第31話「神託は間違っていない」
崩れ落ちた地下水路の石壁。もうもうと舞い上がる土煙の中で、深いフードを下ろした女性――王女セレナは、俺を真っ直ぐに見据えていた。
「どうか、私と秘密の会談をしていただきたい。この狂った王都の神託を、根底から破壊するために」
その言葉に、周囲の空気はピンと張り詰めた。
地下の労働者たちは、突然現れた高貴な身分の女性に戸惑い、息を潜めている。神殿の異端審問官としての立場をたった今捨てたばかりのイクアも、双剣を鞘に収めながらも、油断なくセレナの動向を窺っていた。
アインが地上で宣言した『無限神託』。
すべての民衆が思考を放棄し、神殿から与えられる無限の奇跡に溺れ、依存しきっている現状を、王家の一部である彼女は強い危機感を持って見つめているようだった。
「……場所を変えよう」
俺が短く応じると、セレナは静かに頷き、俺たちを地下区画の奥にある管理用の空き部屋へと案内した。イネラがミラたち労働者の安全を確保し、ゼロとイクアも同席する。
ランプの灯りだけが揺れる薄暗い部屋で、セレナは単刀直入に切り出した。
「単刀直入に言いましょう。アインの宣言した『無限神託』は、一見すると完全な救済に見えますが、必ずこの国を破滅に導きます。私は王族として、人々から判断を奪うこの仕組みを止めなければならない」
「奇遇だな。俺もあの計算式を放置する気はない」
「であれば、利害は一致しています」
セレナは身を乗り出し、俺の目を見た。
「あなたたちの領都での働きは調べがついています。神託が弾き出した答えの矛盾を突き、隠された被害を明るみに出した。あの力を使い、王都の広場でも『神託が間違っていること』を民衆の前で証明してほしい。神託の絶対性を物理的に破壊し、神殿の権威を失墜させるのです」
期待に満ちたセレナの提案。
だが、俺は微かにも迷うことなく、首を横に振った。
「断る。神託を破壊するだけでは、別の権威を生むだけだ」
「……何ですって?」
セレナが驚きに目を丸くする。俺は腕を組み、冷ややかな声で続けた。
「考えてもみろ。今まで自分の人生の選択をすべて神託に依存してきた連中から、いきなりその柱を叩き壊して奪い取ったらどうなる? 彼らは自分で考えることを取り戻すんじゃない。パニックになり、次にすがる『間違えない権威』を探すだけだ。それがお前のような王家になるか、別の権力者になるかの違いでしかない」
俺は、あの広場で自分が手で毒を与えた現実から目を背け、狂気に走った男の顔を思い浮かべていた。
正しい情報をぶつけて仕組みを壊すだけでは、人は動かないのだ。
「それに、神託そのものは『間違っていない』」
「間違っていない? 現に、領都の薬害やこの地下の惨状を引き起こしているのですよ?」
「いいや、計算機としては正しいんだ。入力された条件の中だけで言えばな」
俺は机の上に視線を落とした。
「問題は、入力条件だけじゃない。古い答えを今も有効だと使い回し、基準値を一律命令へ変え、予測を義務として押しつけ、都合の悪い結果は記録から消す。神殿は神託の前後にある判断を隠し、最後に出た短い文だけを女神の命令として見せている」
神託そのものが悪なのではない。それを運用し、条件を秘匿している人間に問題があるのだ。
「だから、破壊はしない。必要なのは『公開検証』だ」
「公開、検証……?」
「ああ。入力条件だけでなく、神託の原文と日時、その答えを誰がどう解釈し、実行後の被害をどう記録したかまで白日の下に晒す。神託を全否定するのではなく、答えの前後にある人間の判断を公開させ、その結果に人間が責任を持つ制度へ移行させるんだ」
俺の言葉に、隣で聞いていたイクアが深く頷いた。
「総和の言う通りだ。条件が隠されていては、天秤は正しく釣り合わない。真の公平とは、結果を等しく与えることではなく、条件を公開し、選んだ者が引き受けることなのだから」
セレナはしばらく絶句していたが、やがてふっと、口元に自嘲するような笑みを浮かべた。
「……恐れ入りました。私はただ、神殿という権力を叩き壊すことしか考えていなかった。破壊ではなく、条件公開と責任の制度化。……単なる反逆者かと思えば、あなた方は恐ろしく理路整然としている」
セレナの表情から、王族としての取り繕った硬さが消え、本気の協力者の顔へと変わった。
「分かりました。公開検証の場は、私が王族の権限を用いて強引に設けましょう。塔の前の大広場に神殿の上層部を引きずり出します。……ただし、これは巨大な賭けです」
「失敗すれば異端として即刻処刑、というやつか?」
「ええ。ですが成功すれば、私は王女の名において、塔に秘匿されているすべての記録の公開を約束します」
交渉は成立した。俺が立ち上がろうとした時、セレナは「それと、もう一つ」と言って、懐から古びた羊皮紙の束を取り出した。
「あなたが何者なのかは深くは聞きません。ですが、これを。王家の古い地下書物庫から見つけ出した、過去の伝承の断片です」
俺が羊皮紙を受け取ると、そこには古びた文字で、奇妙な記録が書き記されていた。
世界の裏側で事象を計算していた者たちの伝説。
そして、そのページの一番最後に書かれていた一文。
『――総和が、接続を断った』
その文字列を見た瞬間。
ズキリ、と、頭蓋骨の裏側を氷の刃で貫かれたような激しい痛みが弾けた。
「シグ!?」
イネラの声が遠のく。視界が明滅し、再びあの純白の空間がフラッシュバックする。
俺の右手が、真っ直ぐに虚空へと伸ばされていた。
その先にあるのは、太く輝く光の線。俺たちの存在を自動演算機構へと繋ぎ止める、命綱のようなもの。
俺は、その線を前にして、確かな『感触』を覚えていた。
誰に強制されたわけでもない。事故でもない。
俺自身の意思で、俺自身の判断として。
俺の手が、その接続を完全に断ち切る感覚が、手のひらに生々しく蘇ったのだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
現実に戻った俺は、羊皮紙を握りしめ、額から冷や汗を流して荒い息を吐いていた。
間違いない。俺が切ったのだ。
だが、なぜ俺は、仲間全員が消滅すると分かっていながら、あんな真似をしたのか。
その最も重要な「計算の理由」だけが、まるで分厚い黒い幕に覆われているように、どうしても思い出せなかった。
「シグ、大丈夫……?」
心配そうに顔を覗き込むイネラに、俺は片手を上げて制した。
今は、過去の罪悪感に浸っている暇はない。アインの狂った計算を止めるための、大舞台が待っているのだから。




