第18話「忘れた名前」
領都の外れにある、打ち捨てられた古い監視塔。
そこが、追われる身となった俺たちの当面の隠れ家だった。
街一つ分の火災を鎮火し、閉ざされた大門をこじ開けた代償は大きかった。俺の全身は、数百人分の水魔法を演算し統括した負荷により、酷い筋肉の断裂と神経の痛みに苛まれている。
だが、俺より深刻だったのはイネラの方だ。
街中に散在していた数日分の雨水を一か所へ『積算』した彼女は、文字通り魔力の最後の一滴まで絞り尽くしていた。隠れ家に辿り着くなり、彼女は高熱を出して石の床に倒れ込み、浅い呼吸を繰り返している。
「……う、ん……」
俺は痛む身体を引きずり、水で濡らした布をイネラの額に乗せた。
彼女の銀糸のような髪が、冷や汗で額に張り付いている。人を信じず、他人に利用されることを極度に恐れていた彼女が、見ず知らずの市民を炎から救うために自分自身をすり減らしたのだ。
俺が彼女の様子を見守っていると、熱にうなされたイネラの唇が微かに動き、声が漏れた。
「……シグマ……」
ドクン、と。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど強く跳ねた。
シグマ。
その単語が耳膜を震わせた瞬間、視界が真っ白に弾け飛び、脳の奥底に封じ込められていた記憶の扉が強引にこじ開けられた。
――知っている。それが、俺の本当の名前だ。
フラッシュバックする光景。緑色の黒板でも、嫌悪の声でもない。
果てしなく広がる、無機質で純白の空間。そこで俺は、彼女のことを『積分』という真の名で認識していた。
この世界で俺たちが『積算』と呼んでいる力は、その働きを人の言葉へ置き換えた呼び名にすぎない。小さく連続する変化を、取りこぼさず積み上げる曲線。それが彼女の本質だった。
彼女だけではない。
何もない空間を指差す、白髪の幼い少年。
左右の長さを測るように立つ、双剣を持った騎士の影。
そして、その中心で、あらゆる数字と事象を際限なく飲み込み、無限に拡張し続ける恐ろしい男の姿。
俺たちは、ただの人間ではなかった。世界の事象を計算し、支えるための『記号』。それが俺たちの正体だ。
だが、その確信と同時に、胸の奥底から真っ黒なヘドロのような感情が溢れ出してきた。
『罪悪感』だ。
俺は、彼らを失った。いや、失ったのではない。俺が、俺の手で、彼らの何かを断ち切ったのだ。
「ぐ、ぁ……っ!」
頭蓋骨が割れるような痛みに、俺は呻き声を上げて床に突っ伏した。
断ち切った理由があったはずだ。だが、肝心な『何を』断ち切ったのかという核心部分だけが、すっぽりと抜け落ちている。残っているのは、仲間を喪失させたという、取り返しのつかない罪の意識だけだった。
「……どうした、ひどい顔色だぞ」
不意に、塔の入り口から冷ややかな声が響いた。
見回りと食料の調達に出ていたイクアが、外套を翻して戻ってきたのだ。俺は荒い息を吐きながら、冷たい石の床に手をついて身体を起こした。
「……なんでもない。ただの反動だ」
「そうは見えなかったがな」
イクアは深くは追及せず、懐から折り畳まれた一枚の羊皮紙を取り出し、俺の前に差し出した。
「神殿の通信室に忍び込み、王都からの『返書』の控えを回収してきた」
「返書?」
「お前たちに関する報告は、ガルドという神官がすでに王都へ送っていたらしい。これは、それに対する王都の神託塔からの指示だ」
俺は震える手で羊皮紙を受け取り、そこに記された短い一文に目を落とした。
『総和を逃がすな。今度こそ』
今度こそ。
その四文字が、俺の脳裏にこびりついた無限に拡張する男の影とリンクした。
王都の上層部は、俺の存在を偶然現れた異端者としてではなく、最初から明確な敵として認識している。かつて俺が『断ち切った』何かと、王都の神託制度は深く繋がっているのだ。
「……イクア。お前は、これからどうする気だ」
羊皮紙を握り潰し、俺は双剣の騎士を見上げた。
彼女は神殿の財庫で、自分の信じていた公平性が偽りであったことを知った。だが、彼女は俺たちの仲間になったわけではない。
「私は、私の目で真実を測る」
イクアは迷いのない瞳で答えた。
「神殿が本当に腐敗しているのか。それとも、あの領都の神官たちが特異だっただけなのか。王都へは戻らず、各地の神託碑と地方塔を巡り、独自の調査を行う。……だから、ここでお別れだ」
「そうか」
引き止める理由はなかった。彼女には彼女の計算式があり、俺には俺の目的がある。
「忠告しておくが、神殿はお前たちを本気で殺しに来るぞ。たかが二人の異端者に、神託塔の中枢が直接指示を下すなど、異常事態だ」
「分かっている。だが、逃げているだけじゃ計算は終わらない。俺を知る奴が王都にいるなら、そいつの首根っこを掴んででも答えを聞き出す」
「ならば、東へ行け」
塔の出口へ向かいかけたイクアが、肩越しに言った。
「私が回収した通信記録の中に、奇妙な報告があった。東の魔石鉱山で、奇妙な厄災が起きているらしい」
「厄災?」
「ああ。どんな魔法も、呪いも、加護すらも、触れるだけで無に帰してしまう『魔法を消す子供』が拘束されているそうだ。神殿も持て余し、鉱山の奥深くに幽閉しているらしい」
魔法を消す子供。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、先ほどのフラッシュバックで見た「白髪の幼い少年」の姿が過った。
どんな数字も、掛け合わせることで全てを『ゼロ』にしてしまう存在。
もしそれが、俺と同じかつての『記号』だとしたら。
「……礼を言う、イクア。お前も、計算を間違えるなよ」
「左右は等しくなければならない。それだけは違えないさ」
イクアはそれだけ言い残し、冬の冷たい風の中へ姿を消した。
残された俺は、深く静かに眠るイネラの寝顔を見下ろした。
総和と、積算。そして、零化。
王都に潜む巨大な敵――俺を『今度こそ』逃がさないと決めている存在に対抗するためには、その少年の力が必ず必要になる。俺の中にある得体の知れない罪悪感を清算するためにも。
「起きろ、イネラ。寝ている暇はなくなったぞ」
俺はイネラの身体を揺さぶった。
次なる目的地は、東の魔石鉱山。魔法を消す少年が待つ場所へ、俺たちは歩みを進める。




