第17話「街一つ分の水魔法」
群衆が特効薬の木箱に殺到した結果、起きたのは奇跡の分配ではなく、最悪の暴走だった。
数千人の市民が我先にと押し合ったことで、木箱は無惨に砕け散り、中に入っていた大量の薬瓶が石畳の上に叩きつけられたのだ。
空気に触れた青い魔薬は、人々の足で踏み躙られる物理的な衝撃を受け、不安定な魔力を限界まで圧縮させ――そして、弾けた。
ドォォォォンッ!
強烈な爆発音と共に、広場の中央で青白い炎が巻き上がった。
劇薬として体内の細胞を焼き切るほどの熱量を持った液体が、一斉に発火したのだ。炎は瞬く間に周囲のテントや木箱に燃え移り、広場は一瞬にして灼熱の火の海と化した。
「ぎゃあああっ! 火だ、火事だぁっ!」
「逃げろ! 門へ向かえ!」
つい先ほどまで薬を求めて群がっていた市民たちが、今度は炎から逃れるために外周へと雪崩を打つ。
だが、彼らが神殿の敷地から外へ出ようとしたその時、絶望的な重低音が響き渡った。
ガシャァァァンッ!
広場と街を繋ぐ巨大な大門。その重厚な鉄格子が、上部から容赦なく振り下ろされたのだ。
逃げ遅れた数人が鉄格子にすがりつき、神殿の奥へ向かって絶叫する。
「開けてくれ! 死んでしまう!」
「開かん! 神官どもめ、門の巻き上げ機を壊しやがった!」
俺は炎の熱波を腕で防ぎながら、神殿の上層を見上げた。
バルコニーから、豪奢な法衣を着た高位の神官たちが、冷たい目で広場を見下ろしているのが見えた。奴ら、この暴動と火災を好機と捉えたのだ。
自分たちに反旗を翻しかけた市民たちを、厄介な疫病の患者ごと、薬害の証拠もすべてこの炎の中で焼き尽くす。そして「哀れにも暴動の火災で命を落とした」という美しい悲劇の数字に書き換えるつもりだ。
「……計算通りにさせるかよ」
俺は広場の中央に立ち、左手首のΣの紋章を露わにした。
視界を埋め尽くすほどの巨大な炎。広場に取り残された数千人の命を救うには、この火を一瞬で鎮火させるだけの圧倒的な「水」と「操作する力」が必要だ。
俺は、目を閉じて意識を拡張した。
広場の中だけじゃない。俺の知覚を、分厚い石壁を越え、領都という『街全体』へと広げていく。
暗闇の視界の中に、細い青い光の糸が、ポツリ、ポツリと灯り始めた。
それは、街のあちこちで黒煙を見上げ、屋根より高く細い水柱を立てている『水魔法使い』たちの光だ。火元までは届かない。それでも、自分の力を消火へ使うと示す合図だった。
一人一人の力は弱く、距離も離れている。だが俺の知覚は、彼らがどこにいて、どれほどの魔力を預けると選んだかを数値の光として捉えた。火を消したいと思うだけでは繋がらない。届かないと知りながら水を掲げた、その行動が同意となって総和線の原型を結んでいる。
「街中の水魔法の力は束ねられる。だが、ぶつけるための物理的な水量が圧倒的に足りない」
俺が舌打ちをした隣で、イネラが一歩前に出た。
「水なら、私が用意するわ。……シグは、私の魔力枯渇の計算は除外して」
「イネラ?」
彼女は両手を空へ掲げ、曲線状の紋章を眩く発光させた。
「対象指定。この街に降り、染み込み、貯められてきた雨水……残っている分を、今ここへ積算する!」
イネラの『積算』は、まだ起きていない未来を取り出す力ではない。石畳の隙間、土、井戸、屋根の雨樋、貯水槽。ここ数日の雨が街の各所へ残した水分を、散らばったままの蓄積として拾い上げる力だ。
彼女の膨大な魔力消費と引き換えに、無数の水滴が広場上空へ集まり始める。やがてそれは、重力に逆らって浮かぶ巨大な水塊となった。
「上等だ。合わせるぞ!」
俺は、街中に散らばる何百人という水魔法使いたちの『火を消す』という明確な同意の光を、俺の左手首へ一気に総和した。
莫大な演算の負荷が脳を焼く。だが、広場全員の痛みを計算した時と違い、今回は目的が単一だ。
俺は束ねた水魔法のベクトルを、イネラが上空に作り出した巨大な水塊へと直結させた。
「叩き落とせ!」
ザバァァァァァァッ!!
