36話 日記
それから数日後。
宿の部屋でのんびりと過ごしていたアリベルのもとへ、アレフが扉を大きな音を立てて開け、勢いよく駆け寄ってきた。
「アリベル!」
「うわっ! どうしたの、急に?」
あまりに突然の乱入に、アリベルはベッドの上で手にしていた読書中の本を慌てて閉じた。アレフは肩を激しく上下させて息を弾ませながら、まるで世界一の宝物でも扱うかのように、両手で大事そうに抱えていたものを目の前へと差し出す。
それは、見るからに年季の入った一冊の古い日記帳だった。革製の表紙はすっかり色褪せ、四方の角もボロボロに擦り切れている。数え切れないほどの長い年月を経てこの場所に辿り着いたことが、見ただけでも十分に分かった。
「これ、あの『ガエル・ガルヴァンド』が実際に生前書いていた、本物の日記なんだ!」
「えっ……伝説の、ガエルの?」
「そう! ギルドの機密書庫の奥を色々とコネで探してみたんだけどさ。まさか歴史上の本人の直筆日記が、こんな綺麗な形で残っているなんて僕も夢にも思わなかったよ!」
アレフは少年のような興奮を隠しきれない様子で、机の上に日記を広げた。
「もしこれが本当に本人の生々しい記録なら、退屈な歴史の本には絶対に載っていないような、彼の真実の素顔が分かるかもしれないんだ!」
「それは本当にすごいね……。でも、そんな貴重なもの、一体どこで見つけてきたの?」
「ギルドが昔、山奥の隠れ家から回収した古い資料を未整理のまま保管している特別区画さ! 詳しい冒険の顛末はあとで話すよ。それよりアリベル、まずは中身を一緒に見てみよう!」
アレフはもどかしそうに、慎重な手つきで日記の最初のページをめくった。
そこに流麗な文字で書かれていたのは、偉大な魔術師のイメージからは拍子抜けするほど遠い、至って普通のありふれた日常の記録だった。
『今日は森で凶暴な魔物と戦った。思ったより手強くて服が破けたが、なんとか勝てた。』
『近くの街で食べた煮込み料理が最高に美味しかった。また絶対に食べに行こうと思う。』
『親しい知り合いにちょっとした悪戯を仕掛けた。予想以上に面白い反応をしてくれたので、また機会があればやってみよう。』
「……なんだか、思っていたよりずいぶんと普通の人だね」
「うん。俺も、もっとこう、偉大な星導の魔術師らしい超高度な研究の魔法理論とかが、びっしり書き連ねてあるのかと思ったんだけどね!」
アレフは少し残念そうに肩をすくめながらも、面白がって次のページを次々とめくっていく。
日記には、各地での激しい戦いのこと、旅先で見た美しい星空の景色、食事の素朴な感想が並んでいた。ときには誰かとの他愛のない会話や、忘れ物をして困ったといったちょっとした間抜けな失敗まで事細かに書かれていた。
歴史書に冷酷な天才として記されていた偉大な魔術師のイメージとは、ずいぶんと印象が違う。そこに生き生きと存在しているのは、世界中への旅を全力で楽しみ、美味しい食事に子供のように喜び、他人の反応を面白がる、一人の血の通った人間だった。
「この人、歴史の絵と違って意外とお茶目で人間味があったんだね」
「そうみたいだね。なんだか親近感が湧いて、俺はますます好きになっちゃいそうだなあ」
アリベルはアレフと一緒に、パラパラと流れるページに目を走らせた。
文章の端々に見え隠れする独特なユーモアや表現の軽さには、あの冷徹そうな肖像画からは決して想像できないものがある。そしてアリベルは気づく。このどこか掴みどころのない軽い雰囲気は、あの深層意識の暗闇で出会った銀髪の人物の言動にも、どこか明確に通じるものがあった。
だが、熱心に読み進めるうちに、あるページを境にして日記の穏やかな雰囲気がガラリと変わり始めた。
『最近、自分の頭の中から、私以外の何者かの声が聞こえる。』
アリベルの視線が、その唐突に現れた異質な一文の上でぴたりと止まった。
「……声?」
「ん? アリベル、どうしたの?」
アリベルのただならぬ硬直に、アレフも隣から不思議そうにページを覗き込んでくる。
『最初はただの魔力の浴びすぎによる気のせいかと思った。だが、どうやら違うらしい。私が頭の中で考えていることに対して、明確な意志を持って細かく反応してくる。なかなか不思議なものだ。』
その先をめくっても、同じような不気味な記述が何日も続いていた。
『私の身体の奥深くに、確かに別の何かがいる気がする。』
『心の奥底に住み着いているそれは、どうやら私の存在を正確に認識しているようだ。』
『今日も頭の中で色々と話しかけてみたが、こちらの様子を伺っているようで返事はなかった。』
アリベルは、無意識のうちに眉を深く寄せた。
