34話 手紙
天空都市、オリオン。
そう呼ばれる国家は、空に浮かぶ幻想的な都市などではなかった。大陸にそびえる巨大な崖。その険しい斜面に沿って街並みが築かれ、切り立った崖の下には、底の見えないほど深い渓谷が広がっている。外部から侵入しようとする者にとって、この地形は天然の城壁そのものだった。正規の道を知らずに近づけば、険しい岩肌と断崖に行く手を阻まれる。空から侵入するにしても、街を囲む防衛設備と天翼族の見張りを突破しなければならない。
危険であると同時に、壮観な場所でもあった。
崖の上に広がる街には、白い石材で造られた建物が立ち並び、道の両脇には色とりどりの花が飾られている。翼を広げて空を渡る者、商店の前で談笑する者、荷車を押して坂道を上る者。人々の暮らしは活気に満ちていた。
その街の中央を、一人の青年が歩いていた。
美しい顔立ちに、整った身なり。人目を引く容姿でありながら、彼は決して偉ぶることなく、道行く人々に気さくな笑顔を向けていた。
「ウラノス様!」
花屋の女性が声を上げる。
「こんにちは。今日はずいぶんと花が咲いていますね」
ウラノスは足を止め、店先に並んだ花々を眺めた。
「ええ、おかげさまで。ウラノス様が以前くださった助言のおかげで、育て方を変えてみたんです」
「それは素晴らしい。努力が実を結んだのですね。私も嬉しいですよ」
彼は心から喜んでいるように見えた。女性が笑えば、ウラノスも笑う。困っている者がいれば声をかけ、子供たちに出会えば目線を合わせて話を聞く。街の人々の名前や、以前交わした何気ない会話まで覚えていることもあった。
「ウラノス様、見てください! これ、昨日できるようになったんです!」
一人の少年が駆け寄ってきた。背中には小さな白い翼が生えている。少年は少し緊張した様子で翼を広げ、ぎこちなく羽ばたいてみせた。
「おお、すごいですね。ずいぶん上達したではありませんか」
「本当ですか!?」
「ええ。ただ、焦りは禁物ですよ。自分の力をよく理解して、少しずつ練習していきましょう。いつか、私のように空を自由に飛べるようになるかもしれませんね」
少年の顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
「その意気です」
ウラノスは少年の頭を優しく撫でると、再び歩き始めた。
すれ違う人々は、彼に敬意を込めて頭を下げる。彼を見つけて駆け寄る者もいれば、遠くから手を振る者もいた。
その誰もが、ウラノスを慕っていた。
天空の王。
この国を治める者であり、人々を導く偉大な存在。少なくとも、街で暮らす民にとって、彼はそういう人物だった。
そして、その評価は決して不自然なものではなかった。
彼は民の前で声を荒らげず、困窮する者には手を差し伸べ、功績を上げた者には惜しみない称賛を与える。彼の言葉には説得力があり、その笑顔には人を安心させる力があった。
誰が見ても、申し分のない好青年。
だからこそ、彼の本性を知る者は少なかった。
街の中央を抜けたウラノスは、長い石段を上り、崖の最上部にそびえる城へと向かった。白い石壁と幾つもの尖塔を備えたその城は、街のどこからでも見える。陽光を浴びた城壁は輝き、まるで天空そのものに築かれた宮殿のようだった。
城門が開く。
「お帰りなさいませ、ウラノス様」
門番が恭しく頭を下げた。
ウラノスは、街で見せていたのと同じ笑顔を浮かべる。
「ご苦労さまです。今日も異常はありませんでしたか?」
「はっ。問題ございません」
「それはよかった。引き続きお願いしますね」
穏やかな声。柔らかな表情。門番は深く頭を下げ、ウラノスを見送った。
そして、城門が閉じた。
廊下を進んでいたウラノスの笑顔が、消えた。
「……チッ」
小さな舌打ち。
先ほどまでの温かみは、どこにもなかった。彼は不機嫌そうに眉を寄せ、歩調を速める。足音が石造りの廊下に響き、やがて広い謁見の間へとたどり着いた。
そこには、多数の人物が控えていた。
彼らの背中にあるのは、黒い翼。
白い翼を持つ者が多い天翼族の中で、黒い翼を持つ者たちは特別な扱いを受けていた。表向きには同じ天翼族であっても、その立場は大きく異なる。汚れ仕事や危険な任務を押しつけられ、表舞台に立つことを許されない者も少なくなかった。
その中には、ウラノスの命令によって動く者たちもいた。
黒い翼の人物たちは、王の帰還に気づくと、一斉に頭を下げた。
「ウラノス様。お帰りなさいませ」
その声を聞いた瞬間、ウラノスの顔が露骨に歪んだ。
「……お前たち、まだそこにいたのか」
冷たい声だった。
先ほどまで街の子供に向けていた声とは、まるで別人のものだった。
黒い翼の者たちは顔を上げない。誰も口を開かず、ただ王の言葉を待っていた。
「目障りだな。用がないなら、とっとと失せろ」
「申し訳ございません。ご報告があり、こちらでお待ちしておりました」
「報告?」
ウラノスは鼻で笑った。
「ならばさっさと話せ。お前たちのために、私の時間を無駄にするつもりか?」
「……失礼いたしました」
一人が進み出て、任務の結果を簡潔に説明した。
