第13話「あなたの計算には、あなたがいない」
神殿の奥から漂う焦げ臭い煙。配給の帳簿と空の薬瓶という、腐った計算の証拠を灰にされる前に止める。
そう判断し、神殿の大理石の階段へ足を踏み出した瞬間だった。
「――ッ」
ドクン、と心臓が異様に跳ね、俺は反射的にその場に蹲った。
視界が激しく明滅し、両足から完全に力が抜け落ちる。頭蓋骨の内側を、無数の鋭い針で掻き回されるような激痛。息を吸うことすらままならない。
「シグ!? どうしたの!」
駆け寄ってきたイネラが俺の背中を支えるが、俺は立ち上がることができなかった。
原因は明確だ。俺は広場の状況を正確に把握するため、『総和』の知覚を数千人の患者に広げすぎた。特効薬の劇毒によって彼らの体内で暴走している魔力の負荷、臓器が焼かれる物理的な損害。それらの莫大なマイナスの数値を一気に計算器(俺自身)へ読み込んだせいで、処理能力の限界を超え、患者たちの疑似的な痛みが俺の肉体にフィードバックしてしまったのだ。
「あっちだ! 異端者たちが神殿に押し入ろうとしているぞ!」
「ガルド様の報告にあった通りだ! 捕らえろ、抵抗するなら殺して構わん!」
背後の広場から、武装した神殿の衛兵たちの怒号が迫ってくる。暴動を起こした市民たちは別の入り口で押し留められ、俺たちへ向かって十数人の兵士が殺到してきていた。
今の俺は完全に足手まといだ。立ち上がることも、剣を躱すこともできない。
「……逃げろ、イネラ」
痛みに奥歯を噛み締めながら、俺は冷静に計算結果を告げた。
「俺は動けない。お前一人なら、路地裏に紛れて逃げ切れる。俺を置いていけ」
「馬鹿なこと言わないで!」
イネラは俺の言葉を怒鳴りつけ、俺の腕を肩に担ぎ上げて無理やり立たせた。
「あなたがここで捕まったら、広場の嘘を誰が暴くのよ! 少しだけ我慢して!」
イネラは俺を抱えたまま、神殿の脇へ続く細い街路へと飛び込んだ。だが、重傷者を引きずった状態では足が遅い。背後から迫る衛兵たちの足音と鎧の鳴る音が、すぐそこまで迫っていた。
このままでは、袋小路に追い詰められて終わる。
だが、イネラは行き止まりの石壁ではなく、街路に等間隔で植えられている『街路樹』の幹にその手を押し当てた。
彼女の右手首の曲線が、強烈な紫色の光を放つ。
「春までの時間を、一気に――」
彼女の能力は『積算』。一地点にすでに蓄えられた小さな変化を束ね、まとめて表へ出す力だ。
冬枯れして見えた街路樹も、根と芽の内側では春へ向けて養分を貯め続けている。イネラは数か月かけて木々が蓄えてきた成長分を、一度に解放した。
メキメキメキッ!
凄まじい音を立てて、冬の街路樹が異常な速度で幹を太くし、枝を伸ばし、青々とした葉を一斉に芽吹かせた。石畳を砕いて隆起した太い根と、横に広がりすぎた枝葉が、追ってくる衛兵たちと俺たちの間を完全に遮断する物理的な壁となった。
「うおっ!? なんだこの木は!」
「道が塞がれた! 剣で切り払え!」
背後で衛兵たちが混乱し、足止めを食らっているのが聞こえる。
その隙に、イネラは俺を抱えたまま街路を抜け、人気のない廃棄された地下水路の入り口へと滑り込んだ。
◆
冷たい石壁に背中を預け、俺とイネラは荒い息を吐いていた。
街路樹の急激な成長という大規模な積算を行った反動で、イネラも魔力を使い果たし、顔面を蒼白にして座り込んでいる。俺も痛みが引き始め、ようやく正常な思考を取り戻しつつあった。
「……なぜ俺を置いて逃げなかった。合理的な判断じゃない」
俺が静かに問うと、イネラは乱れた銀髪をかき上げ、冷たい目で俺を睨んだ。
「あなたが、あの村で私を庇ってガルドの相手をしたのと同じよ。目の前に助けられる状況があるのに、放り出すなんて私にはできない」
「あの時は俺が戦うのが最適解だった。だが今回は違う。俺が捕まれば、お前は無事に逃げられたはずだ」
俺の言葉に、イネラは深くため息をつき、呆れたように首を振った。
「あなたね、他人の行動の効率や、村全体の負担の計算は完璧なのに……どうしていつも『自分自身』のことだけは、計算式から綺麗に除外するのよ」
「なに?」
「リタちゃんを治した時だってそう。今回、広場の患者の痛みを抱え込んだ時だってそう。あなたは他人のマイナスは全部足し合わせるくせに、自分がどれだけ壊れるかというマイナスは『ゼロ』として扱ってる。あなたの計算には、あなた自身がいないのよ」
イネラの真っ直ぐな紫の瞳に射抜かれ、俺は言葉に詰まった。
かつてミラにも似たことを言われた。だが俺は、その問いを未処理のまま奥へ押し込めていた。今も、自分がどう消費されようが結果さえ出ればいいという反射が消えていない。
「そういうお前だって同じだろう」
俺は反論した。
「人間を嫌って利用されることを恐れているくせに、死にかけの子供を見れば自分の魔力や危険を顧みずに飛び出していく。自分が切り捨てられるリスクの計算が、完全に破綻している」
俺の指摘に、イネラもぐっと言葉を飲み込んだ。
お互い様だった。
他人に消費されることを極度に恐れる女と、自ら消費されることを何とも思っていない男。正反対に見えて、根底にある『自分の価値を正しく見積もれていない』という欠落は完全に一致していた。
「……呆れた。似た者同士ってことね」
イネラが毒気を抜かれたように、小さく笑いをこぼした。
「少なくとも、互いが壊れれば作戦が破綻する。それは計算に入れる」
「……まだ『作戦の部品だから大事にする』って言い方ね」
イネラは呆れたように息をついた。俺は反論できなかった。
自分の損耗を数える必要があることは、頭では理解できる。だが、自分自身に結果とは別の価値があると言われても、実感はない。理解したことと、身についたことは違うらしい。
それでも、互いの欠落を指摘できる相手がいる。その事実だけは、以前より一歩進んだものに思えた。
だが、その微かな安堵を切り裂くように、冷たく硬質な金属音が地下水路に響いた。
「そこまでだ、異端者」
俺たちの数メートル先。いつの間にか、一人の女が立っていた。
神殿の純白の法衣の上に、銀色の軽鎧を纏った二十代後半の女騎士。彼女の両腰には、二本線を思わせる真っ直ぐな双剣が帯びられている。
足音も、魔力の気配も全く感知できなかった。
「私の名はイクア。神託の都より遣わされた、異端審問官である」
イクアと名乗った女騎士は、氷のように無感情な目で俺とイネラを交互に見据え、手にした羊皮紙を広げた。
「神託に背き、正規の加護にない邪法を用いて民を惑わした罪により。お前たち二名に対する、即刻の処刑命令を執行する」
抜き放たれた双剣の刃が、冷たい地下の闇の中でギラリと光を反射した。




