7話 身体の記憶
ギルドを出たアリベルとアレフは、依頼書に記された場所へ向かっていた。
今回の依頼は、村の近くに出没する魔物の討伐。危険度は低く、初心者でも受けられる手頃な依頼だという。
「いやあ、初依頼だな!」
アレフは楽しそうに歩きながら、依頼書を片手でパタパタと揺らした。
「今回の魔物はそんなに強くないらしいぜ。ただ、かなり素早いんだってさ。すぐに逃げちまうから、討伐に手間取ることもあるらしい」
「素早い魔物かあ……」
アリベルは歩みを緩め、考え込んだ。
踏みしめる街道の土の感触や、漂う草の匂いが鼻をくすぐる。
森で暮らしていた頃、すばしっこい生き物なら何度も見てきた。しかし、明確な意思を持って襲ってくる「魔物」を相手に戦った経験は、彼にはほとんどない。
「まあ、やってみないと分からないよね」
「その意気だ! 危なくなったら無理せず下がろうぜ!」
二人は村を離れ、さらに草木が生い茂る獣道へと進んでいった。
やがて、依頼書に書かれていた目的地へたどり着く。
周囲には大人の腰ほどの高さまで伸びた青々とした草が広がり、その向こうには鬱蒼とした木々が立ち並んでいた。
ざあ、と風が吹くたび、無数の草の葉が擦れ合う波のような音が周囲を満たす。
アレフは手で日差しを遮りながら、周囲を見回した。
「この辺にいるはずなんだけどな……」
アリベルも目を凝らす。
しかし、陽炎が揺れる草むらの中に、それらしい姿は見当たらない。
「隠れてるのかな?」
「かもな。こういう魔物は、こっちが見つける前に逃げることもあるらしいし……」
そのときだった。
サッ。
風の音とは違う、不自然な音。草むらの一角が、わずかに揺れた。
アリベルの身体が、本能的にそちらへ向く。
「……何かいる」
「おっ、どこだ?」
アレフが武器に手をかけ、探そうとした――その瞬間。
バサァッ! と激しく草を割り、小さな影が飛び出した。
「うわっ!?」
魔物だった。
小柄な体に、ナイフのように鋭い爪。地面を蹴るたびに、その肉体はまるで弾丸のように跳ねる。
魔物は二人の目の前を恐るべき速度で横切ると、すぐさま直角に方向を変えた。
右へ、左へ、そして木の陰へ。
縦横無尽に疾走する影が緑の波を割り、ちぎれた葉が宙に舞う。その動きは、あまりにも素早かった。
「はっや!? おい、アリベル! 見失うなよ!」
アレフの焦った声が響く。
アリベルは魔物をじっと目で追った。
速い。確かに、常識外れの速度だ。
けれど――恐怖に呑まれるより先に、なぜか魔物の動きが克明に目に入ってきた。
地面を蹴る硬い音。
体の向きが変わる直前の、わずかな重心の傾き。
次に飛び出してくる、草むらの隙間。
ひとつひとつの動きが、なぜか手に取るように分かる。
いや、分かるというより――。
(目が……勝手に追ってる?)
