40話 怪物
天空の国オリオンを外界から隔絶するように囲む、巨大な渓谷。
その奈落の底には、太陽のまばゆい光さえ満足に届かない、濃密な深い闇がどこまでも広がっていた。
切り立った剥き出しの岩壁は、天を覆い隠すように不気味にそびえ立ち、ところどころから不自然に突き出した鋭い岩が、まるで狂暴な獣の牙のように谷底を見下ろしている。狭い谷底には風が吹き抜けることもなく、湿った不快な空気が重苦しく淀んでいた。壁面には黒ずんだ血の混じったような染みが広がり、頭上の岩の隙間からは、粘り気のある正体の分からない暗緑色の液体がぽたぽたと滴り落ちている。
遠く暗闇から聞こえるのは、その不気味な水が滴る音と、時折地底から響く悍ましい何かの獣のような鳴き声だけだった。
ここは、誇り高きオリオンの天翼族たちが恐怖し、決して近づこうとはしない呪われた禁忌の場所。
天空の国のあの華やかな美しすぎる景色とは、あまりにもかけ離れた、死と絶望の底の世界だった。
そのとき。
誰もいないはずの暗闇の空間が、前触れもなくわずかにぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間、光の収束と共に、一人の男が何もない谷底に音もなく姿を現した。
天空の王、ウラノス。
彼の生まれ持つ固有能力は、空間を支配する『瞬間移動』。どれほどの距離が離れていようが、どんな強固な障害物があろうが関係なく、自らの望む座標へ一瞬で移動できる神のごとき絶対の力。
その超常の力を使い、彼は遥か遥か上空の王宮から、一気にこの奈落の谷底まで誰にも知られず降りてきたのだった。
「ふん。相変わらず反吐が出るほど陰気な場所だ」
ウラノスは周囲の不気味な気配を警戒で見回すこともなく、ただ退屈そうに歩き始めた。
彼の足元には、数え切れないほどの無数の死骸がゴミのように転がっていた。
それは全て、黒い翼を持つ天翼族の者たち。
かつてウラノスに絶対の忠誠を誓い、あるいは彼の非情な命令によって汚れ仕事のために使い潰された哀れな人形たちだった。その身体はすでに肉が腐り果て、原形を留めていないものも多く、無念の象徴である黒い羽根が湿ったドロドロの地面に醜く散らばっている。岩の隙間には、かつて人間だったものの変わり果てた残骸が、何層にも折り重なって埋もれていた。
さらに歩いて渓谷の奥へ進むと、今度は人間ではなく魔物の不気味な死骸が目立つようになった。
大きな角が不自然に折れた獣。骨格が歪み、異様に長い無数の脚を持つもの。身体の一部が水ぶくれのように醜く膨れ上がったもの。どれも最初からまともな生命の姿をしていない。
その怪物の残骸の一部は、まるで激しく争った結果であるかのように、黒翼の天翼族たちの無惨な骨とがっちりと折り重なっていた。
鼻を突く、凄まじい腐敗した臭気が空間に立ち込めている。
湿った濃密な空気に混じるそれは、常人であれば一度息をするだけでも嘔吐して失神するほど不快な毒気だった。
しかし、絶対強者であるウラノスは、眉一つ動かさず優雅に歩を進める。
「邪魔だな。汚らわしい」
彼は足元が汚れるのを嫌い、小刻みに瞬間移動を繰り返し、折り重なる死骸を容易く避けるようにして先へ進んでいく。
彼にとって、足元に広がるかつての部下たちの地獄のような惨状など、最初から存在しない石ころか何かのようだった。
やがて、入り組んだ渓谷のさらに最奥。
黒ずんだ岩壁が大きく円状に開けた、広大な空洞のような場所にたどり着いた。
そこには、部屋全体を埋め尽くすほどの巨大な赤黒い肉塊が鎮座していた。
最初は、それが一体どのような生き物なのかすら分からなかった。