ウラノスは途中で何度か口を挟み、気に入らない点があれば容赦なく責め立てた。報告を終えた者が再び頭を下げると、彼は手を振って追い払うように命じた。
黒い翼の者たちは、反論することなく謁見の間を去っていく。
その背中を、ウラノスは不快そうに見送った。
「まったく……」
吐き捨てるような声。
彼は玉座へ腰を下ろし、肘掛けに頬杖をついた。そこにはもう、民衆に向けていた笑顔の名残すらなかった。
しばらくすると、側近の一人が部屋に入ってきた。
「ウラノス様。お届け物がございます」
「届け物?」
「はい。こちらに」
差し出されたのは、一通の手紙だった。
封筒は簡素なものだった。差出人の名前はない。紋章も、送り主を示す印も見当たらなかった。
ウラノスは受け取ると、封筒の表裏を確認した。
「誰からだ?」
「分かりかねます。届けた者も、差出人については何も知らないと」
「ふん。怪しいな」
そう言いながらも、ウラノスは封を切った。
中には、一枚の紙が入っていた。
そこに書かれていたのは、短い文章だった。
――森の結界を壊せ。
――そうすれば、世界はあなたのものになる。
ウラノスは眉をひそめた。
「……森の結界?」
聞き覚えのない言葉だった。
そもそも、どこの森のことなのか。どのような結界なのか。壊すことで何が起こるのか。肝心な情報が何一つ書かれていない。
あまりにも説明不足だった。
「何を言っているのだ、これは」
彼は手紙を持ち上げ、もう一度読み返した。
森の結界を壊せば、世界を征服できる。
そんな都合のいい話があるものか。
普通なら、そう考えるだろう。
差出人は誰なのか。なぜ自分に知らせたのか。相手には何の利益があるのか。そもそも、なぜ世界征服に必要なものが、どこかの森にある結界なのか。
疑問はいくらでも浮かんでくる。
ウラノスも、最初は疑っていた。
「……くだらん。こんなものを信じろというのか?」
紙を机に置く。
しかし、彼はすぐに手を離さなかった。
世界が、自分のものになる。
その一文が、頭から離れなかった。
王として国を治めるだけでは足りない。誰かに命令される立場ではなく、誰もが自分の意志に従う世界。自分こそが頂点に立ち、すべてを思いどおりに動かせる世界。
それを想像した途端、ウラノスの目に宿る光が変わった。
「……もし、本当だとしたら?」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
彼は手紙を取り上げ、文字を一つずつ追っていく。
「森の結界を壊すだけで、世界を……」
言葉が途切れる。
疑う理由は、いくらでもあった。だが、信じることを妨げる理由も、彼にとってはさほど重要ではなかった。
何より、手紙の送り主が自分に何を求めているのか、という疑問。
普通なら、そこを最も警戒するはずだった。
だが、ウラノスは考えなかった。
いや、考えようとしなかったのかもしれない。
相手に利益がないように見えるのなら、きっと本当に利益などないのだろう。自分を騙して何の得があるのか。わざわざ危険を冒して、こんな手紙を送ってくる理由があるのか。
そんな不自然さよりも、手紙に記された報酬のほうが、彼にはずっと魅力的だった。
「……面白い」
ウラノスの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「もしこれが本当なら、私は……」
その先を口にすることはなかった。
彼は手紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しにしまった。そして、側近を呼ぶために鈴を鳴らした。
すぐに扉が開く。
「お呼びでしょうか、ウラノス様」
「森について調べろ。どこかに結界があるらしい」
「結界、でございますか?」
「そうだ。詳しいことはまだ分からん。場所も、仕組みも、何もかもだ。だが、必ず見つけ出せ」
「承知いたしました。調査の目的については……」
側近が言葉を選ぶように尋ねる。
ウラノスは、わずかに目を細めた。
「余計なことは考えるな。見つければ分かる」
「かしこまりました」
側近が退室すると、ウラノスは再び椅子に深く腰を下ろした。
窓の外には、崖の上に広がるオリオンの街が見える。人々は今日も平和に暮らし、王が自分たちを慈しんでいると信じている。
その王は今、誰も知らない手紙を手に、世界を征服する未来を思い描いていた。
差出人は不明。
目的も不明。
手紙に書かれた内容を裏づける証拠は、何一つない。
それでも、ウラノスは信じ始めていた。
自分にとって都合がいいから。
自分が望んでいるものを、手に入れられるかもしれないから。
そして、彼は気づいていなかった。
その手紙を疑うことよりも、信じることを選んだ時点で、すでに何かに誘導されている可能性があるということに。
天空の王、ウラノス。
民の前では誰よりも慈悲深く、城の中では誰よりも傲慢な男。
彼はまだ知らない。
その一通の手紙が、世界を征服するための道しるべなのか。
それとも、自分自身が誰かの手のひらの上で踊らされるための、ただの餌なのかを。




