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すれ違う夏祭り

 イザベラ様の魔法が暴走したあの日から、星見の寮には、まるで薄氷のような繊細な均衡が保たれていた。

 私たちの研究は、カイ先輩とエマさんが発見した禁書庫の文献のおかげで、少しずつではあるが、着実に進んでいる。

 しかし、イザベラ様は、あの日以来、部屋に閉じこもったままだ。食事の時だけ、顔色の悪い姿を談話室に見せるけれど、誰とも目を合わせようとはしない。

 そんな彼女の姿に、エマさんは関わりたくなさそうにしており、アレクシス様は眉間の皺を深くする。そして、ジークレント殿下は、どこかバツが悪そうに、窓の外を眺めている時間が増えた。


 寮の中に漂う重苦しい空気…

「―――息抜きも、必要だろう」

 そんなある日の昼食後、沈黙を破ったのは、意外にもアレクシス様だった。

「近くの村で、今夜、年に一度の夏祭りがあるそうだ。気分転換も兼ねて、全員で参加しないか?」

 その提案は、あまりにも唐突だったが、自分のせいで、このような空気になってしまっている自覚のある私は、なんとかしたくて、一も二もなく賛成を表明した。

「まあ、お祭りですの? 行きますわ、もちろん!」

 けれど、その声は、すぐに小さなものになった。イザベラ様が、ぽつりと呟いたからだ。

「……わたくしは、結構ですわ」


 結局、イザベラ様を無理に連れていくことはできず、私たちは六人で、その夏祭りへ向かうことになった。


 ◇


 カイ先輩と禁書庫に忍び込んでから、一週間がたった。

 禁書庫での一件以来、私の心の中には、カイ先輩から向けられた真っ直ぐな言葉が、温かい光のように灯っていた。「誰かに必要とされる喜び」を、私は生まれて初めて知った。だから、だろうか。

 ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた想いに、ちゃんと、決着をつけなければならない。そう、思っていたのだ。そして、思い出の夏祭りに心を押されて、行動に移すことにした。


 夏祭りへ向かう道すがら、私は、意を決して、レオンハルト様の隣を歩いていた。

「あ、あの……レオンハルト様」

 私が勇気を振り絞って声をかけると、彼は少し驚いたように、私を見下ろす。

「エマ嬢。どうした?」

「その……レオンハルト様は、お祭りはお好きですか? 小さい頃とか、行かれたことは……」

 違う!私が聞きたいのは、そんなことじゃない。

 私が本当に聞きたいのは、ずっと昔、私がまだ学園に入る前の、ある夏祭りの日のことを、覚えていますか、ということ。


 あの日、私は、年上の子供たちに絡まれ、泣いていた。そこへ、偶然通りかかった、一人の少年。彼は、自分より体の大きな相手に、果敢に立ち向かい、私を助けてくれたのだ。その代償に、彼は口の端を切って、少しだけ血を流していたけれど。

 そして、泣きじゃくる私を慰めるように、彼は、自分のつけていたお面を、私の顔に被せてくれた。

 それは、白い狐の、お面…

 その少年こそが、まだ護衛騎士見習いになる前の、レオンハルト様だったのだ。


 あの日から、私の気持ちは、彼だけのものだった。学園で、王子様の護衛として、立派になられた彼を遠くから見つめるだけで、胸がいっぱいだった。

 だから、私は、精一杯の勇気を込めて、ほんの少しだけ、ほのかな気持ちに繋がっているお願いを、口にした。

「あの、もし、お祭りに、狐のお面があったら……買ってきて、いただけませんか?」

(思い出してください!私は、あの時あなたに助けてもらってから、ずっと…)

 私の言葉に、レオンハルト様は、きょとんとした顔をした後、ふっと、優しく笑った。

「狐のお面? わかった。あったら、買っておくよ」

 その笑顔だけで、もう、十分だ。

 私の、最初で最後の、精一杯のアプローチ。


 ◇


 アレクシス様が、夏祭りを提案してくれて、寮の雰囲気が変わることを期待し、一番に乗っかった私は、イザベラ様もきておらず、私とアレクシス様、二人で歩いているこの状況に困惑している…

