35話 星導の魔術師2
フォラリスでのあの激動の騒動から、数日が瞬く間に過ぎていった。
城塞都市ガルガドスには、ようやくいつもの穏やかで喧騒に満ちた日常が戻っていた。アリベルは以前と何一つ変わらず、お気に入りの飲食店でエプロンを締めて元気に働き、ミルケや頑固な店主と他愛もない世間話を交わして笑い合っている。アレフもまた、気が向けば冒険者ギルドへふらりと顔を出しては掲示板の依頼を興味深そうに眺め、飽きれば気ままに街の裏路地を歩き回っていた。フォラリスの王宮で起きたあの国家規模の出来事が、まるで遠い夢か嘘だったかのように、二人の生活は少しずつ、しかし確実に元の形を取り戻しつつあった。
そんなある日の、茜色に染まる夕方。
一日の仕事を終えたアリベルは、アレフと肩を並べて宿へと戻る緩やかな坂道を歩いていた。夕日に赤々と照らされた情緒ある街並みには、今日一日の労働を終えて家路を急ぐ温かい人々の姿が多く見える。どこかの店先からは夕食の準備をする包丁の心地よい音や、美味そうな出汁の匂い、そして家族たちの楽しげな話し声が優しく漏れ聞こえていた。
その何気ない、どこまでも平和な風景の中で、アリベルはふと足取りを緩めた。
脳裏をよぎるのは、あの『魔鈴』の事件だ。
怪しい鈴の音に意識を奪われ、底知れない深層意識の世界へと引き込まれたときの記憶。あの奇妙な精神の空間で出会った、どこかこの世の者ではない雰囲気を纏った銀髪の人物。あの人物は、確かに自分を『星導の魔術師』と静かに名乗っていた。
あれから今日まで慌ただしい日々が立て続けに起こり、アレフに尋ねる機会をすっかり失っていた。だが、あの時出会った人物の存在が、アリベルの心の中から完全に消え去って気にならなくなったわけでは決してない。むしろ、日常が落ち着くにつれて、その疑問は胸の奥で静かに膨らんでいた。
「ねえ、アレフ」
「ん? なに、アリベル?」
「……『星導の魔術師』って、言葉に変に聞き覚えがあったり、何か知ってたりする?」
その唐突な質問に、アレフは歩きながら少しだけ意外そうに丸い目をさらに丸くした。
「星導の魔術師? もちろん知ってるよ! っていうか、魔術をちょっとでも齧ったことのある奴なら、誰でも知ってるレベルのかなり有名なレジェンドだね」
「やっぱり、そんなに有名なんだ……」
「うん。お堅い歴史の教科書にも大々的に載ってるくらいだよ。でも、どうして急にそんな大昔の有名人の名前なんて出したりしたの?」
「あ、いや……ちょっとね。フォラリスで色々あったから、古い伝承とかがなんとなく気になって。その星導の魔術師って、一体どんな人だったのかなって思って」
アリベルは、核心に触れる詳しい事情を咄嗟に伏せた。
まさか自分の深層意識の底で、その歴史上の偉人と直接会話したなどと言っても、すぐには信じてもらえないだろう。それに、あの不可思議な空間で起きたことについては、まだ自分自身の中でも全く整理がついていないのだ。まずは、その名前を持つ人物が、歴史上で一体どのような存在として扱われているのかを純粋に知りたかった。
「それなら、ちょうど昔ギルドの古い蔵書市で手に入れた本が、宿の部屋にあったはず! ちょっと待っててね、確かあの山の中に……」
宿の部屋に着くなり、アレフは目を輝かせて自分の大きな旅用鞄の荷物をガサゴソと漁り始めた。
床にいくつかの古い魔導書や冒険譚の本を取り出してはパラパラと中身を確認し、やがて「あった!」と嬉しそうな声を上げて、目的の分厚い一冊の古書を引っ張り出してきた。
「これだ、これこれ!」
アレフはベッドの上にどさりと腰掛け、手慣れた様子で古い紙の匂いがするページを何枚もめくっていった。
「ほら、ここを見てよ」
示されたページには、一人の美しい人物の肖像画が精緻な線画で描かれていた。
長めの、光を弾くような美しい銀髪に、怜悧で整った顔立ち。その前髪には、独特な意匠で作られた、緑色の宝石をあしらった上品な髪飾りが静かに留められている。
「ガエル・ガルヴァンド。はるか昔に実在し、世界中で『星導の魔術師』と恐れ敬われた伝説の魔術師だよ」
「ガエル・ガルヴァンド……」
