37話 日記2
アリベルとアレフは、言葉を失ったまま古い日記の続きを熱心に読み進めていた。
最初の数ページに書かれていたのは、ガエルと頭の中の声の主が脳内で交わした、本当に何気ない他愛のない会話の数々だった。今日は何を話したのか、こちらの冗談に相手がどんな面白い反応を返したのか。まるで遠く離れた親しい友人との微笑ましい出来事を細かく記録するように、日々の奇妙な交流が穏やかに綴られている。
しかし、ゆっくりと丁寧にページをめくるにつれて、その日記の内容には少しずつ、しかし決定的な変化と歪みが現れ始め、再び紙面が不穏な空気を帯びていった。
『最近、あいつの脳内に響く声が変わってきた気がする。』
『以前よりも、明らかに私の声のトーンに近づいている。それどころか、独特の話し方の癖やテンポまで、私にそっくりに似てきたような気がするのだ。』
アリベルは、その万年筆のインクが僅かに滲んだ不気味な文章をじっと見つめた。
「声が……ガエル自身の声に似てきた?」
「うん。最初は全く違う、別の生物か何かの声だったのかな?」
アレフが神妙な面持ちで次のページをめくる。指先が、かすかに紙の縁を震わせた。
『今日、あいつが初めて私の前にその姿を見せてくれた。』
『以前は暗闇の中から響く声だけだったのに、今では視覚的な姿までハッキリと見えるようになった。』
『だが、本当に驚いた。驚愕したと言ってもいい。そこに立っていたあいつの姿は、鏡を見るかのように私によく似ているのだ。』
「……自分に、そっくりな姿?」
アリベルは鳥肌が立つのを感じながら、思わず掠れた声で聞き返した。
「ああ、間違いなくそう書いてあるね。話し方も、声も、姿も……」
アレフの声からも、先ほどまでの謎を面白がるような興奮は完全に消え去り、代わりに得体の知れない怪異に直面したときのような、冷たい緊張感が感じられた。
さらにページをめくる。そこには、ガエルの内面的な困惑がより色濃く刻まれていた。
『話し方も、声も、輪郭も。一歩ずつ、あいつは確実に私に似てきている。』
『あいつとは毎回、深く静かな夢の中で会う。現実のこの世界では、一度もその姿を見たことがない。』
『一体、どうしてあいつは私にここまで似てきているのだろう。私を真似て、一体何になろうとしているのだろうか。』
それが、日記に残された最後の記述だった。
古びた日記帳は、その強烈な疑問符を最後に、唐突に白紙のページへと変わっていた。
アレフは最後の文字が書かれたページをしばらく無言で見つめていたが、やがて何かを恐れるように、ゆっくりとパタンと静かに本を閉じた。
「……これで、日記は完全に終わりみたいだね」
「うん……」
二人が過ごす宿の部屋に、冷や水を浴びせられたかのような重苦しい静けさが戻る。
最初は脳内に響くただの声だけだった存在が、時間の経過とともに確かな姿を持つようになった。そして、その獲得した姿は、宿主であるガエル自身にどこまでも酷似していたという。しかも、直接対面できるのは現実ではなく、全て夢の中、つまり精神の深層意識の中だけだった。
アリベルはその事実に、ゾクッとするような戦慄を覚えていた。
「なんだか……おとぎ話の呪いよりも、ずっと不思議で不気味な話だね」
アレフが、珍しく腕を抱え込んで小さく呟く。
「うん。でも、どうしてこんなに重要なところで突然、日記が終わっているんだろう」
「そこが一番気になるよね。この後に何が起きたのか、まだ続きがあってもよさそうなのに、まるで急に書くのをやめさせられたみたいだ」
アリベルは机の上にぽつんと置かれた、閉じられた古い日記を見つめた。
歴史に名を残す偉大な魔術師ガエルは、自分の身体の中にいたあの正体不明の存在と友達になった。それから、声も姿も、まるで自分を侵食するように似てきたと、明確な恐怖すら抱かずに書き残している。
そして、その先に一体何があったのか。なぜ彼が突然失踪し、死に至ったのかは、この本からは何も分からない。
ただ、アリベルの胸の奥には、一つだけ激しく激突する強烈な違和感があった。
数日前、あの魔鈴の音に導かれた自分の深層意識で出会った、あの銀髪の人物。
あの人物もまた、自分を『ガエル』とは呼ばず、ただ『星導の魔術師』と名乗っていた。
もしも、あの空間にいた人物が、ガエル本人ではなく――ガエルに声も姿も似せていった『頭の中の何か』だったとしたら。
アリベルは、日記の古びた表紙にそっと恐怖の混じった視線を落とした。
「……この先の真実は、今の僕たちにはまだ分からないんだね」
「うん。でも諦めないよ! ギルドの本部や別の街の古い資料館にも、ガエルに関する裏の記録がないか、俺が足を使って徹底的に探してみるからさ!」
アレフは相棒を安心させるようにいつもの強気な笑みを浮かべると、日記を大切そうに腕の中に抱え直した。
けれど、アリベルの頭の芯には、日記の最後の一文が、冷たい残響のようにいつまでもいつまでも離れずに残り続けていた。
『どうして私に似てきているのだろう。』
歴史の闇に消えた偉大な魔術師ガエルは、失踪する前に、その悍ましい疑問の答えを見つけることができたのだろうか。
それとも、答えを見つけたからこそ、彼は――。
窓の外から吹き込んできた夜風が、アリベルの小さな身体を微かに揺らした。