俺が腕を振り下ろした瞬間、上空の水塊が意思を持った巨大な滝となり、最も炎の勢いが強い区画へ向けてピンポイントで落下した。
凄まじい水蒸気が上がり、広場の一角の炎が完全に吹き飛ぶ。
ただ水を撒き散らすのではない。俺の演算で炎の熱量を区画ごとに計算し、必要な分だけの水を、何百人分もの水魔法の力で操作して的確に叩きつけていく。
第一区画、鎮火。第二区画、鎮火。
俺とイネラの連携による『街一つ分』の水魔法が、広場の致死の炎を次々と蹂躙し、塗り潰していった。
「あ、ああ……火が、消えていく……!」
生き残った市民たちが、空から降る奇跡の雨を浴びながら呆然とへたり込む。
「道は私が開く!」
鎮火が進む中、固く閉ざされた鉄格子の門の前に、イクアが立ちはだかった。
彼女は双剣を抜き放ち、炎の残熱が渦巻く空間と、巨大な鉄格子の錠前を睨みつけた。
「対象指定。この錠前の、炎に焼かれた外殻と――まだ冷たい内部!」
イクアの双剣が光を放つ。彼女は温度という同じ量を持つ二部分だけを均衡させた。外殻へ偏っていた熱が内部まで移り、錠前全体の温度が等しく跳ね上がる。熱の総量は増えていないが、冷たい芯を失った鉄は急激に軟らかくなった。
「開けぇッ!!」
イクアが渾身の力で双剣を振り抜き、溶けかけた鉄格子を物理的に両断した。
凄まじい金属音と共に大門がこじ開けられ、外の冷たい空気が広場へと流れ込んでくる。
「道が開いたぞ! 外へ出ろ!」
イクアの叫びに弾かれ、市民たちが一斉に大門を抜け、広場からの脱出を開始した。
だが、外へ出すだけでは、さっき広場で突きつけられた問題は残る。三日かかる治療を選べなければ、彼らはまた即効薬へ戻る。
「イクア。神殿の食料庫と宿舎を、三日だけ患者へ開けられるか」
「異端審問官の緊急封鎖権を使えば可能だ。薬害の調査が終わるまで、家主による追い立ても止める」
俺は避難する市民へ、治療に必要な人数と三日分の食事、寝台、子供の世話を担える人手を呼びかけた。神殿の厨房で働いていた者が食料庫の場所を示し、火傷を免れた宿屋が寝台を申し出る。薬瓶を捨てた者たちも、負傷者の子供を預かると手を挙げた。
これで全員がイネラを信じたわけではない。薬を抱えたまま去る者もいた。それでも、三日休めば路地へ放り出されるという恐怖だけで選択を奪われることはない。
「治療を受けるかは、お前たちが決めろ。だが、選ぶための三日間は俺たちが作る」
俺の言葉を聞き、紫斑の浮いた数十人が、自分の足でイネラの指定した救護所へ向かった。
俺は最後の水塊を燃え残ったテントにぶつけ、肩で大きく息を吐いた。隣ではイネラが完全に魔力を使い果たし、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返している。
「……どうやら、燃やし尽くされる計算は免れたようだな」
俺が汗を拭いながら神殿の上層を見上げると、バルコニーにいた神官たちの姿はすでに消えていた。
その代わり。
黒煙が晴れゆく神殿の最上階の窓から、一羽の真っ白な伝書鳥が、王都のある北の空へ向けて羽ばたいていくのが見えた。
『神託を破壊する異端、総和が領都に出現。至急、王都の裁可を求む』
鳥の足に結ばれた手紙に何が書かれているかなど、計算するまでもなく明らかだった。
街の危機は去った。だが、俺たちの存在はついに、この国の根幹を成す最も巨大な計算機へと知れ渡ってしまったのだ。




