嵐の夜と、王子の命令
星見の寮での生活が始まって、10日経った。
あれからジークレント王子は、私が担当する午前中の勉強会に、意外なほど真面目に参加するようになった。
もちろん、相変わらず態度は不遜だし、私を「リス先生」などとからかって面白がっているけれど、少なくとも教科書を開こうともしなかった初日とは大違いだ。
そのおかげか、当初は一触即発だった寮の空気も、ほんの少しだけ、穏やかなものへと変わり始めていた。
午後の文献調査では、カイ先輩とエマさんが、古代語で、楽しげに議論を交わしている。
なんだか蚊帳の外で、そのイチャイチャ感がなんだか腹立たしい…
私は、二人が解読した文献を、ひたすらノートに書き写し、整理するという地味な作業に没頭している。まぁ、実技と違って、座学は私の得意分野。自分の知識が、少しでもこの絶望的な課題の役に立っていると思えば、私のささくれだった心をささやかに満たしてくれていた。
イザベラ様も、アレクシス様と二人きりで行う魔法陣の構築作業に、まんざらでもない様子だ。
こちらは、こちらで腹立たしいが、イザベラ様が大人しくしてくれるだけでも僥倖と思おう。
(このまま、何もなければいいけど……)
◇
そんな淡い期待を抱き始めた、合宿12日目の夜のこと。
その日の夕食後、私たちはいつものように談話室に集まり、それぞれの作業を進めていた。
窓の外では、昼間からの曇り空が、ついに重い雨を降らせ始めていた。ぱらぱらと窓ガラスを叩いていた雨粒は、やがて、ざあざあとバケツをひっくり返したような豪雨へと変わる。
ゴロゴロ……。
遠くで、空が唸るような音がした。
その音に、私の肩が、ぴくりと小さく跳ねる。ノートに文字を書きつけていた羽根ペンが、微かに震えた。
(いや、大丈夫。まだ、遠い……)
私は、誰にも気づかれないように、ゆっくりと深呼吸をする。
昔から、雷が鳴るような嵐の夜が、どうしようもなく苦手だった。屋敷の頑丈な壁に守られていても、あの、天が裂けるような轟音と、世界が白く染まる閃光は、理屈ではなく恐ろしい…
しかし、私の隣の席では、婚約者であるアレクシス様が、難しい顔で魔法陣の設計図を広げている。彼に、子供のように雷を怖がる姿など、絶対に見られたくなかった。完璧な彼の隣に立つには、私もまた、完璧な淑女でなければならないのだから…
私は懸命に平然を装い、再び文献に意識を集中させようとした。
だが、嵐は、そんな私の小さなプライドを嘲笑うかのように、勢いを増していく。
―――ピカッ!
突然、窓の外が真っ白に染まった。一瞬遅れて、耳をつんざくような轟音が、寮全体を揺るがす。
ドゴォォォォンッ!
「きゃっ!」
「ひっ……!」
ほとんど同時に、二つの小さな悲鳴が上がった。
一つは、ソファの隅で本を読んでいたエマさん。そして、もう一つは……不覚にも、私自身の口から漏れたものだった。
しまった、と思った時には、もう遅い。
談話室にいた全員の視線が、一斉に私とエマさんに集まる。イザベラ様が呆れたようにため息をつき、カイ先輩が不思議そうにこちらを見ている。
そして、アレクシス様が、驚いたように、わずかに目を見開いていた。
ああ、見られた!一番、見られたくない人に…
その、次の瞬間。
ぱちん、と小さな音がして、談話室を照らしていた魔導灯の光が、一斉に消えた。
古い寮の魔法設備が、近くに落ちた雷の影響に耐えきれなかったのだろうか。
一瞬にして、私たちの世界は、完全な闇と、窓を叩きつける雨音、そして、心臓を鷲掴みにするような雷鳴だけになってしまった。
「うわっ、なんだ!?」
「停電!? どうなっているのよ!」
暗闇の中で、ジークレント王子とイザベラ様の声が響く。
「慌てるな」
その混乱を、凛とした声が制した。アレクシス様だ。
「古い寮だ、こういうこともあるだろう。確か、倉庫に予備の魔導灯とロウソクがあったはずだ。カイ先輩、手伝っていただけますか」
「ああ、構わないよ」
「私たちはすぐ戻る。他の者たちは、下手に動かず、そこで待機していてくれ」
さすがは、生徒会長。闇の中でも、彼のリーダーシップは揺るがない。
私はその頼もしさに安堵すると同時に、彼がここからいなくなってしまうことに、少し不安を感じていた…
やがて、二人の足音が遠ざかっていく。
後に残されたのは、息を殺した五人と、支配的な闇。そして、ますます猛威を振るう、嵐の音…
しん、と静まり返った談話室に、ひときわ大きな雷鳴が轟いた。
バリバリバリッ! ドォォン!