地面に広がる、じっとりと濡れた赤黒い巨大な塊。それは生きながらにして周囲の岩肌にびっしりと張りつき、いくつもの不気味な隆起を繰り返している。表面は独自の意思を持つかのようにドクドクと不規則に脈打ち、時折、内側から激しく何かで押し上げられるように奇怪に形を変えていた。
まるで、巨大な未確認の生き物の臓器だけを、無理やりこの冷たい地面に引きずり出して押しつけたかのような悍ましさだった。
そして、その蠢く巨大な肉塊のあちこちから、何本もの『人間の腕』が生えていた。
細くしなやかな人間の女性の腕に似ているものもあれば、関節の数が人間の枠を無視して狂っているものもある。長さも太さもばらばらで、どれも力なく地面に垂れ下がっているように見えた。だが、その白い指先は時折ぴくりと痙攣するように動き、何かを必死に探すように冷たい石の地面を這いずり回っている。
そして、その肉塊の中心付近に、辛うじて人の顔があった。
かつては、美しく瑞々しい人間の女の顔だったのだろう。
しかし、今ではその人間だった頃の面影もほとんど残っていない。皮膚は限界まで不自然に引き伸ばされ、顔の輪郭の半分はドロドロとした肉塊に深く埋もれている。目の位置も左右で不自然にずれており、片方の瞼は完全に閉じたまま、もう片方の大きな目だけが、充血しながらぎょろぎょろと激しく動いていた。
白紫色の口元は大きく引き裂かれるように歪み、笑っているのか、それとも極限の苦痛に喘いでいるのかも判断がつかない。
さらに、その頭部にあたる部分からは、髪の代わりに無数の赤黒い触手が伸びていた。
長い髪のように頭から垂れ下がるそれらは、一本一本が独立した生き物のように蠢いている。先端が岩の表面をなぞり、空気を探るように鞭のように揺れ、ときには互いに複雑に絡み合ってはほどけていく。
その無数の触手の隙間からは、まるで昆虫のように、いくつもの小さな目のような結晶がこちらを覗き見ていた。
それは、かつてウラノス自身が使い飽きてこの渓谷へ突き落とした、かつて彼を熱烈に愛していたあの『女』だった。
いや、今のそのおぞましい怪物の姿を見て、当時の彼女だと判断できる者が、果たして世界のどこにどれほどいるだろうか。
「……随分と久しぶりだな、お前」
ウラノスは、目の前に立ちはだかる山のような怪物を見上げた。
そこには、常人が抱くような恐怖も、嫌悪も、一切なかった。
彼にあるのは、かつて倉庫の奥に仕舞い込んでいた、昔使っていた便利な道具を久しぶりに見つけたときのような、どこまでも気軽で傲慢な態度だけだった。
「おい、起きろ」
ウラノスの低く冷たい声に反応し、巨大な肉塊の表面が、ずるりとゆっくり波打った。
何本もの白い人間の腕が一斉に不自然に動き、髪代わりの触手が一斉に向きを変えてウラノスの方を向く。
「俺だ。まさか忘れたわけじゃないだろう?」
怪物の口から、明確な言葉の返事はない。
ただ、顔の中央にあるただ一つの大きな血走った目が、ゆっくりと焦点を合わせ、ウラノスの端正な顔をじっと捉えた。
「ふん。姿が変わっても、相変わらず無口な奴だ」
ウラノスは全く臆することなく、怪物の喉元まで一歩近づいた。
「おい、お前のその力を使わせろ」
それは願い事ではなく、絶対強者による容赦のない命令の口調だった。
「地上の深い森にある、忌々しい世界の結界を正面から壊したい。全てを腐らせるお前のあの悍ましい力が必要なんだ」
その結界という言葉を聞いた瞬間、怪物の肉塊が、ドクン、と大きく激しく脈打った。
触手が床の石畳をガリガリと激しく掻き毟り、地面に垂れていた何本もの腕が、一斉に天へと持ち上がる。
それと同時に周囲の空気が、精神を削るような凄まじいプレッシャーでわずかに震えた。
ウラノスはそれを見ても、不敵な笑みをこれっぽっちも崩さない。
「なあ、聞こえているんだろう? 昔のように、大人しくこの俺の頼みを聞け」
