第25話「今この一人はどうする」
灰色の雲から落ちる冷たい雨が、街道を深いぬかるみへと変えていた。
鉱山から王都へと向かう道中、商人が言っていた異常な光景は、すぐに俺たちの目の前に現れた。
街道のど真ん中で、十台以上の巨大な幌馬車が数珠繋ぎになって立ち往生している。馬車に積まれているのは、王都へ向けて運ばれるはずの大量の穀物袋だ。
だが、その馬車の行く手を塞ぐようにして、数十人の難民たちが泥だらけの街道に倒れ込んでいた。先日の大規模な地滑りや、魔物の異常発生によって故郷を追われた者たちだ。彼らの頬はこけ、骨と皮ばかりになった腕を震わせながら、馬車の上に向けてすがりつくように手を伸ばしている。
「お願いだ……一口でいい。子どもだけでも、麦の粉を舐めさせてくれ……っ!」
血を吐くような懇願。だが、馬車を囲む武装した護衛の兵士たちと、指揮を執る下級神官は、冷酷に槍の穂先を難民たちへ向けていた。
「退きなさい! この穀物は、神託によって『北の砦に納めること』が確定している神聖な荷だ! 途中で一粒でも荷を下ろせば、神託への重大な反逆となる。お前たちの事情など知ったことか!」
神官が声を荒げる。だが、立ち往生が長く続いているせいで、幌馬車の上では雨漏りによって水気を吸った穀物が、すでに嫌な腐臭を放ち始めていた。
目的地に着く頃には、麦の半分は腐って使い物にならなくなっているだろう。それでも彼らは、目の前の飢えた命を救うことより、「神託で定められた目的地に運ぶ」という輸送命令を守ることを優先している。
「……ひどい。馬車の上で腐らせているのに、どうして分けてあげないのよ」
イネラが信じられないというように呟く。ゼロも、以前の自分を見るような暗い目で難民たちを見つめていた。
奪うことは簡単だ。俺の『総和』で彼らの腕力を束ねるか、ゼロの力で護衛の武器の加護を消し飛ばせば、数分で穀物を手に入れられる。
だが、俺の頭の中の計算式は、その強硬策がもたらす『次の結果』を冷徹に弾き出していた。
「行くぞ、イネラ、ゼロ」
俺は難民たちから視線を外し、馬車の脇を通り抜けようと歩みを出した。
「え……? シグ、素通りする気!?」
「ここで力尽くで麦を奪えば、荷を守れなかったあの護衛と神官は、神託の絶対法を破った罪で王都で処刑される。一時的に腹を満たすために、別の誰かの命をマイナスにする計算は破綻している」
俺は足を止めずに言い放った。
「根本の制度が狂っている以上、ここで暴れても意味がない。最優先すべきは、一刻も早く王都へ向かい、あのアホらしい神託の前提そのものを叩き壊すことだ」
それが、最も被害を少なくし、結果として最も多くの人間を救うための『全体最適』の答えだった。
だが。
「待ちなさいよ!」
イネラが俺の腕を強く掴み、強引にその足を止めさせた。
彼女の紫色の瞳が、怒りと悲しみに揺れながら俺を真っ直ぐに射抜く。
「王都で制度を変えるのは正しいわ。理屈は通っている。……でも!」
イネラは、泥の中で母親に抱かれ、ピクリとも動かなくなった幼い子どもを指差した。
「あなたが明日、王都で素晴らしい制度を作ってくれたとして……今、目の前で死にかけているこの一人は、どうするの?」
――今、目の前で死にかけているこの一人は。
その言葉が、俺の後頭部を鈍器で殴りつけたような衝撃を与えた。
息が詰まる。足元の泥が崩れ落ちるような錯覚を覚えた。
未来の多数を救うために、現在の一人を「仕方がない犠牲」として切り捨てる。
俺は、自分が最も嫌悪し、否定しようとしていた神託の冷酷な計算機と、全く同じ思考に陥っていたのだ。
「……っ」
俺は固く唇を噛み締め、イネラから視線を外した。
「……お前の言う通りだ。俺の計算間違いだ」
「シグ……」
「今日を生き延びさせられなくて、何が明日の制度だ」
俺は踵を返し、難民たちに槍を向けている兵士たち、そして同行している商人や旅人たちの前へと進み出た。