 村の夏祭りは、私たちの想像を、はるかに超える賑わいだった。

 道の両脇には、色とりどりの屋台がひしめき合い、ランタンの温かい光が、人々の楽しげな顔を照らし出している。


 アレクシス様は、「婚約者なのだから当然だろう」と、有無を言わさぬ様子で私の手を引き、エスコートしてくれていた。

 けれど、その手は、どこかぎこちなく、彼の横顔は、いつものように完璧な無表情を保っているけれど、その奥に、隠しきれない不機嫌さと焦燥が滲んでいるのを、私は感じ取っていた。

 嵐の夜以来、私たちは、ずっと、こうだ。

 会話は、途切れ途切れで、その間を、気まずい沈黙が埋めていく。

 どうして、あんなに冷たい態度を取るのだろう。

 どうして、何も、聞いてはくれないのだろう。

 聞きたいことは、たくさんあるのに、言葉にならない。


 そんなことを考えていた、その時だった。

「―――リリアーナ!」

 目の前から、楽しげな子供たちの一団が、駆け抜けていく。

 私は、その勢いに押され、たたらを踏んだ。

 アレクシス様が、はっとしたように、私の名を呼んで、手を伸ばしてくれた。

 けれど、その指先は、虚しく空を切り、私と彼の体は、人の波に無情にも引き離されてしまった。

「アレクシス様……!」

 気づいた時、私は、熱気と喧騒の海の中、たった一人で、立ち尽くしていた。


 行き交う人々の顔は、誰も、私のことなど知らない。

 急に、心細さが、どっと押し寄せてくる。

 どうしよう。アレクシス様は、どこへ……?

 胸の奥が、きゅうっと、冷たくなっていく。

 潤み始めた視界のせいで、ランタンの光が、頼りなく滲んで見えた。


 ◇


 アレクシスは、人の波をかき分け、必死にリリアーナの姿を探していた。

「くそっ、どこへ……!」

 そんな彼の元へ、ジークレントと、その護衛であるレオンハルトが合流する。

「おい、アレクシス。リリアーナはどうした!」

「……はぐれた」

 苦々しげに吐き捨てるアレクシスに、ジークレントは、わざとらしく、やれやれと肩をすくめてみせた。

「情けねぇな、婚約者殿。レオン、探してこい! これ以上、逸れると困るから、俺たちはここで待機しよう」

 その王子の命令に、レオンハルトは、「はっ」と短く応えると、一瞬、ためらうような、しかし、覚悟を決めたような、不思議な表情を浮かべた後、雑踏の中へと、その姿を消していった。


 ◇


 子供のように「泣きたい」と思ったその時、

「―――リリアーナ嬢」

 人混みの向こうから、私の名を呼ぶ、低く、落ち着いた声がした。

 顔を上げると、そこには、息を切らしたレオンハルト様が立っていた。

「よかった……。探しました」

「レオンハルト様……!」

 彼の姿を見つけた途端、安心して、堪えていた涙が、ぽろりと頬を伝った。

 その涙を見た彼は、少しだけ困ったように眉を寄せた後、ふっと、何かを諦めたように、優しく微笑んだ。


 そして、彼は、手に持っていた、一枚のお面を、私の顔に、そっと被せてくれた。

 それは、白い毛並みに、赤い模様が描かれた、美しい、狐のお面だった。

「エマ嬢に、頼まれていたのだが」

 彼は、少しだけ、申し訳なさそうに言った。

「……きっと、君の方が、似合う」

 その言葉と、予期せぬ優しさに、私の心臓が、大きく跳ねる。

 お面の裏側、彼の指が、ほんの一瞬、私の頬に触れた。その熱さに、顔中が燃えるように熱くなる。

 レオンハルト様は、何を考えているのだろう。

 私を、どう思っているのだろう。


 そんな私の戸惑いを見透かしたように、彼は、お祭りの喧騒が、まるで嘘のように静まり返った声で、ぽつりと、語り始めた。

「……君は、覚えているかな」

「え……?」

「入学したばかりの頃だ。私は、ジークレント殿下の護衛見習いに、家柄の割に早く抜擢された。それを妬んだ上級生たちに、呼び出されて……まあ、少し、痛めつけられていた。