アリベルは吸い寄せられるように、その肖像画をじっと見つめた。
やはり、見覚えがあるどころの騒ぎではない姿だった。あの時、魔鈴の精神世界で出会った謎の人物と、髪の長さも、軽薄そうなのにどこか優しい顔立ちも、驚くほどよく似ている。けれど、あの時の記憶が少し朧気なせいか、完全に同一人物だと言い切るには、ほんのわずかな違和感が胸に引っかかった。
ふと、その人物の髪飾りに強く目が留まる。肖像画に精緻に描かれたその宝石は、深く吸い込まれそうな翡翠色をしていた。しかし、アリベルの記憶の底にある、あの空間で見た髪飾りの宝石は、もう少し違った怪しい色合いをしていたようにも思える。
「このガエルっていう人は、昔どんなことをした人なの?」
「それがさ、もう調べれば調べるほど規格外のチートなんだよ!」
アレフは待ってましたと言わんばかりに、身を乗り出して得意げに説明を始めた。
「このガエルは数百年前、世界中の各地を気ままに巡って独自の魔法を研究したり、行く先々で困っている人々や国を救ったりしていたらしいんだ。魔術師としての戦闘腕前が最強なのはもちろん、古代の失われた知識にも相当詳しかったみたいでさ。歴史に残る色んな大国で、とんでもない国家功績を残しているんだよ」
「へえ、すごい人なんだね……」
「うん、でも特に歴史上で有名で、彼の二つ名の由来になったのは、昔起きた大国同士の大きな戦争での活躍かな」
アレフは楽しそうにページをさらに数枚めくり、古い版画のようなタッチで描かれた大迫力の挿絵を指差した。
そこには、遥か高い夜空から、燃え盛る巨大な岩の塊がいくつも降り注ぎ、地上を埋め尽くしていた敵の大軍勢を容赦なく覆い尽くす、終末のような凄惨な光景が描かれていた。
「これさ、ただの比喩じゃなくて、本物の『隕石』なんだって!」
「隕石……って、空を流れる、あの星のこと? それを落としたの?」
「そう! 魔法の力で宇宙から本物の隕石を敵軍の真上に正確に降らせて、たった一人で一瞬にして大軍を壊滅させて大打撃を与えたらしいよ。当時の魔術の常識では、そんな天地を覆すような魔法、誰も見たことも聞いたこともなかったんだって。空から直接星を導いて落とすなんて、普通の人間は絶対に考えもしないよね」
「それで、星を導く者……『星導の魔術師』……」
「そういうこと! 名前の由来が格好良すぎるよね!」
アレフは自分のことのように鼻を高くして、誇らしげに頷いた。
「それ以外にも、普通の並の魔術師には絶対に扱えないような、世界の法則を書き換える独自の固有魔法をいくつも開発して使っていたらしいよ。だから、それから何百年も経った今でも、歴史上最も偉大な魔術師の一人として、こうして教科書に名前が残り続けてるんだ」
アリベルは、もう一度開かれた肖像画に静かに目を戻した。
確かに、あの深層意識で出会った人物からは、言葉では説明できない、世界を俯瞰しているかのような普通ではない圧倒的な雰囲気を感じた。意識の中での不条理な言動も、どこかすべてを見透かしたような余裕があり、こちらの困惑や素性を最初からすべて理解しているようだった。
「でも、そんなに信じられないくらいすごい人なら、その後もずっと世界で活躍し続けたりはしなかったの?」
「それがさ……」
アレフは先ほどまでのテンションとは打って変わり、少し困ったように眉をひそめて首を傾げた。
「ある時期を境に、本当に何の前触れもなく、急に歴史の表舞台から完全に姿を消しちゃったんだって」
「突然、姿を消したの?」
「うん。それまで毎日のように各地で活発に活動記録があったのに、ある日を境に突然、世界のどこにも現れなくなったらしいよ。ギルドからの国を挙げた超高難度の依頼を受けることもなくなって、当時親交の深かった一流の知り合いの魔術師たちでさえ、誰一人として連絡が取れなくなったんだとか」
「……どうして、急にいなくなっちゃったんだろう」
「それが、当時の資料を見ても理由は全く分かってないみたい。何か他国との大きなトラブルがあったのか、あるいは隠居したのか、色んな説があるけど確かな記録は何も残っていないんだって」
