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臆病な天才と、無自覚な変人

 これは、私、エマ・シュミットの、ほんの小さな冒険の物語。


 あの、実技訓練での事件以来、星見の寮の空気は、まるで鉛のように重く、冷たく、沈み込んでいた。

 イザベラ様は、ジークレント殿下に叱責されたショックから、部屋に引きこもってしまわれた。リリアーナ様も、ご自分のせいだと心を痛めているのか、いつも窓の外をぼんやりと眺めている時間が増えた。そして、アレクシス様は、そんなリリアーナ様を遠巻きに見つめるだけで、その表情は以前にも増して険しくなっている。


 そんな中で、私たちの本来の目的である「失われた古代魔法の再現」の研究は、当然のように、完全に停滞していた。

「……私には、何もできない」

 談話室の隅で、分厚い古書を広げながら、私は何度目かもわからないため息をついた。

 リリアーナ様のように、皆の中心で心を痛めることも、イザベラ様のように、感情を爆発させることも、私にはできない。ただ、この重苦しい空気の中で、息を殺しているだけ。

 嵐の夜、レオンハルト様がリリアーナ様の手を取った時、私の心に芽生えた小さな痛み。

 彼が見ているのは、いつだって、眩しい場所にいるリリアーナ様のような方なのだ。

 そう思うと、胸の奥がきゅうっと締め付けられて、息が苦しくなる。


 私にできることなんて、何もない。そう、思っていた。

 ―――その時までは。


「駄目だ。ここにある文献は、すべて表向きのものばかりだ」

 突然、静寂を破ったのは、カイ先輩の声だった。

 彼は、この数日間、文字通り寝食を忘れて寮の書庫にある文献を読み漁っていたが、ついに全ての資料を調べ終えたらしい。彼は、ぱたん、と最後の一冊を閉じると、心底うんざりしたように言った。

「予想はしていたが、核心に触れる記述が、意図的に削除されている。これでは、永久にたどり着けない」

「では、どうするのですか?」

 リリアーナ様の、か細い声が尋ねる。

 その問いに、カイ先輩は、初めて、楽しそうな、挑戦的な笑みを浮かべた。

「決まっているさ。なければ、探すまでだ」

「探す、と申しましても……」


「この星見の寮を設計したのは、百年前の宮廷魔術師、アルベルト・ファン・シュタイン。彼は、時の王に疎まれ、表舞台から姿を消した異端の天才だ。そんな男が、自分の研究成果を、誰でも見られるような書庫に置くと思うかい?」

 カイ先輩は、まるで謎解きをする子供のように、目を輝かせている。

「彼は、この寮のどこかに、自身の本当の研究を隠した『禁書庫』を作っているはずだ。僕は、そう確信している」

「禁書庫……!」


 その言葉に、アレクシス様が、鋭く眉をひそめた。

「カイ先輩。学園の許可なく禁書庫に立ち入ることが、どれほど重い校則違反か、ご存じのはずだ。見つかれば、停学では済まない」

「規則より、真理の探求が優先されるべきだ。僕は、そう思うけどね」

「しかし!」

「それに、我々には時間がないんだろう? 成果発表会は、もう二週間後に迫っている。正攻法で間に合うとは思えない」

 カイ先輩の言葉に、アレクシス様はぐっと押し黙る。

 正論だった。このままでは、王子の留年が確定してしまう。そうしたら、王命でチームとなった私たちの扱いもどうなることか…

 カイ先輩は、そんな私たちの葛藤などお構いなしに、あっけらかんと言い放った。


「というわけで、今夜、僕は一人でその禁書庫を探すことにするよ。皆は、何も知らなかった、ということでいい」

 それは、あまりにも、無責任で、自分勝手で……そして、ほんの少しだけ、私の目には輝いて見えた。

 自分の信じるもののために、迷いなく突き進むその姿が。


 ◇


 その夜、寮のメンバーが寝静まり、窓の外から、虫の音だけが聞こえてくる頃。

 私は、自室のベッドの上で、膝を抱えていた。

 心臓が、どきどきと大きな音を立てている。

(怖い……)

 見つかれば、男爵家であるシュミット家そのものに、迷惑がかかってしまうかもしれない。それに、もし禁書庫に、危険な魔法罠でも仕掛けられていたら……。

(でも……)


