第33話「私まで、ただの一項にしないで」
足元の大地が、まるで薄い布のように真っ二つに引き裂かれた。
無限聖人アインが引き起こした、常軌を逸した物質拡張。その莫大な魔力抽出の反動に地脈が耐えきれず、王都の中心である広場の岩盤が完全に崩壊したのだ。
轟音と共に、亀裂は巨大な口を開けた奈落へと変貌する。
つい数秒前まで無限の奇跡に狂喜していた数万人の市民たちは、今度は足場を失い、悲鳴を上げながら次々と暗い地の底へと滑り落ちていく。
「ひぃぃっ! 助けてくれっ!」
「落ちる、落ちるぅぅっ!」
土煙と絶叫が視界を埋め尽くす。
恐怖で思考を止めた群衆のパニックは、被害を幾乗にも拡大させていく。俺の脳は、この地獄のような光景を前にしてもなお、本能的に極めて冷徹な「計算」を始めていた。
――全体被害を、最小化する。
そのためには、誰をどこに配置し、どの能力をどのように使わせるかが重要だ。俺は一瞬で崩落のベクトルと速度を数値化し、最適解を弾き出した。
「ゼロ! 広場の東側へ走れ! 亀裂が走る先端の岩盤に触れ、崩壊を推し進めている余剰魔力だけを『零化』して進行を食い止めろ!」
「わ、わかった!」
ゼロが脱兎のごとく駆け出す。
「イクア! 西側の地盤が今にも滑り落ちる。お前の『均衡』で、崩れかけの地盤の負荷を、背後の神託塔の基礎部分へと移し替えろ!」
「承知した!」
イクアが双剣を抜き放ち、強固な岩盤へ向かって跳躍する。
二人を適所に配置した俺の視線は、広場の中央――最も亀裂が深く、今まさに巨大な岩の塊が崩れ落ちようとしている『最危険区画』へと向けられた。
そこには、親とはぐれた数人の幼い子どもたちが、泣き叫びながら逃げ惑っている。俺が走って助け出そうにも、距離が離れすぎている。物理的な速度が足りない。
だが、あそこに近い位置に、一人の能力者がいる。
「イネラ!」
俺は、先の地下区画での戦闘で魔力を著しく消耗し、肩で息をしている銀髪の相棒に向かって叫んだ。
「あの子どもたちがいる場所へ跳べ! お前の『積算』で、頭上の岩盤が崩れ落ちる時間を数秒だけ引き伸ばせば、子どもたちを外へ弾き出せる。行けるな!」
俺の言葉に、イネラは一瞬だけ、傷ついたような、悲しげな目を俺に向けた。
今の彼女の残存魔力と体力を考えれば、あの規模の岩盤の崩落を遅らせることは、死のリスクを伴う極めて危険な行為だ。
その危険は計算に入っていた。フェル村でリタを治した頃のように、負担の存在を忘れていたわけではない。領都の地下水路でイネラと交わした言葉も覚えている。
それでも、数秒ごとに死者が増える非常時の中で、古い思考が別の形で戻ってきた。危険まで把握した自分には、最も被害の少ない選択を代わりに決める権利がある――そう無意識に決めつけたのだ。
俺の式では、彼女を配置する以外に最危険区画の被害を止められない。だから本人の意思を確かめる一呼吸すら損失だと切り捨て、一方的に『指示』を下した。
「……ええ、行くわ」
イネラは短く答え、迷うことなく崩壊のただ中へと飛び込んでいった。
メキメキと音を立てて、数十トンもの岩盤が子どもたちの頭上へと崩れ落ちていく。イネラはその真下へ滑り込み、両手を天へと突き出した。
「対象指定……岩が落ちる、時間……っ!」
イネラの曲線の紋章が、血を吐くような強烈な紫の光を放つ。
彼女の『積算』は、落下を止めも逆転もできない。今まさに進んでいる落下を細かな段階へ分け、本来一瞬で起きる変化を数秒へ引き伸ばした。岩盤の質量と落下距離は消えず、その遅延分の負荷をイネラが受け続ける。確保された、わずかな空白。
イネラはその隙に子どもたちの襟首を掴み、亀裂の外の安全圏へと次々に放り投げていく。
一人、二人、三人。
全員を投げ出した直後。彼女の魔力が完全に底を突き、光が弾け飛んだ。
「イネラッ!!」
遅延を失った岩盤が、容赦のない速度と質量を取り戻し、彼女の細い身体を完全に飲み込んだ。
ズゴォォォォンッ!!
