第15話「利益と損害を等しくする」
神殿の地下深くに隠された『財庫』は、冷たい石造りの空間でありながら、むせ返るような欲望の匂いが充満していた。
厚い鉄の扉は、異端審問官であるイクアの権限であっさりと開かれた。中に入ると、壁際まで積まれた木箱の中に、まだ広場に出されていない青い特効薬の在庫が山のように眠っていた。そして部屋の中央にある長机には、燃やされる直前だった分厚い配給帳簿と、麻袋に詰められた大量の金貨が放置されていた。
その下から、神託の原文を写した処方板も見つかった。そこには『基準体格ごとの投与量』と『投与後三日間の経過観察』が記されている。配給箱に貼られていた「一人一瓶」の命令書には、その二項目だけが抜け落ちていた。
「これ、全部あの薬を売って得たお金……?」
イネラが金貨の山を見て息を呑む。
ルミナリア王国の神託による治療は、原則として対価を伴う。俺は長机に歩み寄り、パラパラと帳簿のページをめくった。
「すさまじい額だ。特効薬の原価に対して、販売価格が異常に高く設定されている。さらに、一度治ったと見せかけて再発させることで、同じ患者から何度も金を搾り取っている記録が克明に残っているぞ」
「……見せてみろ」
イクアが帳簿をひったくるように奪い、その目で数字の羅列を追う。
彼女の顔から、次第に血の気が引いていくのがわかった。だが、彼女はまだ自分の信じる『神殿の公平性』を手放そうとはしなかった。
「数字だけでは測れない。神殿は民の病魔を祓うという巨大な恩恵を与えている。この利益は、その奇跡に見合う正当な対価かもしれない。私の『均衡』の天秤にかけて、確かめる」
イクアはそう言うと、右手首の二本線の紋章を光らせた。
彼女の能力は、二つの対象の利益や負担を等しく移し替えることだ。神殿の「利益」から患者の「損害」へ重さを移し、釣り合う地点を探ろうとしているのだ。
「対象指定。神殿がこの薬で得た利益。そして、広場の患者たちが支払った対価と損害」
空間に不可視の天秤が現れたような感覚が走る。
イクアは顔を顰め、必死に二つの事象を比較しようと魔力を練った。だが、天秤は激しく揺れ動き、一向に均衡しようとしない。
「……釣り合わない。なぜだ。患者の支払った治療費を差し引いても、まだ神殿側に利益が残りすぎる。いや、患者の『死』や『後遺症』を金貨の重さに換算すれば……」
「やめろ」
俺はイクアの演算を止めるように、鋭く声を飛ばした。
「金に換算できない損失を、無理に一つの数字にまとめるな。それは神殿のやり方と同じだ」
「なに?」
「命の重さや、後遺症で労働不能になったことによる未来の生活。それを『金貨何枚分』なんて単一の数字に変換して比較しようとするから、式が破綻するんだ。利益は利益、死は死、労働不能は労働不能として、別々の項目としてそのまま天秤に乗せろ」
俺の指摘に、イクアはハッとして息を吐き出した。
彼女は再び紋章を光らせ、比較の定義を細分化して再構築する。
金銭の移動。
健康の移動。
未来の移動。
それぞれの項目が、ごまかしのない生々しい『重さ』として、彼女の能力を通してこの空間に可視化されていく。
そして、出た答えは。
「……あ、あぁ……」
イクアの口から、絶望に満ちた掠れ声が漏れた。
天秤は、完全に崩壊していた。
神殿側は莫大な富と権威を一方的に吸い上げている。対して患者側は、全財産を奪われた上に、紫斑という後遺症を負わされ、労働不能に陥り、あげく命すら喪失している。
そこに『等しさ』など微塵も存在しなかった。神殿は市民を救っていたのではなく、ただ一方的に搾取し、すり潰していたのだ。
「これが、私の信じた……公平……?」
イクアの膝が折れ、彼女は石の床に力なく崩れ落ちた。
左右は等しくなければならない。その原理を絶対とする彼女にとって、自分が所属する組織がこれほどまでに醜悪な不均衡を生み出していたという事実は、存在意義そのものを否定されるに等しい衝撃だっただろう。
「お前の信じた公平は間違っていない。ただ、天秤にかける前提の情報を隠されていたから、正確に測れなかっただけだ」
俺は床に落ちた書類の束の中から、一枚の羊皮紙を拾い上げた。
それは、イクアが先ほど地下水路で読み上げた『俺とイネラの処刑命令書』だった。
「ほら、見ろ。お前の天秤を狂わせたのはこういう嘘だ」
俺が羊皮紙を突きつけると、イクアはうつろな目でそれを見上げた。
「この命令書の署名、筆跡が不自然だ。神殿の責任者である神官長のものじゃない。広場で薬を配っていた下級神官の筆跡と完全に一致している」
「偽造……? 審問官の動議を、下級神官が勝手に……?」
「暴動が起きた時、真っ先に薬害の事実を隠蔽しようとした奴らだ。異端審問官であるお前を騙して俺たちを殺させ、すべての責任を『魔女の呪い』になすりつけようとしたんだろう」
俺の言葉に、イネラが忌々しげに顔をしかめる。
イクアは震える手で偽造された命令書を受け取ると、そのままくしゃくしゃに握り潰した。彼女の瞳から、それまでの無機質な光が消え、静かな怒りと悲哀が宿っていた。
「……私は、何も見ていなかった。数字の表面だけをなぞって、彼らが背負わされた本当の痛みを、天秤に乗せることすらしていなかった」
イクアは腰の双剣を鞘から外し、床へとそっと置いた。
それは、神殿の異端審問官としての己の立場を放棄したという明確な意思表示だった。
「お前たちが広場でしようとしたことは正しい。……これ以上、お前たちを斬る理由はない」
「分かればいい」
俺は帳簿を閉じ、ため息をついた。
ひとまずはこれで、神殿の嘘を暴くための武器は揃った。広場で暴れている市民たちにこの帳簿と在庫を突きつければ、彼らも目を覚ますだろう。
そう思い、俺は広場の被害規模と、帳簿の数字の最終的な照合作業を頭の中で行っていた。
だが。
「……待て。なんだ、この数字のズレは」
俺の『総和』の知覚が、最後の最後で致命的な食い違いを捉えた。
「どうしたの、シグ」
イネラが不安げに覗き込んでくる。
俺は帳簿のページを乱暴にめくり返し、そこに記載されている『治療対象者リスト』の住所と名前を確認した。そして、広場で倒れている患者たちから得た情報を照らし合わせる。
「数が合わない。いや、合わないんじゃない……『入っていない』んだ」
「入っていない?」
「ああ。この帳簿のリストにあるのは、領都の中心部や商業区に住む『登録市民』の名前だけだ。……だが、俺たちがこの街に入ってくる時、荷馬車から見た一番外側の区画……貧民街の連中は、最初からこのリストの『対象外』にされている」
広場に集まっている数千人の中には、貧民街から助けを求めてきた者たちも多数混ざっているはずだ。
だが、神殿の「配給数」にも、投与後の「異常報告」にも、彼らはただの一人もカウントされていない。
俺が数えなかった人間は、いなかったことになるのか。第一の村で感じたのと同じ、最悪の切り捨ての論理。
「神殿は、貧民街の人間を端から救う気がなかった。死者として数える気すらなかったんだ」




