第23話「ゼロを足しても変わらない」
「やめて! この子には何もしないで!」
「うるさい、黙っていろ!」
怒号と共に、屈強な男がマリアの髪を掴んで引き倒し、泣き叫ぶ幼いルークの首元に冷たい剣の刃を押し当てた。
天井の崩落から生き延びた歓喜に沸いていた坑道は、一瞬にして凍りついた。現れた鉱山の監督とその手下たちは、増殖魔石という金の卵を潰された怒りに目を血走らせ、明確な殺意を放っている。
「貴様ら……っ! 卑怯だぞ、女子供を盾にするなど!」
イクアが双剣を構えて声を荒げるが、手下の剣がルークの首の皮を薄く切り裂き、一筋の血が流れるのを見て、その足は床に縫い付けられたように止まった。
数百人の鉱夫たちも、家族を人質にとられては手出しができない。俺の『総和』で彼らの腕力を束ねたとしても、人質の首が刎ねられる速度を上回ることは物理的に不可能だ。
「はっ、威勢がいいのは口だけか、異端審問官殿」
監督は下劣な笑みを浮かべ、俺の背後にいる白髪の少年を指差した。
「そこの災厄のガキをこっちへ寄こせ。そうすれば、この親子の命だけは助けてやろう。……さあ、どうする?」
坑道に重苦しい沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、鎖の擦れる音だった。
「……いいよ、俺が行く」
先ほどまで「ちゃんと消せた」と子どもらしく笑っていたゼロの顔から、再びすべての感情が抜け落ちていた。彼は虚無の瞳で足元を見つめたまま、俺の横を通り過ぎようとする。
「待ちなさい、ゼロ!」
イネラが止めようとするが、少年は首を振った。
「俺が行けば、誰も死なないんだろ。いいんだ、どうせ俺は何も生み出せない、周りを不幸にするだけのマイナスだからさ」
「その通りだ」
監督が嘲るように鼻を鳴らした。
「魔石も富も力も、何一つ生み出さず、ただ他人の魔法を消すだけの欠陥品。どんな数字にも足し合わせることができない、まったくの無価値だ。お前のような存在は、深い地底の闇の中で鎖に繋がれているのがお似合いなのだよ」
無価値。欠陥品。
その言葉は、俺の頭の奥にこびりついている『嫌悪の声』と全く同じ響きを持っていた。
誰の役にも立たない。存在する必要がない。
俺は、ゼロの細い腕を無言でガシリと掴み、引き止めた。
「シグ……? 離してよ」
「お前の計算は間違っているぞ、監督」
俺はゼロを背後に庇うように立ち、真っ直ぐに監督を見据えた。
「ある数字にゼロを足しても、結果は変わらない。それは揺るぎない事実だ。だが、結果を変えないことと、こいつ自身に『存在価値がない』ことは全く別の問題だ」
「なんだと?」
「こいつが何も生み出さない無価値だと言うなら、なぜお前たちは人質をとってまでこいつの力を恐れている」
監督の顔から、余裕の笑みがスッと消えた。
「おい、ゼロ」
俺は背後の少年に振り返った。
「お前はさっき、自分の意思で不都合な魔石の暴走だけを消し去るという、誰にもできない『仕事』を完璧にやり遂げた。お前はマイナスじゃない。ただ周りが、お前の使い道を間違えていただけだ」
ゼロが、ハッとして顔を上げる。
「鎖に繋がれた暗闇に戻るか、それともここで戦うか。お前自身で選べ」
全体にとっての最適解のために、誰か一人を切り捨てるような真似はもうしない。それは神殿の狂った天秤と同じだ。俺は、明確に彼自身の同意(選択)を求めた。
ゼロは、必死に自分を庇おうとしてくれている鉱夫たちと、俺、イネラ、イクアの顔を順番に見つめた。
そして、虚無に沈んでいた瞳に、確かな熱を宿した。
「……俺、戻りたくない」
ゼロは小さく、だがはっきりと言った。
「それに、腹が減った。ずっと暗いところで硬いパンばかりだった。……肉が、食べたい」
極限状態に似合わない、子どもらしい我が儘。
だが、それこそが彼自身の立派な生存の意思だ。
俺は口元を緩め、頷いた。
「なら、邪魔なものを消せ」
「うんっ!」
ゼロが一歩前に踏み出し、両手を監督たちへ向けて突き出した。
「消えろっ!!」
彼が強く念じた瞬間、対象を限定した『零化』の力が坑道に放たれた。
パリンッ、パリンッ!