「ひゃっ……!」
今度は、抑えきれなかった。私は両手でぎゅっと耳を塞ぎ、体を固くする。心臓が、痛いほどに速く脈打っていた。
淑女として、はしたない。みっともない。
分かっているのに、恐怖で体が言うことを聞かない。
そんな私の耳に、闇の中から、面白がるような声が聞こえてきた。
「くくっ……情けねぇ悲鳴だな」
ジークレント王子だ。彼は、闇の中でも、私が怯えているのがわかって面白がっている…悔しぃ!しかし、いつ轟音が落ちてくるかわからない中、動くこともできないでいる私…
「おいレオン。俺のチームのメンバーが怖がってるだろ。なんとかしろ。それが護衛騎士の役目だ」
その声は、ただの命令ではない。
まるで、これから始まる面白い芝居を、特等席で観覧する観客のような、そんな悪戯っぽい命令…
なんでそんなことを?と混乱する中、王子の言葉を受け、レオンハルト様が、静かに私の方へと近づいてくる。
闇の中、床を擦るブーツの微かな音。
私のすぐそばで、その足音が止まる。目の前に、誰かが立っている。
息を詰めた私の耳元で、低く、落ち着いた声がした。
「失礼します」
次の瞬間、固く握りしめていた私の右手が、無骨で、大きな手によって、そっと包み込まれた。
びくり、と私の体が震える。
けれど、彼の手は、驚くほど温かかった。いつも剣を握っているのだろう、少し硬くなった皮膚と、騎士らしい力強い指。その温もりが、冷え切っていた私の指先から、じんわりと心の中まで広がっていくようだった。
「大丈夫です、リリアーナ嬢。私が、そばにいます」
耳元で囁かれたその言葉は、まるで魔法のようだ。
あれほど私を支配していた雷への恐怖が、すうっと潮が引くように、遠のいていく。
代わりに、私の胸を満たしたのは、今まで一度も感じたことのない、甘くて、少しだけ苦しいような、不思議な感情だった。
心臓が、恐怖とは違う理由で、とくん、とくん、と大きく鳴り始める。
闇の中で、私と彼を繋ぐのは、重ねられた手の温もりだけ。それが、なぜだか、とてつもなく特別なことのように思えた。
◇
その時、談話室の隅のソファで、もう一人、闇に怯えていた少女が、静かにその言葉を聞いていた。
エマ・シュミット。
彼女もまた、レオンハルトが近づいてきた時、ほんの少しだけ、期待してしまっていたのだ。
雷を怖がっているチームのメンバーは、一人ではないと…
けれど、彼の優しい声と、温かい手は、自分ではなく、リリアーナへと向けられた。
闇が、二人の姿を隠してくれる。
だから、自分の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちたことにも、きっと、闇が、隠してくれている…
エマは、ただ静かに、自分の淡い恋が、嵐の夜の闇に溶けて消えていくのを、感じていた。
◇
どれくらいの時間が、経っただろう。
不意に、談話室の入り口が、ぽっと柔らかな光で照らし出された。
「待たせたな。予備の魔導灯があったぞ」
アレクシス様の声だ。
彼とカイ先輩が、戻ってきたのだ。
その光に照らし出された光景を、アレクシス様がどう見たのか、私にはわからなかった。
彼が最初に見たのは、きっと、護衛騎士に手を握られ、その顔をじっと見つめている、自分の婚約者の姿だったのだろう。
魔導灯の光に、レオンハルト様は、はっとしたように私の手を離した。そして、何事もなかったかのように、すっと身を引いて、再び王子の背後の定位置へと戻っていく。
まるで、夢から覚めたように、私の手の中に残ったのは、彼の確かな温もりの残滓だけ…
薄暗い魔道灯の中から、ジークレント王子が、わざとらしいほど大きな声で言った。
「おお、戻ったか。ご苦労だったな、アレクシス。見ての通り、お前の婚約者は雷が苦手なようだな?」
その言葉は、『お前は、婚約者のそんな一面すら、知らなかったのか?』という挑発のようだ。
アレクシス様は、手に持っていた魔導灯を、ことり、と静かにテーブルの上に置く。
その光に照らし出された彼の横顔は、今まで見たことがないほど、冷たく、固く、凍りついていた。
「……そうですか」
彼は、ただ、それだけを言った。
私の方を見ようともしない。
そして、背を向けると、一言も発さずに、そのまま自分の部屋へと続く廊下へと消えていった。
後に残された談話室は、魔導灯の光で明るさを取り戻していたけれど、私の心は、再び、闇の中に突き落とされたかのようだ。
レオンハルト様の優しさに触れた胸の片隅では、生まれて初めての感情。
けれど、もう片隅では、アレクシス様の見たこともない冷たい態度に、罪悪感と、戸惑いと、そして、ちくりとした痛みが、嵐のように渦巻いている。
(私は、間違ったことをしてしまったのだろうか……?)
◇
部屋に戻ったアレクシスは、自分の行動に臍を噛み、壁に拳を叩きつけた。
(俺は、何をしてるんだ…今まで、何をしてたんだ…)
アレクシスは、初めての完璧な婚約者の仮面をかぶれない自分に、戸惑いを隠せないでいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩
次回、イザベラ嬢が!!!
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