第32話「足し算では何も生み出せない」
王都の中心、天を突くようにそびえ立つ白亜の神託塔。
その前に広がる大広場は、足の踏み場もないほどの人波で埋め尽くされていた。俺へ向けられる数万の視線は、どれも氷のように冷たく、あるいは燃え盛るように熱い敵意に満ちている。彼らにとって俺は、聖人アインがもたらす『無限の奇跡』を壊そうとする忌まわしき異端者だ。
だが、改革派の王女セレナが王族の権限と近衛兵を動員し、強引にこの「公開検証」の場を設けたことで、誰も俺に直接手を出すことはできずにいた。
「これより、過去数十年にわたり神殿が隠蔽してきた、神託の真の計算式を公開する」
俺は塔の記録庫から持ち出された分厚い帳簿の山を前に立ち、魔力拡声器を通して広場全体へ声を響かせた。
騒ぎ立てようとする群衆を、横に立つイクアが鋭い視線と双剣の威圧感で黙らせる。
領都で学んだ。証拠だけで全員の心を変えられるとは考えていない。セレナには神殿倉庫の備蓄を開かせ、イネラには治療所を用意してもらっている。今日の目的は説得だけではない。神託が実際に出した答えを公の記録にし、隠した者へ責任を負わせることだ。
俺は手元の羊皮紙を掲げ、読み上げた。
「まずは『食料』だ。神託は十年前から、祝福税をこの比率で続ければ五年以内に備蓄が不足し、地下区画の死亡者が増えると三度警告している。だが、公表された神託文からは、その警告だけが削られた」
広場が微かにざわめく。俺は次のページを開いた。
「次に『死者』だ。ここに神託の原文と、民衆へ読み上げた写しがある。原文には地下区画の過労死、貧民街の流行病、難民の死亡予測が記されている。写しでは、数字だけでなく段落ごと消されていた」
俺は帳簿を閉じ、群衆を真っ直ぐに見据えた。
「今回は、神託が弱者を数えなかったんじゃない。神託が数え、警告した被害を、上層部が読ませなかった。都合の悪い答えは、最初から存在しなかったことにされたんだ」
証拠は神殿内部の原本そのものだ。
前方の市民たちの顔に、動揺と戸惑いが広がる。誰もが自分たちの足元が、誰かの犠牲という血塗られた土台だったことに気付き始めていた。
「――その通り。かつての神託は、有限の資源をやり繰りするための不完全な計算機だった」
動揺する群衆をかき分け、純白の法衣を纏った男が静かに進み出てきた。
神殿最高位、無限聖人アイン。
彼は俺が突きつけた警告の隠蔽を否定するどころか、慈愛に満ちた笑みを浮かべてあっさりと肯定した。
「だからこそ、私が必要なのだ。一部の者を切り捨てなければ成立しなかった悲しい過去を終わらせるために、私は『無限神託』を始めたのだから」
「詭弁だ。お前の無限は、大地の命を未来から前借りしているだけの――」
「総和よ」
俺の言葉を遮り、アインは憐れむような目で俺を指差した。
「君の力は『足し算』だ。他人の力をかき集め、合計するだけで、君自身の手では何一つ、たった一つのパンの欠片すら生み出すことはできない。……足し算では、新しいものは何も生み出せないのだよ」
「っ……」
「そんな空っぽの力で、君はこの飢えた数万の民に、どうやって明日の希望を与えるというのだ? 正しい過去の数字を並べ立てれば、彼らの腹が膨れるとでも?」
アインが両手を天に掲げる。
次の瞬間、彼の足元から凄まじい光が溢れ出した。
焼き立てのパン、芳醇な香りを放つ肉、そして高純度の魔力を宿した最高級の『治療魔石』が、まるで泉から湧き出るように無限に増殖し、広場の石畳を埋め尽くしていく。
「おおおっ……!」
「聖人様! 無限聖人様!」
群衆の動揺は、別の方向へ傾いた。
原本を見て神殿へ怒りを向ける者もいる。セレナが開かせた有限の備蓄へ並ぶ者もいる。だが、今まさに腹を満たし、傷を癒やすアインの品へ向かう者が圧倒的に多かった。
領都とは違う。彼らは事実を否定しているだけではない。アインは、長期的な破滅と引き換えに、目の前の人間を本当に救っている。俺たちが用意した有限の代案は、量でも速さでも無限に及ばない。
「セレナ、治療魔石は検査が済むまで使わせるな! 食料は止めなくていい。受け取った者の名と量を記録しろ!」
俺は立ち尽くさず、次の指示を飛ばした。群衆がアインを選ぶ可能性は計算していた。だが、救済そのものを人質に取られた時、有限の俺たちがどう対抗するか。その答えまでは用意できていなかった。
「これが現実だ、シグマ。人間は正しさなど求めていない。ただ、満たされたいのだ」
狂乱する群衆の只中で、アインが幻のように俺の目の前に歩み寄ってきた。
彼は喝采の中で一度だけ目を閉じた。その表情は勝者の余裕というより、自分の名を呼ぶ声が消えていないことを確かめる安堵に見えた。
そしてすれ違いざま、俺の耳元に唇を寄せ、氷のように冷たい声で囁いた。
「あの時、お前が自動演算機構への接続を切らなければ。我々記号は人格を失っても、静かにこの世界を支え続けることができた。お前が、私たちの未来を切ったのだ」
ドクン、と心臓が跳ね、過去の罪悪感が重い鉛のように俺の喉を塞いだ。
否定できない。俺は彼らの同意なしに、その線を断ち切ったのだから。
俺が言葉を失い、アインが勝利の笑みを浮かべて背を向けた、その直後だった。
ゴゴゴゴゴゴゴォォォォンッ……!!
突如として、王都の巨大な地盤そのものが、下から激しく突き上げられるような凄まじい鳴動を起こした。
「きゃあっ!?」
「な、なんだ! 地震か!?」
狂喜していた群衆が次々と体勢を崩し、パンや魔石が石畳の上を転がっていく。
俺の左手首の紋章が、警告を通り越して火傷しそうなほどの熱を発していた。計算するまでもない。
アインが民衆の支持を奪還するために、一瞬で莫大な量の物質を無限拡張した。その常軌を逸した「吸い上げ」の反動が、ついに王都の地下を巡る地脈と岩盤の限界強度を食い破ったのだ。
バリィィィィィィッ!!
耳を劈くような岩の断裂音。
次の瞬間、神託塔の前庭から広場の中央にかけて、大地が真っ二つに割れ、底が見えないほど深く巨大な「亀裂」が口を開けた。




