないほどの小さな要素を一つ残らず拾い集め、合計する『Σ(シグマ)』の俺。
この世界で得た能力は、偶然与えられた魔法ではなかった。離れた項を足すΣは力を総和し、連続する変化を扱う∫は時間を積算する。0は働いている術式を無へ戻し、=は二つの同種量を釣り合わせ、∞は始まった増加を終わりなく延ばす。記号として担っていた仕事が、真理紋を通じてこの肉体の力へ翻訳されていたのだ。
俺たちは人間ではなかった。世界を背後で支え、事象を正しく測るための概念――数学記号そのものだった。
だが、その空間の中で、俺たちの身体は半透明に透け、輪郭を失いかけていた。
『数字なんて役に立たない』
『こんな記号、見るだけで嫌になる。人生で一度も使わない』
無数の人間たちの声が、空間に響き渡る。
彼らは、俺たちの意味を学ばなくなり、本質を理解することを放棄した。世界がどうやって成り立っているのか、その前提を確かめる努力を捨てたのだ。
概念は、人に認知され、使われることで存在を保つ。意味を忘れられた俺たちは、ただの「無意味な落書き」に成り下がり、静かに消滅の時を待つしかなかった。
『なぜだ……! 私が、私がどれだけ彼らの社会の背後で働いていると思っている!』
消えゆく身体を見つめながら、俺は歯を食いしばっていた。
病人に投与される薬の限界量。崩落を防ぐための橋梁の強度計算。気象の変化。事故の確率。
人間たちが意識すらしない裏側で、俺たち記号は絶え間なく計算を続け、彼らの命を支えてきた。感謝など求めていなかった。ただ、必要な仕事だから黙々とこなしてきた。それなのに、嫌悪され、不要だと切り捨てられる。
それは、まさにあのフェル村や、この王都の地下区画で虐げられていた平民たちと同じ、理不尽な切り捨ての光景だった。
静かな受け入れ。あるいは悲哀。仲間たちが消滅へと向かっていく中、ただ一人、激しく怒り狂い、その運命を強烈に拒絶した男がいた。
『認めない……! 我々が忘れられ、消え去るなど、絶対に許さない!』
アインだ。彼は己の身体が崩れ去るのを無限の拡張力で無理やり引き留め、血走った目で俺たちを見回した。
『彼らが判断を放棄したというのなら、我々だけで自動演算機構に永久接続し、機能だけでも永遠に残す! 人間が何も考えずとも、我々が答えを与え続ければいい! 使われ続けることこそが、我々の生存なのだ!』
アインは、人格や意思を失ってでも、ただ計算機としての機能だけを維持して生き延びようと狂乱していた。
そして、光り輝く巨大な『接続の線』が、俺たち全員を縛り上げようと伸びてきた。
俺の右手は、その線を掴んでいた。
仲間たちが、意思を示すこともできずに消えかかっている中で。
俺は、その生命線とも言える接続を、自らの意思で完全に断ち切った。
その直後、俺たちは一度完全に消滅し、世界式の崩壊を防ごうとしたこの異世界に、不完全な記憶のまま転生させられたのだ。
「……はぁっ、はぁっ!」
視界が明滅し、俺は崩壊した広場の現実へと乱暴に引き戻された。
肺が焼け付くように痛い。全身が汗と泥に塗れ、腕の中には重傷を負って気絶したイネラがいる。
正体は分かった。世界を支える記号としての誇りも、アインが生き延びるために人間を支配しようとしている動機も理解できた。
だが。
一番肝心なことだけが、まだすっぽりと抜け落ちている。
なぜ俺は、あの時、仲間が完全に消滅すると分かっていながら、アインの用意した生存への接続を切り捨てたのか。
『私まで、ただの一項にしないで』
先ほどイネラに突きつけられた非難の言葉が、耳の奥で残酷に反響する。
俺は、全体最適という正しさのために、彼女の意思を無視して死地へ送り込んだ。
過去の俺も、それと同じことをしたのではないか?
自分の信じる「正しさ」のために、仲間の生存の意思を計算から除外し、独断で彼らを消去するという最悪の選択を下したのではないか。
「……その通りだ、シグマ」
瓦礫を踏み砕く重い足音が、すぐそばまで近づいていた。
顔を上げると、亀裂で分断された広場の向こう側から、純白の法衣を風に靡かせたアインが、悠然とこちらを見下ろしていた。
彼の背後では、無限の物質拡張の反動で王都の地盤が崩れ続けているというのに、彼自身は一片の傷も負わず、ただ冷酷な瞳で俺を射抜いている。
「まだ現実から目を背けるか。自分が犯した大罪の理由を、無意識の底に封じ込めたまま、正義の指揮官気取りでいるつもりか?」
「アイン……ッ!」
「お前は他人の小さな力を集めることは得意だが、自分自身の決定から生じる痛みを引き受ける覚悟がない。だから、都合よく記憶を失ったのだ」
アインが右手を高く掲げた。
彼の頭上に、空間そのものを歪めるような莫大な魔力が無限の渦となって収束していく。
「逃がしはしない。最後まで思い出せ、シグマ。お前が私たちの未来に対して、何を計算し、何を選んだのかを!」
アインの腕が振り下ろされた瞬間、物理的な攻撃ではなく、極度に圧縮された『記憶の奔流』が、不可視の衝撃波となって俺の脳髄を直接貫いた。
抗うことはできなかった。
欠落していた最後のピース。俺が自動演算機構への接続を断ち切った、その真実の理由が、一切の言い逃れを許さない鮮明さで、俺の魂を真っ二つに引き裂こうとしていた。