「おい、お前ら」
俺の低く通る声に、兵士たちが警戒して槍を構え直す。
「神託で定められた荷には触れない。荷を下ろせばお前たちの首が飛ぶからな。……だが、お前たち自身の『ポケットの中』はどうだ?」
「は?」
「法は破りたくない。だが、目の前で子どもが餓死していくのを黙って見下ろしているのも、寝覚めが悪いだろう」
兵士たちの顔に、微かな動揺が走る。彼らとて血の通った人間だ。飢えた難民を威圧することに、本当は耐えがたい罪悪感を抱いているのが、その強張った表情から読み取れた。
「少しでいい。お前たちが持っている個人の携帯食料、余分な軽食。それを俺に預けろ」
「……個人の荷物なら、神託の規定には触れない、か」
兵士の一人が槍を下ろし、迷った末に腰のポーチから干し肉の欠片を取り出した。
それを皮切りに、他の兵士たちも、立ち往生に巻き込まれていた商人たちも、次々とポケットから硬いパン、数粒の豆、乾燥した果実などを差し出し始めた。
彼らの中にある、「誰かを救いたいが、自分が罰されるのは怖い」という矛盾した感情。それをすくい上げ、制度の隙間を通すことで、明確な『同意』を引き出したのだ。
差し出された食料は、一つ一つは一口にも満たないちっぽけなものだった。
だが。
「……十分だ」
俺は左手首のΣの紋章を露わにした。
――総和。
彼らが自発的に差し出した微小な熱量、それぞれの「助けたい」という意思を、俺という演算器を通して一つの数字へと束ね上げる。
何十人もの小さな善意が合算され、それは難民全員が『今日一日』を生き延びるための、完璧で正確な生存エネルギーへと変換された。
「受け取れ。お前たちが、自分で噛み砕いて消化するんだ」
俺は束ねられた食料の総量を、難民たちの手のひらへと均等に分配していった。
水筒の水も集め、布と煮沸で濁りを除いた。イネラとゼロも配給の列を作り、弱った者から少量ずつ手渡していく。
難民たちが泥だらけの手でパンを握り締め、涙を流しながら咀嚼を始めた。死にかけていた子どもの頬に、微かな赤みが戻る。
今日という一日を救うこと。それなしに、明日を変える意味はない。
俺は小さく息を吐き、隣に立つイネラに視線を向けた。
「助かった。お前が止めてくれなかったら、俺はただの機械になるところだった」
「……どういたしまして。たまには、私に感謝しなさいよね」
イネラが少しだけ照れたように笑う。
難民たちが一息ついたのを見届け、俺たちは再び王都への道を急ごうとした。その時、食料を提供してくれた商人の中の一人が、俺に近づいて声を潜めた。
「あんたらのその不思議な力、大したもんだ。……だが、王都に行くなら気をつけるんだな。今の王都には、もっと凄い聖人様がいるって噂だぜ」
「聖人だと?」
「ああ。神殿の最高位にいるお方でな。何もないところから、穀物でも薬でも『無限』に増殖させて、難民たちに無料で配り歩いているらしいんだ。誰も見捨てない、本物の神の使いだってな」
無限に増やす。
その言葉が耳に入った瞬間、背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
無限(∞)。
フラッシュバックした記憶の断片。純白の空間で、あらゆる数字と事象を際限なく飲み込み、拡張し続けていた男。俺たちの存在が消え去ることを拒絶し、狂ったように叫んでいたあの姿。
俺の隣で、イネラが自身の腕を抱きしめ、ガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。彼女もまた、無意識の底でその単語に強烈な恐怖を覚えていたのだ。
「……また、仲間を消すつもりか……!」
イネラの掠れた声が、冷たい雨の音に溶けていく。
王都で待つ最大の敵。俺たちを「今度こそ」逃がさないと決めている存在の輪郭が、絶望的なほどの巨大さを持って、ついに明確に立ち上がっていた。




