第32話 どしゃぶりの心
人気のない路地裏に隠れるように座り込む。俺の記憶が消されていくのが直に分かる。感覚的に思い出そうとする記憶が逆に焼かれていく。その中で俺は子供の記憶だけは必死に守ろうと思いつつ、俺の焼かれていく記憶に生じて強烈な頭痛を覚える。子供を襲っている頭痛こそ実は俺だ。そしてこの俺がその子供である僕自身なんだ。
もう何がどうなっているのか分からない。僕の頭の中がグチャグチャなんだ。僕の知っていることの間に知らない何かが入って来る。それをもうひとりの僕の
俺が必死に整理している。消し去るべき記憶が勝手に消えていく。それに巻き込まれるように子供の記憶まで消そうとしている。それだけはしてはいけない。俺の記憶が高速で焼き消されていく。もはや自分がどこの誰なのかさえ分からなくなっている。
そこにひとりのキツネが姿を見せる。晩餐会の前に俺たちを付けていたひとりだ。
「フォクシイ、違う……ドロップを呼んで早く」
キツネは静かに去っていく。
咄嗟に出たフォクシイという名……その記憶すらも焼き消されていく。非常にまずい状況になった、このままでは確実に崩壊するぞ。
僕はドロップに会ったときから自分がちょっとおかしい気がした。知らないことが急に分かるようになる。母さんが蟻のようになれって。先人前を見、後人はその背を見よという古い言葉……先人前を見、後人はその背を? いったい何のことなの? 僕はそんなこと知らないよ。僕は僕のことを僕と呼ぶんだ。
俺とは呼ばない! 何故文字が急に読めるようになった! 俺が読めるからさ! 俺の記憶が子供に刻まれていく! それは子供の記憶として定着して俺の焼き消される記憶の一部! だからこそ子供の記憶まで火の手がおよび全ての記憶を消そうとする! 俺にこの火を鎮火させ見せてはいけない記憶を封じ続けなくてはいけない! どうしてあの記憶だけ堂々と居残る! 他の記憶は全部消されていく! このままじゃ
僕はどっかに消えると思う。なんかそんな気がしている。キツネとイヌとネコの友達がいた気がした。でも顔も名前も思い出せなくなっている。それで別の人たちが見えそうで見えてこない。開店前に店の準備をしなくちゃいけないんだ。でも僕はそのお店を知らない。そうだ、扉が開くと小さな鐘が鳴るんだ。机に上げられた椅子を下になんで下げるの?
俺は必死に両手で頭を抱える。雨が降って来て次第に強くなる。雨音が雑音になって俺の視界を荒していく。机の上にある椅子を降ろしていくんだ……その先の記憶も焼き消されていく。誰か助けてくれ。
強烈な気配を感じた。そして杖の先が俺に下げられる。そっと白い輝きが灯り俺の記憶を整理していく。正確には
僕の記憶が戻っていく。ダンネとドロップとニャーのことも思い出した。杖から心地よい暖かさを感じる。頭痛が治まっていき、雨の音がしない。僕はそっと横を見る。雨はたぶん降っていたんだと思う。でも止まっているんだ。たくさんの水玉が宙で止まっているんだ。この杖はドロップの杖だ、だからそこにドロップがいるんだ。僕はドロップに尋ねようとした。正面を向いてドロップの杖を見る、足が見える。顔を少し上げてもドロップの白い服しか見えない。もうちょっと上を見る。ドロップの白い服は見えるけど顔はまだ見えない。かなり上を見るとドロップが僕に笑顔を見せた。ドロップはこんなに背が高かったっけ?
「そんなに大きかったっけ?」
一瞬、僕は眠気に負けて寝た気がする。
「ガウル! ガウル!」
雨の音が凄いする。驚いて目を開けるとドロップが僕を必死に揺すっていた。その後ろにいるニャーが黙って赤い眼で僕を見ている。
「いきなり駆けたニャ」
僕は数回瞬きする。
「そうなんだ」
「そうなんだじゃないよ! もう帰ろう!」
訳も分からずボーっとしてると、ニャーがドロップの背に僕を乗せる。ドロップは必死に僕を大使館の部屋まで運ぶ。僕は気づいたらいつの間にか着替えさせられベッドの上で横になっていた。僕は布にくるまって部屋の隅で座りこむ。たぶんこの姿勢のほうが……あの人が一番落ち着く姿勢なのだろう。部屋の扉が急に開いてハリスとダンネが姿を見せる。
「何があったの?」
「ガウルが急に」
「僕が話すよ」
そのほうがたぶん早いと思う。
「なんで隅で座ってるの?」
「そのほうが落ち着くんだ……ここから先は俺が話そう。子供の中にふたりの意識が入っている」
「それって」
「黙って聞け。あまり長いと悪影響が出る。ドロップと出会ってから俺の中に変化が起こった。途中から自分のことを俺と言うようになった。あまり気にしていなかったが、知らない記憶まで共有してしまう。急に文字が読めるようになったろ? 子供の僕は文字をまだ勉強していないが、俺は既に文字が読める。得ていないはずの知識を得ている知識が塗り替えていく。俺の記憶は何故か焼き尽くされていく、同時に僕の記憶までも焼き尽くそうとする。その先にあるのはある種の死に等しい。さっきはかなり厳しい状況にあったが、ドロップに助けられた」
「僕?」