地響きと共に土煙が上がり、最危険区画が完全に崩壊する。
ゼロが進行を止め、イクアが負荷を分散させたことで、広場全体の崩壊はようやく連鎖を止めた。だが、俺はそんな結果の数字など見向きもせず、瓦礫の山へと狂ったように走り出していた。
「イネラ! おい、イネラ!」
俺は血の気が引くのを感じながら、素手で巨大な瓦礫を退けていった。爪が割れ、指先から血が流れるのも構わない。
やがて、土砂と岩の隙間から、血に染まった銀色の髪が見えた。
岩盤の直撃は奇跡的に免れていたものの、崩れた石柱の下敷きになり、イネラの足や肩からは痛ましい量の血が流れ出していた。
「しっかりしろ! 今、岩を退ける……っ」
俺が総和の力で自身の腕力を引き上げ、彼女の上にのしかかっていた石柱を退かして抱き起こす。
イネラは痛みに顔を歪め、荒い呼吸を繰り返しながら、うっすらと目を開けた。
「……子どもたちは、無事……?」
「ああ、無事だ。お前のおかげで、被害は計算通り最小限で済んだ」
俺が安堵からそう答えた瞬間だった。
イネラが、血に濡れた手で、俺の胸ぐらを弱々しく掴んだ。
「……計算通り? それが、あなたの出した答えなの?」
彼女の紫色の瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、泥だらけの頬を伝った。
「あなたはいつもそう……。全体の被害を少なくするために、一番正しい答えを瞬時に弾き出す。……でも、どうして『私が行くかどうか』を、私に選ばせてくれなかったの?」
「……っ」
「私だって、あの子たちを助けたかった。自分で選んで、助けに行きたかった……。なのにあなたは、正しい結果のためなら、私の意思なんてどうでもよかったのよ……!」
イネラの涙声が、俺の胸を鋭い刃で抉った。
領都で、情報だけでは選べない人がいると知った。イネラとの約束で、負担を数えることも覚えた。
だが俺は、その学びを「ならば事情も危険もすべて把握した自分が、最適な配置を決めればいい」と歪めていた。古い思考を捨てたのではなく、より精密な計算で覆い隠しただけだったのだ。
それは、神殿が市民の人生を勝手に決定づけていたことと、一体何が違うのか。
「私まで……私まで、あなたの計算式のただの一項にしないで……っ」
イネラはそう言い残し、痛みに耐えきれずに意識を手放した。
胸ぐらを掴んでいた彼女の手が滑り落ちる。
俺は、血まみれの彼女を抱いたまま、凍りついたように動けなかった。
俺の計算は完璧だったはずだ。だが、全体最適という絶対的な正しさを優先した結果、俺は他人の『意思』という最も重要なものを切り捨て、一番大切にしなければならない相棒をこんなにも深く傷つけてしまった。
ぽたり、と。
イネラの指先から滴り落ちた鮮血が、俺の左手首に落ちた。
血が皮膚に触れた瞬間、ジジジッ、と紋章が熱を帯びて焼き付くような音がした。
視線を落とす。
これまでどこか不完全な形をしていた真理紋が、イネラの血を吸い込むようにして変形し、はっきりとした、完全なる『Σ』の文字へとその姿を変貌させていた。
――お前が、私たちの未来を切ったのだ。
アインの言葉が蘇る。
他人の意思を奪い、自分の正しさだけで結果を決定づける罪。
この完全な記号の形が、かつて俺が犯した恐ろしい過ちの正体を、残酷なまでに明確に示唆していた。