 誰もが、見て見ぬふりをして通り過ぎていった。だが、君だけが、違った。君は、大声で、『先生をお呼びしますわ!』と叫んで、彼らを追い払ってくれた。そして、私の元へ駆け寄ると、水で濡らした、小さなハンカチを、差し出してくれたんだ」


 その言葉に、私の記憶の扉が、ゆっくりと開かれていく。

 そうだ。そんなことが、確かに、あった。

 制服が泥だらけで、口の端から血を流している、一人の同級生。私は、ただ、怖くて、可哀想で、いてもたってもいられなくて……。

 あの時の人が、レオンハルト様だったなんて。


「あの時から、ずっと、君のことを見ていた」

 彼の告白は、あまりにも、静かで、穏やかだった。

 けれど、その言葉一つ一つに込められた、長い、長い年月の重みが、私の胸に、ずしりと響く。

「答えが、ほしいわけじゃないんだ」

 彼は、寂しげに、そう言って、微笑んだ。

「君に、立派な婚約者がいることも、知っている。私が、立ち入れる隙など、どこにもないことも。……ただ、僕が、君を好きだったということだけ、知っていて、欲しかった」

 衝撃に、私は、言葉を失った。


 ◇


 その様子を、物陰から、一人の少女が、じっと、見つめていた。

 自分のために、買ってきてくれるはずだった、思い出のお面。

 自分ではない女性に、特別な意味を込めて、渡される、その瞬間。

 そして、憧れの人の口から語られる、自分ではない女性への、一途な想い。

 彼女の、ささやかで、淡い恋は、その瞬間、音もなく、完全に、砕け散ってしまった。


 エマは、もう、そこにはいられなかった。

 溢れ出しそうな涙を必死に堪え、彼女は、誰にも気づかれることなく、静かに、その場を去っていった。


 ◇


 レオンハルト様に連れられ、とぼとぼと歩く私。突然の告白に、迷子だった情けない思いも吹っ飛び、頭の中はレオンハルト様のことで埋め尽くされていた。


「―――戻ったか」

 その声に釣られ、ふと顔をあげると、アレクシス様と、ジークレント王子が立っていた。


 アレクシス様の目は、まっすぐに、私と、私の隣に立つレオンハルト様を、射抜き、私が被っている狐のお面に、そして、何かを決意したようなレオンハルト様の表情に、そして、呆然としている私の顔に、順番に注がれる。

 彼は、何かを、感じ取ったのだ。

 ただ、はぐれた迷子を見つけただけではない、何か決定的な出来事が、この二人の間にあったのだ、と。


「―――帰るぞ」

 氷のように冷たい声だった。

 彼は、有無を言わさず、私の腕を、強く掴む。その力に、私は、思わず、小さな悲鳴を上げた。

「アレクシス様……!」

「………」

 私は、なすすべもなく、彼に引きずられるように、その場を後にした。

 振り返った先で、レオンハルト様が、悲しげな、そして、どこか、吹っ切れたような、複雑な表情で、私たちを見送っていた。


 私の心は、もう、めちゃくちゃだった。

 レオンハルト様からの、あまりにも純粋で、切ない告白。

 そして、アレクシス様から向けられる、今まで見たこともない、冷たく、しかし、それゆえに彼の執着を感じさせる、強引な態度。

 二つの、全く違う、けれど、同じくらい強い想い。


 私は、これからどうすればいい?


ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩

次回は、イザベラの可愛い回です。


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