公爵令嬢の涙
あの、すれ違いばかりだった夏祭りの夜から、数日が過ぎた。
星見の寮の空気は、もはや「重苦しい」という言葉ですら生ぬるいほどに、最悪の状態に陥ってしまった…
私、リリアーナは、アレクシス様とどう接すればいいのかわからず、彼の前では萎縮してしまうようになっていた。彼は、私と二人きりになることを巧妙に避け続けている。
レオンハルト様は、あの日以来、私と決して目を合わせようとしない。彼のあの告白は、まるで幻だったのではないかと思うほどに、彼は再び、完璧な「王子の護衛騎士」の仮面を被ってしまっていた。
そして、エマさんは、あの日から、どこか様子がおかしい。カイ先輩と文献調査をしている時以外は、ほとんど誰とも口を利かず、その小さな背中は、いつも何かを拒絶しているように、固く閉ざされていた。
自分の恋のことで、頭がいっぱいだ…レオンハルト様の告白と、アレクシス様の態度。
レオンハルト様は、なぜ、今、こんな時に告白をしてきたのだろう。
いつも穏やかで、完璧な婚約者だったアレクシス様が、なぜ、あんなにも冷たく接してくるのだろう。
その二つの間で、私の心は、まるで嵐の中の小舟のように、激しく揺れ動いていた。
けれど、この寮には、もう一人。私と同じように、あるいは、私以上に、深く傷ついている人がいる。
イザベラ・フォン・ヴァレンティン様。
あの実技訓練の日以来、彼女は、まるで魂が抜け殻になってしまったかのように、部屋に引きこもっていた。食事の時間にだけ、亡霊のようにふらりと談話室に現れるけれど、その顔色は青白く、誰とも視線を交わそうとはしない。
かつての、自信に満ち溢れた公爵令嬢の姿は、どこにもなかった。
(私の、せいだ……)
彼女をあそこまで追い詰めてしまったのは、他の誰でもない、私なのだ。
私が、出来損ないで、王子様の手を煩わせてしまったから。その結果、彼女のプライドと恋心を、粉々に打ち砕いてしまった。
私自身のことで精一杯で、彼女の痛みに、ずっと、蓋をしていた。
けれど、もう、見て見ぬふりはできない。
私は、昼食の席で、ほとんど手付かずだったスープ皿を静かに置くと、意を決して、椅子から立ち上がった。
◇
今日は、昼食にも現れなかったイザベラ様の部屋へと、まっすぐに向かう。
追い返されるかもしれない。また、辛辣な嫌味を言われるかもしれない。
それでも私は、彼女と話をしなければならない。そう、強く思ったのだ。
彼女の部屋の、重厚な扉の前で、私は一度、深呼吸をして、扉をノックした。
「……」
返事はない。
もう一度、今度は、もう少しだけ強く。
「……どなたですの」
中から聞こえてきたのは、くぐもった、か細い声だった。
「わたくしです。リリアーナ・ベルンシュタインです」
「……何の用ですの。わたくしは今、誰とも話す気分では……」
「お願いです、イザベラ様。少しだけでいいのです。お話を、させていただけませんか」
私の必死の言葉に、扉の向こうは、再び、長い沈黙に包まれた。
私が諦めて、踵を返そうとした、その時だった。
ぎぃ、と、小さな音を立てて、扉が、ほんのわずかだけ、開かれる。
その隙間から覗いたイザベラ様の姿に、私は、息を呑んだ…
いつもは完璧に結い上げられている金の髪は乱れ、目元は泣きはらしたように赤く腫れている。シルクの部屋着には皺が寄り、彼女の代名詞でもあった、圧倒的なまでの華やかさは、見る影もなかった。
ただ、その瞳だけが、かろうじて、公爵令嬢としてのプライドを保とうと、私を鋭く睨みつけていた。
「……何の用かと、聞いていますのよ」
「お部屋に、入れていただけますか」
私の真っ直ぐな言葉に、彼女は一瞬、怯んだように目を見開いた後、ふい、と顔を逸らし、扉を大きく開けた。
「……好きになさい」
その呟きは、諦めのようにも、聞こえた。
彼女の部屋は、物が散乱しているわけではなかったけれど、カーテンが閉め切られ、空気が、ひどく澱んでいた。まるで、イザベラ様の心の中を写しているようだ…
「それで?用件は何ですの。落ちこぼれのあなたに、慰められる趣味はなくてよ」
彼女は、棘のある言葉で、必死に心に鎧を着込んでいる。
私は、その鎧ごと、彼女の心に届くように、静かに、けれど、はっきりと、言葉を紡いだ。
「慰めに、来たのではありません」
「……では、何ですの」
「私も、同じだからです」
「……は?」