魔物が再び深い草むらに飛び込み、完全に姿を消した。
「どこ行った!?」
アレフが背中合わせになりながら周囲を警戒する。アリベルも辺りを探した。
その直後。
カサリ、とアリベルの真後ろで草を踏みしめる音がした。
振り向く。
そこには、すでに跳躍し、すぐ目の前まで迫っていた魔物の姿があった。
陽光を反射する鋭い爪が、アリベルの視界を覆う。
考える時間など、一瞬たりともなかった。
避けなければ。
そう思ったのかどうかすら、アリベル自身には分からない。
ただ――肉体が、思考を置き去りにして動いた。
湿った土を右足がしっかりと捉え、上半身がわずかに傾く。
次の瞬間、獣の生臭い風とともに、魔物の突進がアリベルの頬のすぐ横を通り抜けていった。
ほんの、わずかな動き。
大きく飛び退く必要も、慌てて腕を振り回す必要もない。最少にして、最適の回避。
魔物の爪は、何もない空間を虚しく切り裂くだけに終わった。
「えっ……?」
アリベル自身が驚くよりも早く、彼の体はすでに次の動作へと遷移していた。
魔物は攻撃を外した勢いのまま、アリベルのすぐ脇を通り抜けようとしている。その進路へ、アリベルの足が無意識に踏み込まれた。
魔物の体勢がガクリと崩れる。
逃げようとする必死の足掻き。しかし、それを完全に先読みした無駄のない重心移動で、アリベルの腕がしなやかに伸びた。
魔物が空中で身をひねる。
普通の人間なら、そこで手をすり抜けられて逃げられていただろう。
しかし、アリベルの動きは魔物の敏捷さに一切遅れなかった。魔物が次に動こうとする未来の座標へ、すでに手のひらが位置していたのだ。
そして――
ドンッ!!
肉と土が衝突する、鈍い音が響き渡った。
魔物の体が地面へと容赦なく叩きつけられる。
一瞬、周囲の草むらが大きく揺れ、やがて、しんと静まり返った。
魔物は、もうピクリとも動かなかった。
「…………」
アリベルは、その場にぽつんと立ち尽くしていた。
自分の両手を見る。
次に、足元の泥を見る。
そして、完全に気絶して倒れた魔物へと視線を落とした。
「……あれ?」
何が起きたのか、頭が追いつかなかった。
魔物が目の前に迫ってきた。
攻撃を避けた。
その後、体を動かした。
明確に覚えているのは、それだけだ。
どう避けたのか。
どうやって魔物の不可視に近い動きを捉えたのか。
どうして逃げようとする魔物を正確に捕まえられたのか。
何ひとつ、言葉では説明できなかった。
ただ、気がついたときには、魔物は地面に転がっていたのだ。
「……倒せた、のかな?」
アリベルがぽつりと呟く。
「お、おい……」
背後から、擦り切れたようなアレフの声がした。
振り返ると、アレフは顎が外れそうなほど目を丸くして立ち尽くしていた。
「今の……お前がやったのか?」
「え? う、うん……たぶん」
「たぶんって何だよ! 目の前でガッツリ見てたのに、速すぎて何が起きたか全然分からなかったぞ!?」
アレフは倒れた魔物に恐る恐る近づき、剣の先で慎重に様子を確かめた。それから、信じられないものを見る目で、もう一度アリベルを振り返る。
「こいつ、ギルドの奴らも手こずるって言ってた素早さなんだぞ? なのに、お前……」
「僕も、よく分からないんだ」
アリベルは困ったように眉を八の字に下げた。
「魔物が飛びかかってきたから、避けようと思って……そしたら、体が勝手に動いて」
「体が勝手に?」
「うん……」
アリベルは自分の手を開いたり、握ったりしてみた。
いつもと変わらない、少し細めの自分の手だ。特別に力が強いわけでもない。
今まで、こんな神業のような動きができるなんて考えたこともなかった。
なのに、さっきの瞬間だけは、まるで何百回も同じ戦闘を繰り返してきたかのように、肉体が迷わず駆動した。
まるで、最初からその戦い方を知っていたかのように。
「……変なの」
アリベルは首をかしげた。
自分の知らない自分が、身体の奥底に潜んでいるような、奇妙な感覚。
けれど、今の彼にその感覚の正体を確かめる方法はなかった。
「ま、まあ! とにかく依頼達成だな!」
アレフがブンブンと頭を振り、気を取り直すように声を張った。
「これで報酬がもらえるぞ! 初依頼、大成功だ!」
「そっか……うん!」
アリベルの顔に、いつもの少年らしい笑顔が戻る。
自分の身に起きた謎は、まだ分からない。けれど、大切な相棒との最初の依頼は無事に達成できた。
今は、それでいい。
二人は討伐の証拠を持ち帰るため、草むらの中で魔物の処理に取りかかった。