 私の脳裏に、嵐の夜の光景が蘇る。

 怯えるリリアーナ様の手を、力強く握ったレオンハルト様の、広い背中。

 彼は、自分の役目を果たしただけなのかもしれない。けれど、あの時の彼は、確かに、リリアーナ様の「力」になっていた。

(私だって……)

 私だって、誰かの力になりたい。

 お荷物だと、役立たずだと思われているかもしれないけれど、私にだって、できることがあるかもしれない。

 私の唯一の得意分野。それは、古代語と、魔法薬学に関する知識だけ。もし、もしも、その知識が、カイ先輩の役に立つとしたら……。


 気づいた時、私は、ベッドからそっと抜け出し、音を立てないように、部屋の扉を開けていた。

 自分の心臓の音に負けないくらいの、ほんの小さな勇気を、振り絞って。

 カイ先輩は、すぐに見つかった。

 彼は、寮の一階、一番奥の廊下で、一本の蝋燭の灯りを頼りに、壁の石を一つ一つ、調べていた。

 その真剣な横顔に、私は、ごくりと唾を飲み込む。

「あ……あのっ、カイ先輩!」

 私の声に、彼の肩が、びくりと揺れた。振り返った彼の顔は、珍しく、驚きに彩られている。

「……エマさん? どうして、ここに」

「わ、私も……お手伝い、します! その……禁書庫、探し」

 しどろもどろになりながらも、私は、なんとかそれだけを言った。


 カイ先輩は、ぱちぱちと数回まばたきをした後、ふっと、小さく笑った。

「そうかい。……じゃあ、手伝ってくれると助かる。なにせ、この寮は、無駄に広いからね」

 彼は、特に理由を問うこともなく、あっさりと、私の同行を認めてくれた。そのことが、なんだか、とても嬉しかった。

 二人での探索は、思ったよりも、ずっと根気のいる作業だった。

 カイ先輩は、古い寮の設計図の写しを元に、「この壁の裏に、不自然な空間があるはずだ」と、当たりをつけている。けれど、どれだけ壁を叩いても、調べても、隠し扉のようなものは、どこにも見当たらなかった。