私の言葉の意味がわからず、イザベラ様は、怪訝な顔で私を見る。
「大切な人の前で、失敗してしまって、みじめで、悔しくて……そのお気持ちは、わたくしにも、痛いほど、わかりますから」
出来損ないの自分。アレクシス様にふさわしくあろうと、必死にもがいて、それでも、空回りばかりしてしまう自分。アレクシス様の隣で、堂々とアシストをしているイザベラ様への嫉妬…
そう、嫉妬していたのだ。これが恋なのか、婚約者の座への執着なのかはわからない…でも、隣にいるのは私でありたいと思ってしまった。
それらを、包み隠さず伝えると、私の言葉に、イザベラ様の瞳が、大きく揺れた。
彼女の唇が、わなわなと震え、何かを言おうとして、やめる。その葛藤を、私は、ただ、静かに待った。
やがて、彼女の瞳から、一粒、また一粒と、堪えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ち始めた。
「……わたくしは、ずっと……」
それは、今まで聞いたこともないような、弱々しい、少女の声だった。
「小さい頃から、ずっと、ジークレント殿下の、お妃になるのだと、そう言われて、育ってきましたの」
彼女の告白に、私は息を呑む。公爵家と、王家の間で、そういう話があったのだろう。
「でも…」
イザベラ様は、ぎゅっと唇を噛み締め、潤んだ瞳で私を見つめた。
「でも、義務だからでは、ありませんの。わたくしが、殿下を……好きに、なったからです」
初めて聞く、彼女の偽らざる本心。その言葉には、長い年月が込められた、切実な響きがあった。
「あれは、わたくしがまだ、七つの頃でしたか……。初めてお城の夜会に連れていかれた夜のことです」
彼女は、遠い昔を懐かしむように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「大人たちの退屈な会話に飽きて、こっそり庭園に抜け出したのですけれど……すぐに迷子になってしまって。心細くて、泣いていたわたくしの前に、現れたのが、殿下でした」
当時の光景が、目に浮かぶようだった。
「殿下も、きっと、夜会を抜け出してこられたのでしょうね。わたくしを見つけるなり、『こんなとこでメソメソするな。みっともないぞ』と、ぶっきらぼうにおっしゃって」
彼女は、ふふ、と力なく笑った。
「でも、そう言いながら、殿下は、わたくしの手を引いて、パーティー会場まで、黙って連れ戻してくださった。その時の、ぶっきらぼうだけど、大きくて温かいお手と、照れくさそうに顔を背けていた横顔を……わたくし、ずっと、忘れられなくて」
彼女の瞳は、ただの公爵令嬢ではなく、初めての恋を大切に胸に抱き続ける、一人の少女のそれだった。
「あの時から、ですわ。わたくしが、本気で、殿下の隣に立ちたい、と願うようになったのは」
その純粋な想いを知ってしまったら、もう、彼女をただの意地悪なライバルだなんて、思えるはずもなかった。
「だから、わたくしは、頑張らなくてはならなかった。殿下にふさわしい、誰よりも優れた令嬢に。魔法も、作法も、ダンスも、すべて……。血が滲むような努力を、してきましたわ」
彼女の白い拳が、ぎゅっと、固く握りしめられる。
「けれど……殿下は、きっと、あの夜のことなど覚えてもいらっしゃらない。わたくしが、どれだけ努力しても、あの人の心には、届かない」
そして、彼女は、顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「わたくしは……殿下の隣に立つには、何もかも、足りないのですわ……!」
わがまま令嬢の仮面の下に隠されていた、あまりにも、ひたむきで、不器用な、恋心。
私は、胸が締め付けられるような思いで、彼女の告白を聞いていた。
この人は、ただプライドが高いだけじゃない。
誰よりも、努力家で、誰よりも、一途な人なんだ。
気づけば、私は、彼女の隣に移動し、その震える背中を、そっと、さすっていた。
イザベラ様は、びくりと体を強張らせたけれど、私の手を、振り払うことはしなかった。
その日、私たちは、どちらが先に口を開くでもなく、ただ、長い時間、寄り添い合っていた。
ライバルでも、敵でもない。
ただ、同じように、恋に悩み、傷ついた、一人の少女として。
私たちの間には、確かに、不思議な、温かい連帯感が、生まれていた。
◇
その、二人の少女の、ささやかな和解を。