アレフはさらに慎重に古いページをめくった。そこには、ガエルのその後の消息について、当時調査した騎士団が残した公式の公文書の写しのような記録がひっそりと載っていた。
「それでさ、あまりにも連絡がつかないから、失踪からしばらく経ってから、一人の親しかった騎士が安否を確認するために、ガエルがひっそりと暮らしていた山奥の隠れ家を訪ねたらしいんだ」
「隠れ家に、直接?」
「そう。何度扉を叩いても返事がなくて、不審に思って鍵を壊して様子を見に行ったんだって。そこで、その騎士が見つけてしまったのが……」
アレフはそこで一度、言葉を重苦しく切った。その瞳に、少しだけオカルトじみた怯えが混ざる。
「……もう、随分と時間が経って、無残に腐敗して変わり果てた遺体だったらしい」
アリベルの表情が、そのショッキングな内容にわずかに強張った。
「それって……本当に、ガエル本人だったの?」
「うん。衣服の遺品や魔力の残滓から、間違いなくガエル・ガルヴァンド本人だと当時の教会と騎士団によって正式に判断されたって克明に記録されているよ。ただ、発見されたときには死後かなりの時間が経ちすぎていて、病死なのか何なのか、詳しい死因については結局分からなかったらしいんだ」
「それじゃあ……もしかしたら、誰か強力な敵に暗殺された可能性もあるってこと?」
「可能性は大いにあると思う。何せそれだけ目立つ天才だったわけだし、恨みを持つ奴も星の数ほどいただろうからね。でも、室内には激しく争ったような目立つ跡があったわけでもないし、本当に病死だったのか、それとも毒殺なのか、そういう詳細も今となっては闇の中なんだ」
アレフは、パタンと少し乾いた音を立てて厚い古書を閉じた。
「とにかく、どんなに謎めいた最期であれ、ガエル・ガルヴァンドという男は、今からずっとずっと昔にこの世界で確実に亡くなった、過去の人物なんだよ」
アリベルは、それきり黙り込んでしまった。
死んでいる。
歴史に不滅の名を残すほどの偉大な魔術師でありながら、ある日突然理由も分からず姿を消し、誰にも看取られることのないまま、寂しく亡くなっていた。
だが、アリベルの胸の奥には一つ、どうしても割り切れない、強烈な引っかかりが残っていた。
自分は、確かにこの目で見たのだ。確かに会ったのだ。
ほんの数日前、あの呪われた魔鈴の不気味な音に意識を奪われ、導かれた精神の深層意識の中で、自分は確かにあの銀髪の美しい人物と言葉を交わした。あの人物は、はっきりと自らの口で自分のことを星導の魔術師だと名乗り、魔鈴の危険性や仕組みについて、まるで自分の持ち物であるかのように詳しく説明してくれた。
あれは絶対に、単なる脳の錯覚が見せた夢などではない。少なくとも、あの世界を体感したアリベルにとっては、今こうしてアレフと話している現実と、何一つ変わらないくらいに鮮明で決定的な出来事だったのだ。
「……ねえ、アレフ」
「ん? なに?」
「ガエルがその隠れ家で亡くなって、いなくなったのって、具体的にどれくらい昔のことなの?」
「うーん……そうだね、かなり昔だよ。正確な年代は古い資料によって百年くらいの誤差があるからアレだけど、少なくとも、今この世界を生きている人間の誰一人として、生前の彼を直接知っているような時代じゃないことだけは確かだね」
「そっか……」
「ねえ、どうしたのさ、アリベル? さっきから、なんだか妙にそのガエルのことばかり気にして、顔色が優れないけど」
アリベルは、しばらく自分の爪先を見つめて迷っていたが、アレフのどこまでも真っ直ぐな瞳を見て、ようやく意を決したように静かに口を開いた。
「実はね、アレフ。……少し前に、その肖像画の人にそっくりな人物を、直接見たんだ」
「えっ!?」
アレフは弾かれたように、勢いよくベッドから身を乗り出してきた。その瞳が、冒険者特有の好奇心でギラギラと輝く。
「どこで!? いつそれを見たの!?」
「それが、普通の街中とかの場所じゃなくて……。僕自身、ちょっと上手く説明しづらいんだけど」
アリベルの歯切れの悪い態度に、アレフは少しの間、顎に手を当てて記憶を遡るように目を細めた。そして、何かに思い当たったようにハッとした。