ガラスが砕け散るような音の連鎖。
監督の手下たちが身に纏っていた『魔法の防壁』と、剣に付与されていた『切れ味を増す強化の加護』だけが、次々と音を立てて空間から消滅していった。
「な、なんだ!? 防壁が消えたぞ!」
「剣の加護もだ! ただの鉄になっちまった!」
丸腰同然となり、狼狽する手下たち。
「今だ! やっちまえぇぇっ!!」
俺の総和によって身体強化が持続している鉱夫たちが、怒号と共に一斉に飛び出した。
防護を失った手下たちは、過酷な労働で鍛え上げられた鉱夫たちの腕力の前に、瞬く間に押し潰されていく。イクアも双剣の柄で的確に急所を打ち据え、あっという間にルークとマリアが救出された。
形勢は完全に逆転した。監督は地面に押さえつけられ、泥だらけの顔でわめき散らしている。
すべてが終わった坑道で、俺はゼロの背中を見つめていた。
その時、俺の視界の中で、ゼロの身体の輪郭が一瞬だけブレて、半透明に透けたように見えた。
ズキリ、と。頭蓋骨の裏側で、激しい頭痛が弾けた。
『俺、もう分かんなくなっちゃった』
真っ白な空間。自分の手を見つめながら、輪郭を失い、霧のように消えかかっている白髪の少年。
人間たちが『ゼロ(何もない)』という数学的な意味を理解しなくなり、ただの「空白」と同じものとして扱い始めた。その結果、世界を支える概念としての彼が存在を保てなくなり、消滅の危機に瀕している光景。
『認めない……! 彼らが消え去るなど、私が絶対に許さない!!』
少年の消失を前に、髪を振り乱し、狂ったように叫ぶ大柄な男。アイン。
そうだ。人間が正しく物事を測ることをやめたせいで、俺たちは輪郭を失い、消え去ろうとしていたのだ。
「シグ! 大丈夫?」
イネラの声で、俺は現実へ引き戻された。
頭痛は消え、目の前のゼロの輪郭もはっきりと実体を保っている。
「……あぁ、問題ない」
俺はこめかみを押さえながら、縛り上げられた監督たちを見下ろした。
ゼロは「肉! 早く肉食わせろ!」と、緊張感の欠片もない声で鉱夫たちにねだっている。
ようやく一つの問題が終わった。
だが、その安堵を切り裂くように。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!!
先ほどまでとは比べ物にならない、鼓膜を破るような凄まじい轟音が、俺たちの頭上から響き渡った。
「な、なんだ!?」
坑道内の崩落は俺たちが防いだ。だが、先ほどの増殖魔石の暴走による異常な地殻変動は、地中深くだけでなく、山そのものの地盤に決定的なダメージを与えていたのだ。
俺たちは嫌な予感に急き立てられ、鉱夫たちと共に昇降機を使って一気に地上へと脱出した。
冬の冷たい外の空気を吸い込んだ俺たちの目に飛び込んできたのは、言葉を失うような光景だった。
鉱山の入り口の上部、山の斜面にへばりつくようにして作られていた巨大な労働者居住区。
それが、山肌ごと完全に削り取られ、膨大な量の土砂の下に飲み込まれていたのだ。
「嘘だ……俺たちの、俺たちの家が……っ!」
鉱夫の一人が、膝から崩れ落ちて絶叫した。
死を防ぐことはできた。魔石の暴走も止めた。
だが、止められたからといって、すべてが元通りになるわけではない。
目の前に広がるのは、千人もの人間が一瞬にして帰る場所を失い、路頭に迷うことになったという、冷酷で圧倒的な被害の数字だった。




