怒れる淑女はリスに似ている
星見の寮での共同生活が始まって、4日が過ぎた。
私たちの毎日は、ぎこちないながらも、ルーティンをこなしている。
早朝、私とイザベラ様、そしてエマさんの女性陣で朝食の支度をする。といっても、公爵令嬢であるイザベラ様は「火の粉でドレスが傷んだらどうするのよ!」と言って、パンにバターを塗るくらいしかしないのだけれど…
食事が終われば、男性陣が寮の掃除をし、私たちは洗濯や食材の管理。
そして、午前中の陽が談話室に差し込む頃、私にとって、最も憂鬱な時間がやってくる。
「――では、殿下。本日は、魔法史の第三章から始めさせていただきます」
談話室の中央に置かれた大きなローテーブル。その向かいに座るジークレント王子を前に、私は背筋を伸ばし、できるだけ平静を装って言った。
心臓は、恐れ多いという気持ちと、どうしてやろうかこの落ちこぼれ王子!という気持ちで、震えている。
「あー……かったりぃ……」
王子は、隠す気もない、というよりむしろ見せつけるように大きなあくびをすると、肘をついて窓の外を眺めている。教科書には、指一本触れていない。
「殿下。聞いていらっしゃいますか?」
「聞いてる聞いてる。魔法史だろ? どうせ、昔の偉い奴がすごい魔法を使いました、ってだけの話だ。興味ねぇな」
「それでは、成績は上がりません。これは、殿下ご自身のためなのですよ」
「俺のため、ねぇ……」
王子はつまらなそうに言うと、今度は手に持った羽根ペンをくるくると回し始めた。その指先から、ふわりと小さな風の魔法が生まれて、ペンが軽やかに宙を舞う。無駄に魔法の才能があるのが、腹立たしい!
(我慢、我慢よ、リリアーナ……)
相手は王子!私は、ただの伯爵令嬢!そして、彼の成績を上げることが、私たち全員に課せられた使命!ここで私が感情的になることなど…許されない…!
私はにこりと、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。
「では、まずはこちらの問題を解いていただけますか? 去年の期末試験で出題されたものです」
「……」
返事はない。王子は、今度は私の髪に結んだリボンをじっと見ていた。
「なんだそのリボン。昨日と色が違うな」
「え? あ、はい。毎日、替えておりますので…」
「ふーん。ご苦労なことだ」
ピキっと頬が引きつるのを感じる…私のリボンがあなたに何か迷惑かけました?!
「……殿下。問題の方を」
「なあ、リリアーナ」
「は、はい!?」
不意に名前を呼ばれ、私の背筋がぴんと伸びる。
「なぁ、お前さ、この場所にいて、違和感感じないか?」
「は?」
「お前、 何ができるんだ? 成績も中途半端、魔法はヘタクソ。お飾りの婚約者がいるだけのお荷物じゃないか?」
―――ぷつん。
その瞬間、私の頭の中で、かろうじて繋がっていた理性の糸が、音を立てて切れた。
気づいた時には、私はテーブルを両手でバンッ!と叩き、椅子から立ち上がっていた。
「お荷物とは、なんですか!」
自分でも驚くような大声だった。
談話室にいた全員の視線が、一斉に私に突き刺さる。興味深そうにこちらを見るカイ先輩、怯えたように私と王子を見比べるエマさん、そして……いつもは無表情なレオンハルト様が、わずかに目を見開いている。
けれど、もう、私には、目の前の不遜な王子しか見えなかった。
「わたくしが、どれだけこの合宿に参加したくなかったか、殿下にご理解いただけますか!? わたくしだって、本当なら今頃、自領に帰って、家族と過ごしていたはずなんです!かわいい!弟と!仲良く遊んでいたはずなんです!」
「お、おい……」
「殿下が! 殿下が普段から真面目に授業をお受けになっていれば、こんなことにはならなかった! それなのに、そのご本人が、一番やる気がないとはどういうことです!?」
ああ、もうだめ。止まらない!
今まで、完璧な淑女であろうと、アレクシス様の隣に立つにふさわしい令嬢であろうと、ずっとずっと自分を抑えつけてきた。その箍が、完全に外れてしまった。
「このままだと、留年なんですよ? この夏季休暇にみんなを巻き込んだ自覚はありますか? アレクシス様だって、生徒会の引き継ぎでお忙しいはずでした! カイ先輩も、ご自身の研究があったはずです! 自領に帰るのを楽しみにしていた人もいるんです!!」
自分のこともそうだが、この理不尽な状況に、大切な婚約者や、他の皆が巻き込まれてしまったことが、許せなかったし、それに対して何も思っていなさそうな王子には、心底腹立たしさを感じていた。
挙句の果てに『お荷物』とは!間違ってはいないけど、お前が言うな!!
