39話 秘策
天空の国、オリオン。
天空の王ウラノスのもとに、一通の極秘の手紙が届けられた。
白く上質な封筒のどこを見ても、差出人の名は一切ない。
以前、彼のもとに届けられたものと全く同じ、見覚えのない不気味な封筒だった。ウラノスは豪華絢爛な玉座に深く腰掛けたまま、その手紙を品定めするように手に取る。無造作に封を切り、中に入っていた一枚の羊皮紙を滑らせるように広げた。
そこには、世界のどこかに存在する、とある深い森の結界についての詳細な機密が事細かに記されていた。
結界が維持している超常的な強度。複雑に巡る魔力の詳細な流れ。構造上の決定的な特徴。そして――その強固な結界を正面から完全破壊するために必要とされる、異次元の力について。
ウラノスは冷徹に読み進めるにつれ、不快そうにその端正な眉をひそめた。
「……なるほどな。実につまらん」
紙に書かれた結界の強度は、常軌を逸していた。そこらの並の魔術師の軍勢はもちろん、歴史に名を残すような相当な魔力を持つ者であっても、正面から力任せに破壊することは絶対に不可能な構造らしい。それどころか、絶対強者であるウラノス自身の強大な魔力をもってしても、容易には壊せないほどの極大の呪術であるようだ。
「ふん。世界に、私に壊せないものなどという不条理が存在するとはな」
忌々しげに吐き捨て、手紙を大理石の机に放り出す。
不機嫌そのものといった様子で、規則的な音を立てて爪先で机を叩いていたウラノスだったが、やがて、その傲慢な口元がゆっくりと醜悪に歪んでいった。
「……いや、待てよ」
彼は唐突に立ち上がり、大きく開かれた窓の外へ冷たい目を向けた。
眼下には、天空の国オリオンを外界から拒絶するように囲む、巨大で険しい渓谷がどこまでも広がっている。太陽の光すら届かない、深く、底暗い谷底。そこは天翼族の誰もが恐怖し、決して近づこうとはしない呪われた禁忌の場所だった。
「私自身が手を汚さずとも、使えばいいではないか」
ウラノスは、抑えきれないといった様子で愉快そうに低く笑った。
「あの大穴の底で這い回っている、あの惨めな怪物の力をな」
彼の邪悪な脳裏に鮮烈に浮かんだのは、かつてまだ若かりし頃、自分に盲目的な恋をしていた一人の愚かな人間の女の姿だった。
彼女には世界から忌み嫌われる恐ろしい禁断の力があった。触れた瑞々しい人間を、悍ましい異形の魔物へと強制的に変えてしまう、邪悪極まりない能力だ。
その恐るべき呪いが衆目に明らかになったとき、女は世界中の人間たちから弾劾され、無残に処刑されることになった。
だが、その処刑の寸前、ウラノスは極秘裏に手を回して彼女の命を救い出したのだ。
彼が女を救った理由は、胸が焼けるほどに単純だった。
ただ単に、いつか自分の役に立ちそうな、便利な道具に見えたからだ。
案の定、女は自分を地獄から救い出してくれたウラノスに、狂ったように盲目的な恋をした。彼の冷酷な言葉一つに狂喜乱舞し、彼のためになるなら国を滅ぼすことだって何でもしようとした。
だが、ウラノスにとって彼女という存在は、最後までただ都合の良い奇跡を持った、使い捨ての道具にすぎなかった。
思い返せば、あの頃の玩具としての遊びは、なかなか退屈しのぎに楽しめた。
目障りな黒翼の者たちを女の力で次々と醜い魔物へと変えさせ、元同胞だった者たち同士で互いに血反吐を吐き散らしながら殺し合わせる。彼らが涙を流し、必死に絶望して逃げ惑う姿を高い城壁の上から眺め、ウラノスは何度も腹を抱えて笑った。
愚かな女は、その残虐な光景を隣でずっと嬉しそうに見ていた。自分の呪われた力が、愛する彼に喜ばれているのだと、頭の先まで幸福に信じ込んでいたのだろう。
しかし、どれだけ極上の娯楽であっても、人間である以上いずれ飽きは来る。
ある日、全てに退屈したウラノスは、背後から女をあの深い渓谷の底へと突き落とした。
それだけで、その玩具の物語は完全に終わるはずだった。
だが、その執念深い女は、地獄の底から生きて帰ってきたのだ。
かつての美しい面影など微塵も残っていない、見るも悍ましいドロドロとした怨念の怪物となって。
「くく……くははは!」
ロウソクの火が揺れる静寂の中、ウラノスの喉から下劣な笑いが漏れる。
「あいつだ。あの狂ったあいつの力を使えばいい。人間を魔物に変えるあの呪い。結界の魔力そのものを汚染して腐らせて壊すために、これほど都合のいい毒はない」
それに、ウラノスの傲慢な胸の内には、絶対的な確信があった。
「あいつは、どれだけ姿が変わろうとも、今でもまだ俺のことが狂おしいほど好きなはずだ」
奈落の底に落とされたその怪物の女が、何年も経った今も自分を激しく慕っている。彼はそう考えて、微塵も疑わなかった。
「もし違うというなら、復讐する機会なんていくらでもあったはずだ。とっくにこの俺を殺しに空へ昇ってきているだろう?」
自分を殺す機会など、天の国を統べる王であっても、これまでの長い歴史の中でいくらでもあったはずだ。それでも女は生きてウラノスの存在を放置し、谷の底でただ鳴いている。
ならば、導き出される答えは、都合の良い一つしかなかった。
ウラノスは机の上の手紙を乱暴に払いのけ、再び大きな窓の外の暗黒を見下ろした。
「ふははは、はははははは!」
傲岸不遜な、高らかな笑い声が、誰の救いもない広大な王の間へ冷酷に響き渡る。
どれほど強固な世界の結界であっても、それを一瞬で粉砕する方法は見つかった。
あとは、あの底にいる哀れな女の未練を、もう一度だけ徹底的に利用してやるだけだ。
天空の絶対王は、自らの描いた邪悪な計画が完璧に成功することを、これっぽっちも疑っていなかった。