彼は、怪物の狂った大きな目を、上から見下ろすようにまっすぐ見つめた。
「お前は、どれだけ無残な姿になろうとも……まだ俺のことが、狂おしいほど好きなんだろう?」
ウラノスの独善的な問いかけに、怪物はやはり何も答えなかった。
ただ、赤黒い肉塊の表面が、ゆっくりと引き攣るように波打った。
ずるり。
地面に力なく垂れていた人間の腕の一本が、骨の折れる不自然な角度でゆっくりと持ち上がる。白い指先が何かを熱烈に探すように空を切って這い、やがてまっすぐにウラノスの顔の方へ向けて伸びてきた。
それに引きずられるように、頭部から垂れ下がった無数の触手がざわざわと一斉に動き始める。
先ほどまで好き勝手な方向へ不気味に蠢いていたそれらが、まるで遠い過去の記憶に従うかのように、ゆっくりとウラノスの周囲へと収束していった。
「……お?」
ウラノスは、自分の目の前まで伸びてきた、死人のように冷たいその腕を興味深そうに見下ろした。
細い指先が、彼の滑らかな頬の皮膚にそっと触れる。
氷のように冷たかった。
その指は、かつての愛を確かめるように、愛おしげに彼の頬を撫でるように動いた。だが、次の瞬間、その指先の動きがぴたりと何かに気付いたように止まる。
肉塊に埋もれた怪物の顔が、わずかに不気味に傾いた。
ぎょろり。
唯一開いた大きな片目が、至近距離でウラノスの瞳をじっと見つめている。
その血走った瞳の奥には、狂気とは異なる、冷徹に何かを確かめて見定めているような、深い底暗い色があった。
「ははっ。なんだ、何百年経ってもまだ俺に甘えたいのか? 可愛い奴だ」
ウラノスは頬の冷たさを気にする様子もなく、己の勝利を確信して傲慢に笑った。
すると突然、怪物の巨大な肉塊が、これまでとは比較にならないほど激しく脈打った。
どくん。
どくん。
その強烈な鼓動のたびに、地面一帯に広がった赤黒い肉が大きく波打ち、張り巡らされた何本もの腕が一斉に痙攣するように動き出す。無数の触手はウラノスの周囲の空間を完全に囲むように素早く広がり、彼のあらゆる退路を完全に塞ぐかのように、背後の岩肌へと網のように伸びていった。
「おいおい、少し落ち着け。お前の力が手に入るなら、別にここから逃げたりはしないさ」
ウラノスは包囲されても、己の『瞬間移動』の絶対的な自信から、笑いながら余裕の声をかけた。
しかし、怪物はその動きを一切止めない。
伸びてきた無数の腕が、彼の頑丈な両肩に不自然な力強さで触れる。
別の複数の腕が彼の背後から密着するように近づき、長い触手が頭上の夜空を完全に覆い尽くしていく。
それは、彼への愛おしさから抱きしめているというよりは、まるで――その肉体に宿る魂の重さを、冷酷に確かめているようだった。
やがて、怪物の引き裂かれた口元が、パキパキと音を立ててゆっくりと動いた。
「……ウ……ラ……ノ……ス……」
それは、何百年も使われずに錆びついた鉄を擦り合わせるかのような、ひどく掠れた、呪わしい声だった。
それが本当に彼を呼ぶ愛の言葉だったのか、それとも肉塊の最奥に溜まった怨念のガスが漏れた音にすぎなかったのかは、誰にも分からない。
だが、ウラノスは自らの支配が完璧であることに満足そうに笑った。
「そうだ、お前の愛する俺だよ。さあ、その力を俺に捧げろ」
怪物の唯一開いた目が、蜘蛛のように細くなった。
「久しぶりだな、俺の可愛い道具」
その侮蔑の言葉に応えるように、彼を包囲した無数の触手が一斉に、狂ったように蠢いた。
暗い渓谷の底に、肉と金属が擦れ合うような湿った重い音が、いつまでもいつまでも響き続ける。
天空の愚かな絶対王は、この時まだ、微塵も気づいていなかった。
自分を全方位からじっと見つめ、今まさに絡みつこうとしているその怪物の無数の目が――決して、彼の再会を喜んでいるようには見えなかったことに。