それまでの軽快で楽しげだった旅日記の文章とは違い、そこに書かれている内容は明らかに異常で異質だった。自分の身体の中に自分以外の何かがいる。頭の中から知らない声が聞こえてくる。普通の人間であれば、精神に異常をきたして狂うか、強烈な恐怖を覚えてもおかしくない怪奇現象の話だ。
ところが、日記を書いたガエル本人のリアクションは、世間の常識とはずいぶんと違っていた。
さらにページをめくると、次の日の欄に信じられない記述が目に飛び込んできた。
『よし、せっかくの機会だし、頭の中のそいつと友達になってみよう!』
「……え?」
あまりの突拍子もない発想に、アリベルの口から思わず呆然とした声が漏れた。
「どうしたのさ、アリベル」
「いや……アレフ、ここ、これを見て」
アリベルは混乱しながら、日記の該当する箇所を指差した。
アレフもその短い一文を自分の目で読み、先ほどまでの軽口が嘘のように、少しの間、神妙な顔をして黙り込んでしまった。
「……恐怖するんじゃなくて、友達になってみよう、か……」
頭の中から自分を監視する声が聞こえる。身体の奥に未知の何かが潜んでいる。心の内側に、自分ではない別の怪物が存在している。
それほど不気味で絶望的な状況を自ら記しておきながら、ガエルはその深刻さを楽しむかのように、最後には友達になろうと前向きに決めているのだ。その一文だけが、日記全体の影を吹き飛ばすように妙に明るかった。
彼には世界的な天才ゆえに危機感が全くなかったのか、それともその存在を恐れる必要が最初からないと本能で見抜いていたのか。今の若いアリベルには、伝説の魔術師の精神性を到底判断することができなかった。
「この、声の続きはどうなっているの?」
「うん、まだまだ続きがあるよ」
アレフが息を呑みながら次のページをめくる。
そこからの日記には、先ほどまでの張り詰めた観察日記とは違う、新たな関係性のフェーズが克明に記されていた。
『今日は起きてすぐに話しかけてみた。なんと、ついに向こうから返事があった!』
『どうやら、あちらの主もずっと前から私と話をしてみたかったらしい。』
『少しずつだが、お互いの言語や意思をスムーズに話せるようになってきた。私の長い人生の中でも、なかなか退屈しない面白い相手だ。』
「……本当に、頭の中の声と友達になっちゃったんだね」
アリベルは感嘆とも困惑ともつかない溜め息と共に呟いた。
「みたいだね。しかもさ、これを見る限り、かなり深いところまでお互いに仲良くなったみたいだよ」
アレフは興奮で指を震わせながら次のページをめくり、二人の奇妙な記録を読み進めていく。
そこには、孤独な魔術師と謎の声の主が脳内で交わした他愛のない会話や、同じ肉体を共有しながら一緒に過ごした不思議な時間についての記述が、楽しげに延々と続いていた。
ただし、その声の主が一体どんな姿の存在なのか、一体世界のどこからやって来たのか。そういったアリベルたちが最も知りたい核心的な詳しい説明は、どのページを読んでも一切書かれていなかった。ただ一つ分かるのは、ガエルがその異形なる存在を完全に受け入れ、実の家族や相棒のように少しずつ親しく信頼を深めていったということだけだった。
アリベルは、吸い寄せられるようにその日記から目を離せなくなっていた。
ガエル・ガルヴァンド。
空から星を落とし、世界を震撼させた『星導の魔術師』。
その伝説の人物の生前の日記には、公式の歴史書には一行たりとも残されていない、世界の歴史を引っくり返すような驚愕の出来事が記されていた。
「ねえ、アレフ」
「ん?」
「この、ガエルの頭の中から聞こえる声の主について、他には何か具体的な特徴とかは書いてないの?」
「うーん……今のところめくったページは、友達になったことの喜びや、今日話した面白い内容ばかりだね。でも、この日記はまだ半分以上残っているから、もう少し先を読み進めれば、何かが分かるかもしれない」
「そっか……」
アリベルは再び、古い紙の上に躍る黒いインクの文字にじっと目を落とした。
頭の中から聞こえる不思議な声。身体の奥深くに確実に潜んでいる、何か。そして、それと恐怖もなく友達になった伝説のガエル。
ふと、数日前にあのフォラリスの深層意識で出会った、あの超然とした銀髪の人物の美しい姿が、アリベルの脳裏を鮮烈によぎる。
あの空間にいた人物は、一体本当は何者だったのだろう。
そして、遥か大昔にガエルの身体の奥にいたというその謎の存在は、一体何だったのだろうか。
古びた日記のページは、まだ重苦しい謎を孕んだまま先へと続いている。
アリベルはアレフと互いに顔を見合わせ、深く頷くと、さらなる真実に近づくために静かに続きを読み進めることにした。