「……もしかして、あのフォラリスの『魔鈴』のとき?」
図星を指され、アリベルは少し驚いて息を呑んだ。
「……うん。どうして分かったの?」
「やっぱり! あのとき、アリベルが急に意識を失って倒れて、俺が必死に揺すっても全然起きなかっただろ? あのとき、アリベルの側で何か絶対に変なことがあったんだって睨んでたんだ!」
アレフは興味津々といった爆発しそうな様子で、アリベルの顔を凝視した。
だが、アリベルはすぐには全ての詳細を答えなかった。あの深く暗い深層意識の底で起きた全ての不可解な出来事を、他人に正確に説明するには、まだ自分自身でも分からない謎が多すぎる。
「あの魔鈴の不気味な音を聞いた瞬間、僕の意識だけがどこか別の暗い場所に飛ばされてさ。その意識の中で、あの肖像画とそっくりな銀髪の人に会ったんだ。その人が、自分のことを『星導の魔術師』って、はっきりと名乗っていた」
「それって……じゃあ、ガエル本人の幽霊か何かってことなのかな?」
「分からない。でも、顔立ちも髪の長さも、雰囲気も、この本に描かれている姿と本当によく似ていたよ」
「うーん……」
アレフは珍しく、腕を組み、深刻な顔をして深く考え込んでしまった。
いつもなら突拍子もない思いつきを次から次へと面白おかしく口にする彼が、今回ばかりは信憑性を測るように慎重に思考を巡らせている。
「でもさ、記録の上ではガエルは確実に死んでるんだよね。しかも、何百年も前に。肉体はとっくに滅びてるはずだ」
「そうなんだよね。だから僕も不思議で」
「じゃあさ、本人じゃないのかな? 例えば、彼に憧れて名前を騙っているそっくりな別の凄腕の魔術師とか……あるいは、魔鈴の呪いがアリベルの記憶を使って見せた、タチの悪い幻影の類とか……」
「それも一時は考えた。でも、あの人は僕たちが苦戦していた魔鈴の隠された秘密を全部知っていたし、僕を助けるために色々と的確に説明してくれたんだ。ただの悪意ある幻影だったのかは、どうしても思えないんだよね」
「なるほどね……」
アレフはしばらく、ふむ、と唸って腕を組んでいたが、やがていつもの悪戯っぽい不敵な笑顔をその顔に蘇らせた。
「うーん、よし! これは俺も冒険者として、ちょっと本腰を入れて調べてみたいな! ギルドの本部の奥にある非公開の古い機密資料室なら、ガエルについて、この一般書籍には載ってないほかのアブナイ記録が残っているかもしれないしさ」
「ありがとう、アレフ。僕も、あの人が最後に残した言葉の意味について、もう少し自分なりに考えてみるよ」
「おう、任せておけって! こういう歴史の闇に隠された大いなる謎を暴くの、俺、結構大好物なんだよね!」
アレフは再び、やる気に満ち溢れた様子でバサリと本を開き、別の手がかりになりそうなページを勢いよく探し始め、ベッドの上で熱心に指を動かし始めた。
アリベルもまた、アレフの邪魔をしないように静かに、開かれたままのページにある美しい肖像画へと再び視線を戻した。
そこに色褪せることなく描かれた銀髪の偉大な人物は、どこか浮世離れした、穏やかで慈悲深い表情を静かに浮かべていた。まるで、数百年後に生きる少年たちが抱くであろうこの尽きない疑問のすべてを、最初からすべて予期して知っているかのように。
ガエル・ガルヴァンド。
歴史を震撼させた、偉大なる魔術師。空から星を落とす、星導の魔術師。
そして、はるか昔に孤独な死を迎えたはずの、過去の亡霊。
あの悍ましい鈴の音の先にある、深層意識の暗闇で出会ったあの優しい人物は、一体全体、本当に何者だったのだろうか。
アリベルは胸の中に渦巻く割り切れない想いを抱えたまま、もう一度だけ、その美しい肖像画をじっと眺めた。
いくら考えても、今の自分たちでは明確な答えなどどこにも見つからない。
ただ一つ、これからの旅の行く末を予感させるように確かなことがあった。
あの『魔鈴』を巡る一連の出来事の裏側には、自分たちがまだ知り得ていない、世界の根幹に関わる巨大な秘密が隠されている。
それだけは、確信めいた予感として、アリベルの小さな胸の中に確かに刻まれていた。