一気に捲し立てた私は、はっはっ、と肩で息をする。
やがて、しん、と静まり返った談話室に、王子の声が響いた。
怒鳴られる、と身構えた私の耳に届いたのは、意外な音だった。
「く……くくっ……あはははは! なんだ、お前! 最高だな!」
王子は、腹を抱えて笑い出した。涙を浮かべるほどに。
あっけに取られて固まる私に、彼はひとしきり笑った後、楽しそうに言った。
「お前は怒るとリスのようだな。そんな膨れっ面の淑女は見たことないぞ?」
「……っ! あなたが、こういう顔にさせるようなことをしているからでしょう!?」
私がさらに顔を真っ赤にして睨みつけると、王子はますます愉快そうに笑う。
「いいじゃねぇか、そういうの。気に入った。よし、勉強でもなんでも、やってやるよ」
「え……?」
「ただし、俺がやる気になるかどうかは、お前次第だ。せいぜい、毎日俺を楽しませてくれよ、リリアーナ先生?」
楽しげにウインクまでする王子に、私は言葉を失った。
からかわれている…間違いなく、からかわれている!
私が、人生で初めてと言っていい、感情を爆発させた瞬間…冷静になると、恥ずかしすぎる…
その時、談話室の入り口で、護衛のために控えていたレオンハルト様が、かすかに口元を綻ばせ、くすくすと笑い声を漏らしたのを、私は見逃さなかった。
そして、その光景を、部屋の扉の隙間から、一人の人物が複雑な表情で見つめていた…
◇
(リリアーナが、怒る……?)
アレクシスは、談話室の扉の前で、静かに立ち尽くしていた。
彼の知るリリアーナ・ベルンシュタインは、常に穏やかで、控えめで、淑女の鑑のような女性だ。感情を荒げることなど一度もなく、いつも完璧な微笑みを浮かべている。
だが、今、彼が見た彼女は、頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませ、全身で怒りを表現していた。
それは、アレクシスが今まで一度も見たことのない、彼女の素顔だった。
(リリアーナは、怒ることもあるのだな)
なぜだろう。その光景に、胸の奥が、ぽっと温かくなったような気がした。
まるで、完璧な人形だと思っていた存在が、初めて人間らしい表情を見せたような、そんな不思議な感覚。
だが、その直後、ちくり、と胸のどこかが痛んだ。
――なぜ、自分は、彼女のあんな顔を見たことがなかったのだろうか。
婚約者である、この自分にではなく、出会って数日のジークレント王子に、彼女は心を許し、感情をぶつけている。
その事実が、アレクシスの完璧に整えられた心に、小さな、しかし無視できないさざ波を立てた。彼は、その正体不明の感情から逃れるように、静かにその場を離れた。
◇
次の日。
アレクシスが、ジークレント王子の座学を担当する番になった。
「では、殿下。始めます」
アレクシスが教科書を開くと、王子は昨日とは打って変わって、あからさまに退屈そうな態度で頬杖をついている。
「なんだ、今日はお前か。リリアーナじゃないのかよ」
「本日は、私の担当ですので」
「ちぇっ。つまらん」
アレクシスは、王子の態度を無視して、淡々と講義を進めていく。しかし、彼は気づいていた。
王子は、一見、何も聞いていないように見せかけて、時折、鋭い視線で教科書の一点を見つめていた。そして、アレクシスが出す問題に対して、わざとらしく、しかし絶妙に惜しい間違い方をするのだ。
(……なるほど)
アレクシスは、内心で結論づけた。
落ちこぼれ王子などといわれているが、実は、出来ない振りなのでは?
この国には、病弱な第一王子を次期国王にと推す派閥と、才気煥発な第二王子を推す派閥が存在する。王宮内の権力争いは、年々、激化していると聞く。
おそらく彼は、兄である第一王子を立て、無用な争いを避けるために、わざと「無能な王子」を演じているのだ。そのために、留年すれすれの成績を維持しているに違いない。
(だとしたら、とんでもない食わせ者だな。まぁ、私には関係ないが…)
アレクシスがそんなことを考えていると、不意に、王子がニヤリと笑って話を振ってきた。
「おい、アレクシス。お前の婚約者は、大人しそうな顔をして、意外とヤンチャだな」
「……ヤンチャでは、ありませんよ。彼女は、淑女の鏡です。昨日は、あなたが怒らせたからでしょう?」
冷静に返しながらも、アレクシスの心はわずかに揺れた。昨日の、頬を膨らませたリリアーナの顔が、脳裏にちらつく。
「なんだ、見ていたのか。リスの頬袋のようにほっぺたを膨らませて、なかなか可愛らしかったぞ」
「……っ」
リリアーナは、自分の前では決して見せない顔で、怒っていたはずなのに。それを、他の男に「可愛らしかった」などと評価される。
それが、どうしようもなく、面白くなかった。
アレクシスの動揺を見透かしたように、ジークレントはさらに言葉を続ける。
「お前、婚約者だからと気を抜きすぎてないか? 今時、婚約破棄なんぞ、珍しくもないぞ?」
その言葉は、毒矢のように、アレクシスの心に突き刺さった。
「ま、せいぜい、リリアーナに捨てられないようにな」
わけ知り顔でニヤニヤと笑う王子に、アレクシスは完璧な無表情を保ったまま、内心で燃え上がる不愉快な感情を、ただじっと、押し殺すことしかできなかった。
婚約は、家のための、政略的なもの。そこに、個人の感情が入り込む余地はない。
そう、信じていた。
なのに、なぜ。
「リリアーナに捨てられる」という、ありえないはずの仮定が、これほどまでに、自分の心をかき乱すのだろうか。
アレクシス・グレイフィールドは、この時、生まれて初めて、自分の完璧な世界にひびが入る音を聞いた…
ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩
次回、レオンハルト!動く!
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