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「足し算しかできない無能」と追放された俺、切り捨てられた一万人の力を合計して神託王国を救う  作者: 他力本願寺


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第16話「記録されなかった死者」

神殿の地下から特効薬の詰まった木箱を引きずり出し、俺たちが広場へ戻った時、そこはすでに凄惨な暴動の渦中だった。


 怒り狂った数千人の市民が、神殿の巨大な木扉に石や丸太を叩きつけ、今にも中へ雪崩れ込もうとしている。神官たちが逃げ隠れた扉が破られるのは時間の問題だった。


「静まれッ!!」


 イクアが木箱の上に立ち、異端審問官としての魔力を込めた声を広場全体へ響かせた。


 双剣の騎士の威圧感に、群衆の動きが一時的に止まる。俺はその隙を突き、イクアの隣に立って、地下の財庫から持ち出した分厚い帳簿を群衆の前に放り投げた。


「神殿の扉を壊しても、死んだ身内は戻ってこないぞ」


 俺の冷たい声に、最前列で丸太を抱えていた男たちが血走った目を向けた。


「お前たちが飲まされた特効薬の正体は、この帳簿にすべて記録されている。神託の原文には、基準体格と投与後の観察が必要だとある。だが神官どもはそれを『一人一瓶』へ書き換えたうえ、副作用を調べる名簿から、貧民街や孤児、流民といった『登録外の人間』を除外した」


 広場が静まり返る中、俺は淡々と事実だけを数字として提示していく。


「死んでも記録へ載らない人々へ同じ薬を売り続け、都合の悪い結果をなかったことにした。だから上層部は薬害を知りながら、『登録患者には重大な異常なし』と報告できた。神託が出した処方を守らなかったうえ、結果の記録まで選別したんだ」


 俺は広場の隅に転がる、数え切れないほどの遺体を指差した。


「これが真実だ。薬は奇跡なんかじゃない。ただの劇薬だ。神殿は数字を偽り、お前たちの命を対価にして利益を得ていたんだよ」


 証拠はある。そして何より、特効薬を飲んだ者たちが紫斑を浮かべて倒れているという現実がここにある。


 これだけ揃えば、人は薬を捨てる。俺はそう見積もっていた。


「……嘘だ」


 ふと、最前列にいた恰幅の良い男が、震える声で呟いた。


 彼の腕にも不気味な紫斑が浮かんでいるが、大人であるため死には至っていない。男は、足元に転がる小さな少女の遺体――彼が自らの手で特効薬を飲ませた娘――を見下ろし、頭を抱えた。


「嘘だ……! 俺が、俺がマリアに毒を飲ませたっていうのか!? 俺がこの手で、娘を殺したって言うのか!!」


「薬が死因だ。だが、毒だと知らされなかったお前一人の責任じゃない」


 できる限り事実を分けたつもりだった。だが男の耳には、娘を救おうとした自分の手が死因になった、という部分しか届かなかった。


「違うッ!! 神託の薬は奇跡だ! 現に俺は熱が下がった! マリアが死んだのは、そこの魔女が呪いをかけたからだ!」


「なんだと?」


 俺は耳を疑った。証拠の帳簿を見せ、これだけ論理的に説明したというのに。


「俺の就職先も、妻との結婚も、全部神託が決めてくれたんだ! 女神様の言葉が間違っているはずがない! もしそれが嘘なら、俺の人生は全部間違いだったって言うのか!」


「そうだ! 神殿の薬が毒のはずがない!」


 その叫びに同調する者がいた。一方で、手にした薬瓶を捨てる者も、何が正しいのか決められず立ち尽くす者もいた。


 群衆は一つの意思ではない。娘を失った罪悪感に耐えられない者、神託が崩れれば仕事も婚姻も人生の根拠も失う者、証拠を信じても今日の暮らしを変えられない者。それぞれ別の恐怖が、同じ広場でぶつかり合っていた。


「お前たち、正気か!? 今すぐその薬を捨てて、彼女の治癒を受けろ!」


 イクアが声を荒げ、イネラを指差す。


 イネラは怯えながらも、一歩前へ出て自分の右手首の紋章を見せた。


「わ、私なら……時間はかかるけど、三日あれば、その紫斑の毒を抜いて、後遺症もなく治すことができるわ。だから……」


「三日も休んでいられるか!」


 群衆の奥から、怒声が飛んだ。


「三日も働けなかったら、俺たちは家賃も払えずに路地裏へ放り出されるんだぞ! 神殿の即効薬なら、明日から働ける。寿命が縮んでも、今日の飯がなければ先に死ぬんだ!」


「待て、あれは毒だぞ!」


「じゃあ三日分の飯と家賃を、お前が出してくれるのか!」


 薬を求める声と、止める声が正面からぶつかった。


 俺はようやく、自分の式に欠けていた項を知った。薬の毒性だけを示しても、代わりの治療を受ける三日間の食事、家賃、子供の世話がなければ、彼らには選択肢そのものがない。


 正しい情報は必要だ。だが、情報だけで人が動けると思ったのは間違いだった。


『あなたは他人のマイナスは全部足し合わせるくせに、自分がどれだけ壊れるかというマイナスはゼロとして扱ってる』


 先ほどイネラに言われた言葉が、別の意味を持って頭の中に響く。


 俺は、彼らの罪悪感だけでなく、『治るまで暮らせるか』という現実の負担まで計算式から除外していたのだ。


「シグ、危ない!」


 イネラが俺の腕を強く引っ張る。


 我に返った時、薬を必要とする一団が、俺とイクアが立っていた木箱――特効薬の在庫――へ殺到していた。捨てろと叫ぶ者たちが止めようとし、二つの流れが正面から衝突する。


「よこせ! その奇跡の薬を俺によこせぇぇッ!」


「押すな! 俺が先だ!」


 真実を伝えるために持ち出した木箱が、人波の下で無惨に砕け、中から青い瓶が散乱する。毒薬を奪う者、瓶を割ろうとする者、家族を人波から引き離そうとする者が入り乱れ、転倒者が続出した。


 正しい答えを示すだけでは、選び直せない者がいる。選ぶための時間と生活を用意して、初めて答えは本人のものになる。


 その現実を理解した時には、足元で最初の薬瓶が割れていた。

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