33話 調査記録
ガルガドス魔法学院、学長室。
壁一面に並ぶ本棚には、古代魔法や結界術に関する書物が隙間なく収められていた。机の上には複数の報告書が広げられ、傍らには細かな文字で記された魔法陣の写しが積まれている。そのどれもが、長年にわたる研究と実績を感じさせるものだった。
その部屋の主、フェリル・マローは、ガルガドス魔法学院の学長であり、国の重要な会議にも出席する立場にある人物だ。
彼は机上の報告書を一枚手に取ると、記載された地図と魔力測定の記録を交互に見比べた。
「結界の位置は、この一帯。記録にある魔力の変動は三か所……なるほど。測定地点が少々偏っていますね」
声に出しながら、地図の上にペン先を滑らせる。報告書に記された測定地点を結び、地形と照合し、いくつかの数値を書き加えた。
「この配置では、結界の外縁しか調べられていない可能性があります。内部の構造まで把握するには、現地で確認する必要がありそうですね」
フェリルは迷うことなく必要な道具を選び始めた。魔力の流れを測定する小型の魔道具、術式の痕跡を記録するための紙、そして結界に干渉せず表面の構造を読み取るための細い金属製の器具。用途の異なる道具を手際よく鞄へ収めると、最後に報告書を丁寧に閉じた。
準備に無駄はなかった。
今回の任務は、森の中に存在する結界の調査と強化。そこに閉じ込められているのは、三大魔獣の一角、ロストである。
無限に増殖する能力。目撃した者を森から出られなくする幻術。フォラリスの英雄が討伐したと伝えられていた魔獣は、実際には倒されていなかった。国の威信を守るため、討伐の失敗を隠し、結界で閉じ込めたというのが真相だった。
だが、結界が今も正常に機能しているのなら、直ちにロストが外へ出てくる危険はないはずだ。
少なくとも、記録上はそうなっていた。
フェリルはその記録を鵜呑みにすることなく、自分の目で確かめるため、森へ向かった。
森に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
木々の枝葉が空を覆い、地面には濃い影が落ちている。風は吹いているはずなのに、葉擦れの音は妙に遠い。鳥の声も聞こえず、森の奥へ進むほど、周囲の音が薄れていくようだった。
フェリルは立ち止まり、鞄から魔道具を取り出した。
小さな円盤状の器具に魔力を流し込む。表面に刻まれた目盛りが淡く光り、針がゆっくりと動き始めた。
「……やはり、通常の魔力反応とは違いますね」
針は一定の方向を示していた。フェリルはその向きを確かめ、数歩進む。再び測定し、さらに進む。測定を繰り返すたび、針の振れはわずかに大きくなっていった。
彼は測定結果を紙に記録し、地面の状態や周囲の樹木の位置も併せて書き込んだ。
結界そのものは見えない。しかし、魔力の流れには明確な偏りがある。しかも、それは単純に外側から内側へ向かうものではなかった。一定の周期で流れが反転し、反転のたびに、ごく微量の魔力が周囲へ漏れ出している。
「この規模の結界で、これほど細かく魔力を循環させているとは……。構築した術者は、相当な腕前だったようですね」
フェリルは感心したように頷いた。
その声音に不自然なところはなかった。彼は純粋に術式を評価し、同時に、その維持に必要な仕組みを読み解こうとしていた。
次に、彼は地面へ膝をつき、指先で土に触れた。周囲の魔力を乱さないよう、極めて微弱な魔力だけを指先にまとわせる。すると、土の表面に薄い光の筋が浮かび上がった。
一本ではない。幾重にも重なった細い筋が、地中から木々の根元へと伸び、見えない何かを避けるようにして弧を描いている。
フェリルは目を細めた。
「地脈を利用しているのですか。いえ……それだけではありませんね」
彼は光の筋を追い、少し離れた木の根元へ移動した。そこでも同じように魔力を流す。すると、先ほどとは異なる模様が浮かび上がった。
二つの模様を見比べ、彼は手帳に簡単な図を描いた。さらに測定地点を増やし、地脈の流れと結界の術式がどこで交差しているのかを調べていく。
調査は着実に進んでいた。
やがて、フェリルは一本の古木の前で足を止めた。ほかの場所と比べ、そこだけ魔力の流れが不自然に弱い。結界が弱まっているのか。それとも、何か別の仕組みが働いているのか。
彼はすぐに結論を出さなかった。
器具を使って魔力の強さを測り、少し離れた場所でも同じ測定を行う。今度は時間を置いて再測定し、変化が一時的なものではないことを確かめた。さらに、別の術式を用いて結界の表面を探る。
結果は変わらない。
「……なるほど。ここは魔力を遮断しているのではなく、流れそのものを迂回させているのですね」
フェリルは一度、目を閉じた。頭の中で術式の構造を組み立て直しているのだろう。数秒後、彼は手帳に新たな記号を書き足した。