「そうだ、その杖のお陰で俺の何かが整理された」
ドロップは杖を不思議そうに見る。
「些細な知識が僕の記憶を汚染していく。文字が読めるのもそれだ。そして俺の記憶は焼き消されていく。ここが非常に厄介だよく聞け。ガウルはふたりいるが、そのふたりは同一人物だ。俺としてのガウルはお前たち出会ってから今までのことを全部覚えている。ただし僕のガウルも同様に覚えているがこの現象は恐怖でしかない。ただしいま気分がすごい良い。頭の中……いや全てが整理されたみたいだ」
俺はそこで口を閉ざす。ただし誰も喋らない。
「フォクシイの名に覚えは?」
ハリスが不意に尋ねてくる。
「覚えはある……同時に記憶が焼き消されていくから……その名を知らない」
「流石に滅茶苦茶すぎるな」
ハリスが片手で両眼を塞ぐ。ダンネが俺に近づいて来る。
「私たちってどうすればいいの?」
「ひとつだけ分かったことがある」
「なに?」
「俺の記憶は焼き消される。ただしお前たちと出会った頃からの記憶は僕の記憶。つまり、さっきドロップに助けて貰ったときのことを覚えている。ハリスより少し背の高いドロップだ」
「僕はそこまで背が高くないよ」
「そこでハリスに尋ねたい、ドロップの背を高くすると。エドの言っていたシルケにならないか?」
「ドロップの背を高くすると」
ハリスがドロップを見て驚きながら部屋の壁まで下がる。
「一体いま何が起きてるんだ?」
「俺を助けてくれた背の高いドロップ。あいつがシルケだ。エドはドロップがシルケに似すぎていると、気持ち悪いほどに似ていると言った。そして俺はシルケの顔を見て最初ドロップだと勘違いした。でも明らかに背の高さが違う。いま俺は頭が異常に冴えている、エドが言っていたシルケはドロップの背を高くした状態だ。似ているとかじゃない、ほぼ同じだ。ドロップの手掛かりはシルケにある。シルケを見つけ出せれば必ず何か分かる。ドロップは杖をずっと持っていたろ?」
「も、持ってたよ」
「シルケもドロップと同じ、ニャーが言うところの癒しの力を持っている。ただしドロップより遥かに強い。俺と僕を綺麗に整理してくれたのだから。だからシルケを探すべきなんだ。ただ流石に限界だ」
僕は顔を上げて涙を流す。
「僕もうこの国嫌だ。すぐ出たい。王国に来てから怖いことばっかりだからこの国嫌だ」
ハリスがそっと僕に近づく。
「いまガウルが話したこと」
「僕ちゃんと覚えてる」
ダンネが僕を見下ろす。
「つまり僕と俺のふたりのガウルがいて、ふたりとも同じ人物で今は僕ということで良いのよね?」
「うん。それとダンネ。僕はダンネを見たときフォクシイと言ったんだ。僕はそんな人知らないけど。もうひとつ分かったことが僕あるんだ」
「それはなに?」
「僕とダンネとドロップは皆に違う誰かがいる」
「ガウルはガウル、ダンネはフォクシイ、ドロップはシルケということか」
ハリスの言葉に僕は頷く。僕はニャーを見る。
「でもニャーは違うと思う」
「難しい話は苦手ニャ」
ダンネがニャーに顔を向ける。
「別の世界から来たから違うんじゃない」
ハリスが笑い声をあげる。
「君たちは自分たちがすごいこと話してる自覚あるかい? 僕の考えが置き去りにされる。もはやこの世の知識を総動員して理解できることなのか? ガウルが望むなら明朝に東へ発つ。君ら全員大丈夫かい?」
ニャー以外皆が頷く。
明朝になって皆でドギルス王国を建つ。少し離れたところで遠くに見えるドギルス王国を眺める。僕が足を止めたので皆が足を止める。何故か僕の中で未練が残っている。もっと王国で何かすべきだったのじゃないか? 僕が何か見逃しているのでわ? そんなこと考えているとダンネが「ガウル」と呼んで近づいて来る。皆もこっちに来てドギルス王国を眺める。
「僕は何か見逃している気がする。でも今の僕じゃあの国ですべきことが分からないんだ。バカラスの言葉を信じるよ……彼の地は近く遠く。もし無理だと思ったら諦めるんだ。どこへ向かうにしても」
僕は初めて悔しさというのを体験しているかもしれない。どこにいるか分からないシルケは僕を助けてくれた。どういう訳か僕の頭は冴えている。恐らくグチャグチャな思考をシルケが治してくれたんだ。シルケは今どこにいるの? 王国にいるのは間違いないんだ。きっとその場所が分からないだけなんだ。僕を襲った赤い眼がそれを妨げた? 僕は首を横に振る。駄目だ、何も分からない。歩きながら腹が立ってくる、何か……何か見落としていないか? これは僕の勘違いかもしれない。
「ガウル」
ドロップに声を掛けられて思考が遮られる。ついドロップを睨んでしまう。
「なに?」
「その……ごめん。なんでもない」
僕は深呼吸をいちどする。
「僕何か見落としてる気がする」
「え?」
「それがどうしても分からないんだ。僕を助けてくれたシルケは王国にいる。絶対にいるんだ。ただ……場所が分からない」
東への道のりが苦難の道に見えてしょうがない。僕が知らないはずの難しい言葉が少しずつ出てくる。