廊下の隅で、一人の男が、聞いてしまっていたとは、彼女たちは、知る由もなかった。
(……あいつ)
ジークレントは、壁に背を預け、静かに、目を閉じていた。
たまたま通りかかった、というのは、嘘になる。
リリアーナが、イザベラの部屋へ向かうのを見て、気になって、後をつけてきてしまったのだ。
令嬢など、家のことや、自分の身分、そして、王族という立場にしか興味のない、面倒な生き物だ。彼は、ずっと、そう思っていた。
特に、イザベラ・ヴァレンティン。
彼女から向けられる、あからさまで、隠しようのない好意は、正直なところ、苦手だった。彼女が自分を見ている時、その瞳の奥に、公爵家の野心や、王妃という地位への渇望が、透けて見えるような気がしていたからだ。
だから、彼女自身を、よく見ようともしなかった。
けれど。
(……ただ、見てほしかった、だけなのか)
先ほど聞こえてきた、彼女の涙ながらの告白。
そこに、計算や、野心の色はなかった。
あったのは、ただ、ひたむきで、報われなくて、それでも、諦めきれない、一人の少女の、痛々しいほどの、恋心だけだった。
自分が、彼女の表面しか見ずに、その努力も、想いも、すべて、切り捨てていたのだ。
そのことに気づいた時、ジークレントの胸に、ちくりと、小さな罪悪感が芽生えた。
◇
その夜。
ジークレントは、月明かりだけが照らす、中庭にいた。
昼間の会話を聞いて以来、どうにも、寝付けなかったのだ。
すると、中庭の隅にある、小さな訓練場で、一つの人影が、必死に魔法の訓練をしているのが見えた。
イザベラだった。
昼間、あんなに泣いていたというのに。彼女は、涙の痕も隠し、ただ、ひたむきに、何度も、何度も、同じ魔法を、放っていた。
その姿は、痛々しく、そして、どこか、神々しいほどに、美しかった。
ジークレントは、まるで、何かに引き寄せられるように、彼女の元へと、歩み寄っていた。
「―――そんなやり方じゃ、効率が悪い」
ぶっきらぼうな声に、イザベラの肩が、びくりと跳ねた。
振り返った彼女は、そこに立っているのが、一番会いたくて、一番会いたくなかった人物であることに気づき、サッと顔を青くする。
「じ、ジークレント殿下……!なぜ、ここに……」
「お前の魔力は、強すぎるんだ。だから、力任せに放とうとして、制御が雑になる」
彼は、彼女の狼狽などお構いなしに、淡々と、指摘を始めた。
「もっと、力を抜け。魔法陣の構築イメージも、雑だ。もっと、緻密に、設計図を描くように、頭の中で組み立てろ」
「……え?」
「貸してみろ」
ジークレントは、有無を言わさず、イザベラの杖を取り上げると、彼女の手本を見せるように、軽やかに、魔法を放ってみせた。
それは、彼女が放っていたのと同じ『光槍』。けれど、その軌道も、威力も、美しさも、比べ物にならないほど、完璧だった。
イザベラは、最初は、ただ、呆然としていた。
けれど、すぐに、彼の言葉が、ただの罵倒ではなく、自分を対等な魔術師として認めた上での、的確なアドバイスであることに、気づいた。
それは、彼女が、ずっと、ずっと、彼から欲しかったものだった。
(見て、くださっている……)
私の魔法を、私の努力を、この人は、ちゃんと、見て、くださっている。
その事実に、彼女の胸は、熱いもので、いっぱいになった。
ジークレントの、あまりにも不器用な、けれど、確かな優しさに触れ、彼女の瞳から、再び、涙が、ぽろりとこぼれ落ちる。
「……ありがとう、ございます……!」
彼女は、心の底から、そう言って、深々と、頭を下げた。
その、あまりにも素直な姿に、今度は、ジークレントの方が、少しだけ、面食らう。
そして、彼は、どこか、照れくさそうに、ぽりぽりと、頬を掻いた。
「……まあ、根性だけは、あるようだな」
彼の口元に、ほんのわずかだけ、柔らかな笑みが浮かんでいたことを、俯いていたイザベラは、知らない。
月明かりの下、二人の間には、まだ、ぎこちないけれど、確かに、温かい空気が流れていた。
ひたむきな公爵令嬢の涙は、氷のように閉ざされていた王子の心を、ほんの少しだけ、溶かし始めたのかもしれない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩
次回は、どうなるアレクシスとリリアーナ!
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