その手つきに迷いはなかった。
結界の仕組みを一つずつ解き明かし、どこに負荷がかかっているのか、どの部分を補強すべきなのかを見極めていく。調査を始めてから、彼は一度も無駄な魔力を使っていなかった。
やがて、必要な記録を取り終えたフェリルは、森の奥へと視線を向けた。
そこには何もない。
少なくとも、目に見える範囲には。
「さて……」
彼は鞄から、先ほどまで使っていたものとは別の器具を取り出した。金属製の細い棒の先端に、小さな透明石が取り付けられている。結界の表面を調べるための道具だ。
フェリルは透明石を指先でつまみ、魔力を込めた。
石の内部に淡い光が灯る。次の瞬間、その光は一度だけ強く瞬き、すぐに消えた。
フェリルは動かなかった。
もう一度、同じ手順を繰り返す。
光が灯り、消える。
三度目。今度は魔力を込める量を変え、反応を確かめた。
やはり、同じだった。
彼は器具を下ろすと、透明石をじっと見つめた。表面には傷一つなく、魔道具そのものに異常が生じた様子もない。
「……おかしいですね」
呟きながら、フェリルは結界の方向へ歩み寄った。
そこには、何もないはずだった。
しかし、彼が手を伸ばすと、指先は確かな抵抗に触れた。
コツン。
硬質な音が、ごく小さく響く。
フェリルはすぐに手を引かなかった。指先をわずかに動かし、横へ滑らせる。数センチ移動したところで、再び抵抗があった。さらに上へ、下へ。確かめるように触れていく。
見えない壁。
その表面は滑らかで、ひび割れも凹凸も感じられない。だが、指先から伝わる感触だけで、彼は結界の厚みと境界の位置を正確に把握しようとしていた。
やがて、フェリルは片手を離し、もう片方の手をかざした。指先にごく細い魔力をまとわせ、結界の表面へ慎重に流し込む。
普通なら、結界に魔力を流すこと自体が危険を伴う。術式が反応し、侵入者を排除しようとする可能性があるからだ。
だが、フェリルの魔力は結界に弾かれなかった。
表面をなぞるように広がり、術式の一部を読み取っていく。
彼はその反応を見逃さなかった。
魔力の流れが交差する場所。負荷が集中する箇所。循環のわずかな乱れ。先ほどまでの調査で得た情報と照らし合わせれば、結界の構造はかなりの部分まで把握できる。
フェリルは手を動かしながら、頭の中で必要な計算を進めた。
数秒後、彼の指先が止まった。
「……そういう構造でしたか」
声には、納得したような響きがあった。
彼は魔力を引き上げ、手帳に数行を書き込んだ。そこには結界の構造だけでなく、強化する場合に必要となる魔力量や、補強すべき箇所まで記されていた。
調査を終える頃には、空はすっかり暗くなっていた。
フェリルは道具を片づけ、最後にもう一度、結界の表面へ手を伸ばした。
今度は、調査のための魔力を込めなかった。ただ、指先をそっと触れさせる。
何も起こらない。
森は静まり返っていた。風も、鳥も、虫の声さえも聞こえない。まるで、この場所だけが世界から切り離されてしまったかのようだった。
フェリルはしばらく、その場に立っていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「簡単に壊せそうですねぇ……」
その表情は、穏やかなままだった。
先ほどまで結界の構造を分析していたときと変わらない。声にも、怒りや喜びといった感情は見えない。ただ、調査結果を確認するような、ごく自然な口調だった。
だからこそ、その言葉だけが、ひどく場違いに響いた。
フェリルは何事もなかったかのように手を引き、懐から報告書を取り出した。調査結果を確認し、必要な情報が漏れなく記載されていることを確かめる。結界の状態、魔力の循環、負荷の集中する箇所。どの項目も正確で、客観的だった。
その報告書を読めば、誰もが彼の仕事ぶりを高く評価するだろう。
結界は現状、機能している。構造にも致命的な欠陥は認められない。必要な補強を施せば、維持は可能である。
そう記すこともできる。
フェリルはペンを取り出し、報告書の末尾に目を落とした。
「さてさて……報告書にはなんて書きましょうか……」
静かな声が、誰もいない森に落ちた。
彼は少し考えてから、ペンを動かし始めた。
何を書いたのかは、暗がりに遮られて見えなかった。
やがて報告書をしまったフェリルは、来た道を戻り始める。歩調は一定で、足取りにも乱れはない。任務を終えた学者が帰路につく。それだけの光景だった。
その背後には、目に見えない結界が、変わらず存在していた。
そして、その向こう側には、今もロストがいる。
かつて英雄が倒したと信じられていた、倒されることのなかった魔獣。
それを閉じ込め続ける結界の構造を、フェリル・マローは知った。
どこが強固で、どこに負荷が集中し、どこを補強すればよいのか。
そして――どこを壊せばよいのかも。