「おかしいな……。計算上は、ここなんだが……」

 カイ先輩が、首を捻る。

 私は、彼が調べている壁を、蝋燭の灯りで、そっと照らしてみた。

 石造りの壁には、びっしりと、緑色の蔦が絡みついている。何の変哲もない、ただの古い蔦だ。


 そう、思った時、ふと、その葉の形に、私は、見覚えがあるような気がした。

「カイ先輩……この植物、もしかして……」

「ん? ああ、ただのアイビーだろう? ……いや、違うな」

 カイ先輩も、私の視線の先に気づき、蔦の葉を一枚、指でつまみ上げた。

「葉脈に、微かな魔力が流れている……。それに、この独特の銀色の斑点。まさか……」

「はい……『月光の蔦(ルナ・アイビー)』です」

 私の言葉に、カイ先輩が、はっとした顔で私を見た。

「月の光を浴びるまで、その本体を決して開くことのない、幻の魔法植物。古典の薬草学の文献でしか、見たことがありませんでした」

「……なるほど。だから、今まで誰にも見つからなかったのか」

 カイ先輩は、納得したように頷くと、近くの窓のカーテンを、勢いよく開けた。


 窓の外には、満月が、こうこうと輝いている。

 銀色の月光が、廊下に差し込み、壁の蔦を照らし出した、その瞬間だった。

 ―――ゴゴゴゴゴ……。

 低い地響きと共に、蔦が、まるで生きているかのように、するすると動き始めた。そして、蔦に覆われていた壁の一部が、音もなく、内側へとスライドしていく。

 後に現れたのは、一人の人間が、やっと通れるくらいの、黒々とした、闇の入り口だった。

「……見つけた」

 カイ先輩が、歓喜の声を漏らす。

 私の、ほんの小さな知識が、固く閉ざされていた扉を、開いたのだ。

 その事実に、私の胸は、喜びで、きゅうっと、甘く締め付けられた。


 禁書庫の中は、想像を絶する空間だった。

 埃っぽく、黴と、古い紙の匂いが、鼻をつく。そして、壁という壁が、床から天井まで、びっしりと、古書で埋め尽くされている。

「……すごい」

 思わず、ため息が漏れた。

 カイ先輩は、すでに、子供のように目を輝かせ、書架から書架へと、飛び移るように移動している。

「間違いない……。アルベルトの、本物の書庫だ!」

 私たちは、それぞれ、蝋燭を手に、目的の文献を探し始めた。


 けれど、その作業は、大海で一本の針を探すようなものだった。

 カイ先輩が、時折、何かの呪文のような言葉を呟く。それは、古代魔法の理論に関するものらしかった。

「……『マナの逆流』と、『時間の歪み』を同期させるには、触媒が必要なはずだ……」

「あの、カイ先輩」

 私は、おずおずと、声をかけた。

「その理論でしたら、古代ドワーフ族が、希少鉱物を精錬する際に用いた記述と、似ています。この、薬草学の古典によると、『竜の涙』と呼ばれる結晶を、触媒にしていた、と……」

「……なに?」

 カイ先輩が、驚いたように、私を振り返る。

 彼は、私が示したページを食い入るように見つめると、「そうか……! 触媒は、鉱物だったのか!」と、興奮したように声を上げた。


 それから、私たちの連携は、驚くほどうまくいった。

 カイ先輩が、魔法理論の壁にぶつかると、私が、薬草学や鉱物学、あるいは、古代語の観点から、別の可能性を示す。すると、カイ先輩が、それを元に、新たな理論を構築していく。

 まるで、歯車が、ぴたりと噛み合ったかのようだった。

 そして、ついに、私たちは、書庫の中央に置かれた、厳重に封印された一冊の魔導書を発見した。

 これこそが、私たちの探していた、『星詠みのアルカナ』の原書に違いなかった。

 けれど、その表紙に書かれていたのは、今まで、どの文献でも見たことのない、鳥の足跡のような、奇妙な文字だった。

「……くそっ。超古代文字か。これの解読には、さすがに時間が……」

 カイ先輩が、悔しそうに呟く。


 私は、その文字を、食い入るように見つめた。

 見たことは、ない。けれど、この、線の流れ、点の配置。何かに、似ている。

 そうだ。これは……。

「カイ先輩。これ、もしかしたら、古代ドワーフ族が、薬草の効能を記録するために使っていた、象形文字の、原型かもしれません」

「……なんだって?」

「ほら、この鳥の足跡のような形は、『飛翔』を意味します。そして、隣の、雫のような形は、『癒し』を……。つまり、これは、詩的な表現なんです。たとえば、『傷ついた鳥を、再び空へ羽ばたかせる』といった……」

 私の言葉を聞きながら、カイ先輩は、最初は半信半疑だった顔を、次第に、驚愕の色へと変えていった。


 そして、彼は、研究への没頭から、ふと我に返ったように、隣にいる私の顔を、まじまじと見つめた。

 その、あまりにも真っ直ぐな視線に、私の心臓が、大きく、跳ねる。

「……素晴らしい。君は、すごいな。本当に」

 彼の言葉には、社交辞令や、からかいの色は、一切、含まれていなかった。

 そこにあるのは、純粋な、研究者としての、偽りのない、尊敬と、感嘆。

 そして、彼は、ごく自然な仕草で、私の手を、ぎゅっと握った。

 その目は、まるで、希少な文献を見つけた時と同じように、真剣で、キラキラと、輝いていた。

「ねえ、エマさん。僕の、助手にならないかい?」


 その瞬間、私の世界で、何かが、弾けた。

 生まれて初めてだった。誰かに、私の知識を、私という存在そのものを、こんなにも、真っ直ぐに、認めてもらえたのは。

 熱いものが、込み上げてきて、視界が滲む。

「……はいっ……!」

 私は、涙で濡れた声で、けれど、人生で一番、はっきりとした声で、そう、頷いていた。


 その夜、私たちは、夜が明けるまで、文献の解読に没頭した。

 そして、古代魔法『星詠みのアルカナ』の核心に触れる、一つの重要なヒントを発見したのだ。

『星々の魔力は、強き器ではなく、細き路をこそ求む』

 それは、強大な魔力で発動させる魔法ではなく、まるで、繊細な絹糸を、丁寧に織り上げるように、編み上げていく魔法だ、ということ。

 この事実は、まだ誰にも言えない、私と、カイ先輩だけの、秘密になった。

 東の空が、白み始める頃。

 私たちは、こっそりと、禁書庫を後にした。


 自分の部屋へと戻る廊下を歩きながら、私は、自分の心の中にわずかな変化を感じていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩

次回は、みんなで夏祭りです!


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