第26話「無限聖人の祝福」
灰色の雨雲が途切れ、王都の巨大な白い城壁が視界に広がった時、俺たちは思わず足を止めた。
地滑りや魔物騒ぎで発生した数千人の難民が押し寄せ、城門前は阿鼻叫喚の地獄になっていると計算していた。だが、現実は全く違っていた。
怒号も、悲鳴も、飢えに苦しむ者のうめき声も存在しない。
広大な城門前の広場を包み込んでいたのは、異様なほどの熱狂と、神を讃える歓喜の声だった。
「おお……女神様、聖人様……っ!」
「これで子どもが飢えずに済みます!」
広場の中央。泥だらけの難民たちが取り囲むその中心に、純白の法衣を纏った背の高い男が立っていた。
男が、手に持ったたった一つの丸いパンを高く掲げる。
次の瞬間、そのパンの表面が波打ったかと思うと、音もなく二つに分裂した。二つが四つに、四つが八つに。それはまるで黄金の滝のようにとめどなく溢れ出し、男の足元に瞬く間に数千人分の食料の山を築き上げていく。
パンだけではない。毛布、薪、怪我を治すための薬液の瓶。
男が視線を向け、手をかざすだけで、あらゆる物資が「無尽蔵」に湧き出していた。
インチキでも幻覚でもない。難民たちは実際にそのパンを頬張り、毛布にくるまり、満面の笑みを浮かべて命を繋いでいる。
一人の母親が食料だけを抱え、礼を言う余裕もなく子供のもとへ走った。その時、男の指先がほんの僅かに強張った。だが周囲から「アイン様」「無限聖人様」と名を呼ぶ歓声が上がると、すぐに穏やかな笑みへ戻る。
救われた人数ではなく、自分の名が呼ばれているかを確かめたように見えた。
「……すげえ。あれ、全部本物の肉とパンだ……」
ゼロが目を丸くし、呆然と呟く。無理もない。
俺が昨日、兵士や商人たちと交渉し、彼らの善意をかき集めてようやく作り出した「千人が一日を生き延びるための熱量」。この男は、それをたった数秒で、しかも何の代償も要求せずに配り歩いているのだ。
だが。
俺の左手首のΣの紋章が、警告を鳴らすように激しく熱を持った。
俺の『総和』の知覚は、視界に映る華々しい奇跡ではなく、その足元――王都の大地全体から悲鳴のように伝わってくる「マイナスの数字」を正確に弾き出していた。
「……狂ってる」
俺は冷や汗を流し、その男を睨みつけた。
何もないところから物質は生まれない。この男の能力は「無から有を生み出す」のではなく、「今あるものを際限なく拡張する」力だ。
増殖魔石と同じだ。その莫大な拡張エネルギーの代償として、男は王都周辺の地脈が持つ自然の魔力と生命力を、制御不能な速度で吸い上げ、食い潰している。
今はいい。だが、この異常な吸い上げを続ければ、遠からず王都の土は完全に死に絶え、数十年、いや数年後には草木一本生えない不毛の荒野と化すだろう。
「――やはり、君には私の声が不協和音に聞こえるか」
不意に、増殖の滝を止めた男が顔を上げ、数千の群衆越しに俺を真っ直ぐに見つめた。
群衆が、見えない力に押されるように左右へ割れ、一本の道を開ける。
純白の法衣の男が、静かに俺の目の前まで歩み寄ってきた。彼の瞳は、どこまでも深く、底が見えない。
「よく来たな。ずっと待っていたぞ、総和よ」
シグマ。
俺の本当の名前。その言葉を聞いた瞬間、脳裏の欠落した記憶が再び鋭く疼いた。純白の空間に立っていた、無限に拡張し続ける男の影。
彼がアイン。神殿最高位の『無限聖人』であり、かつての俺の……。
「……お前が、あの鉱山に増殖魔石を仕掛けた張本人だな、アイン」
俺は警戒を解かず、低い声で問い詰めた。
「人聞きの悪いことを。あれは人々に富を与えるための小さな種に過ぎない。君が昨日、街道でかき集めた有限のパンの欠片は確かに尊いが、それでは彼らを永遠に救うことはできないだろう?」
アインは優雅に両手を広げ、腹を満たして笑い合う難民たちを示した。
「見ろ、シグマ。彼らはもう、明日の飢えを恐れる必要はない。私の『無限』があれば、誰かが誰かのために少ない食料を我慢し、痛みを引き受ける必要はないのだ。神託が誰を救うべきか完璧な答えを与え、私が無限の資源を与える。誰も迷わず、誰も切り捨てられない、これこそが完全な秩序だ」
「詭弁だな。お前が吸い上げている大地の魔力残量を計算してみろ」
俺は一歩踏み出し、アインを睨みつけた。
「このまま拡張を続ければ、数年後には地脈が完全に枯渇し、この国は人間が住めない死の土地になる。お前の無限は、未来の命を前借りして燃やしているだけの時限爆弾だ」
俺の指摘に、アインは表情一つ変えず、ただ慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「では、シグマ。未来の泥土を守るために、今ここで飢えに苦しみ、死にかけているこの数千人の人間を見殺しにするのが、君の正しい計算式か?」
「っ……」
「君は昨日、街道で飢えた者を見たはずだ。『未来の制度のために、今目の前の一人を見捨てるのか』。そう悩んだからこそ、君は彼らに有限の食料を分け与えたのだろう? 私と君で、一体何が違うというのだ」
俺は奥歯を強く噛み締めた。
アインの言葉は、ただの悪役の長広舌ではない。現に今、目の前の飢えた子どもたちが彼によって腹を満たし、救われているという事実は、どんな数字よりも重かった。
長期的な破綻が見えていても、短期的な巨大な救済を前に、それを「悪」だと即座に切り捨てるだけの論理を、俺は持ち合わせていなかった。俺自身が、誰一人切り捨てたくないという矛盾を抱えているからだ。
「さあ、戻ってこい、シグマ。君も私の一部となり、この終わらない楽園の計算を支えるのだ」
アインが、ゆっくりと俺に向けて右手を差し伸べた。
彼こそが、人間から判断を奪い、神託という答えだけを与え続ける国家の元凶。だが、同時に彼が作り出しているのは、誰も飢えない真の平和でもある。
俺がその矛盾に沈黙しかけた、その時だった。
「……ひっ、あ……」
隣に立っていたイネラが、ガチガチと激しく歯の根を鳴らしていた。
俺が振り返ると、彼女は自身の両腕を掻きむしるように抱きしめ、紫色の瞳を極限まで見開き、顔面を恐怖で引き攣らせていた。
彼女は、まるでこの世の最も恐ろしい存在を見るような目で、アインを……いや。
彼女が恐怖の目を向けていたのは、アインの手をとろうと沈黙していた『俺』の方だった。
「……イネラ?」
「やめて、シグ……っ! お願いだから、彼の言葉を聞かないで……!」
イネラは俺の腕を両手で強く掴み、爪が食い込むほどの力で引き戻そうとした。
彼女の声は、かつて神官に石を投げられた時よりも、遥かに深く、魂の底から絞り出すような悲痛な響きを帯びていた。
「また……私たちを、仲間を消すつもりか……っ!」
仲間を消す。
彼女のその一言が、俺の脳の奥にある分厚い壁を、ドゴン、と激しく叩き割った。
失われた記号。俺が断ち切った接続。
俺が過去に選んだ『計算』の真実が、アインの穏やかな微笑みとイネラの絶望の狭間で、ついにその輪郭を現そうとしていた。




