31話 日常
第二章、始まりました!アリベルの口調がむずかしい…
窓から差し込む柔らかな日差しが、宿屋の一室を照らしていた。
どこか遠くで、のどかな鳥のさえずりが聞こえる。窓の向こうからは、朝早くから行き交う人々の話し声や、石畳を走る荷車の車輪の音も低く響いてきた。かつて暮らしていた城塞都市ガルガドスの、あのせわしない朝に比べれば、王都のこの界隈はずいぶんと静かだった。
「……ん」
アリベルは、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない宿の木製天井だ。一瞬、自分が今どこにいるのか分からず記憶が混濁したが、すぐに昨日までに起きた怒涛の出来事を思い出す。
隣国フォラリスで起きた、国を揺るがす大騒動。魔具『魔鈴』によって、人々が正気を失い操られた悪夢のような光景。そして、命がけの戦いの末に果たした、魔鈴の完全な封印。
「……そっか。終わったんだ」
ぽつりと小さな呟きを漏らし、ゆっくりと身体を起こす。
長い激闘の疲れがまだ芯に残っているものの、幸いにも身体にこれといった問題はなさそうだった。アリベルは寝ぼけた頭を軽く振り、現実へと意識を戻しながらベッドの隣へと視線を向けた。
そこには――。
「……」
すやすや。
すぴー……。
アレフが盛大に爆睡していた。
「…………」
アリベルは呆れ半分、安心半分で、しばらくその無防備な寝顔を眺めた。
本当に、昨日はいろいろなことがありすぎた。一歩間違えれば世界を滅ぼしかねない危険な魔具が封印され、騎士たちとも深く関わり、一秒たりとも気の休まらない時間が続いたのだ。
「アレフ。朝だよ」
「…………」
「アレフ?」
「……んー……」
わずかにアレフの眉がピクリと動いた。
起きるか、とアリベルは淡い期待を込めてじっと見守った。
「……あと五分……」
「駄目」
「……十分……」
「増えてるよ」
「……じゃあ、一時間……」
「なんで!?」
あまりの理不尽さに、アリベルは思わず声を大きくした。
しかし、アレフはそんなツッコミなど全く動じる様子もない。それどころか、宿の安物の布団を愛おしそうにぎゅっと抱きしめ、毛虫のように丸くなってしまう。
「うう……まだ眠い……」
「もう朝だってば。起きてよ」
「朝だから眠いんだよぉ……」
「……」
埒があかないと察したアリベルは、アレフの肩を直接掴んで揺すり始めた。
ゆさゆさ。
「ほら、起きて!」
「やぁだぁ……」
ゆさゆさゆさ。
「起きてってば!」
「むにゃ……アリベルがあと三人になったら起きる……」
「どういう条件!?」
朝一番から訳の分からない無理難題を突きつけられ、アリベルは盛大に頭を抱えた。
普段は好奇心の塊で、トラブルの気配があれば誰よりも早く首を突っ込むアレフだが、どういうわけか寝起きだけは完全に別人だった。いや、別人というより、ただの甘えた駄々っ子である。
「……もう」
アリベルは少しの間、腕を組んで考え込んだ。
そして、何かを思いついたようににっこりと邪悪な笑みを浮かべる。
「じゃあ、僕だけ先に帰ろうかな」
「…………」
「ガルガドスに戻って、美味しいものでも一人で食べようっと」
「…………!」
ぴくっ、と布団の丸まりから、アレフの耳が分かりやすく跳ね上がった。
アリベルはその確かな手応えを見逃さなかった。さらに言葉を重ねる。
「それに、店長のお店で働けば、お昼ご飯に特製の賄いも食べられるし」
「…………」
「アレフの分も、僕が代わりに食べちゃおうかな」
「起きます!!」
がばっ!!
弾かれたように、アレフが猛烈な勢いで跳ね起きた。
「おはようアリベル! 今日も実に素晴らしい、最高の朝だな!」
「……現金だなあ」
「いやあ、やっぱり人間、朝のスタートダッシュは大切だよな! うんうん!」
先ほどまで布団に魂を売っていた人間と同一人物とは思えない爽やかさだ。アリベルはそのあまりの切り替えの早さに呆れ果てながらも、どこか愛おしくて、くすりと声を漏らして笑った。
「じゃあ、早く準備して。街へ帰るよ」
「了解!」
元気よく軍隊のような返事をしたアレフは、勢いよくベッドの上に立ち上がり――。
ぐらり、と視界を大きく揺らした。
「……あれ?」
そのまま、糸の切れた人形のようにベッドへ再び倒れ込んだ。
「アレフ!?」
「……まだ、ちょっと眠いかも……」
「結局!?」
結局、二人が宿の部屋を完全に出るまでには、それからもうしばらくの時間を要したのだった。
*
ようやく宿を出る頃には、太陽はすっかり空高くへと昇っていた。
街へと続く街道には、朝早くから長距離を移動してきた商人や旅人の姿が数多く見られる。馬車が乾いた土煙を巻き上げながら走り、道端では行商人が手際よく品物を並べて声を張り上げていた。
フォラリスで起きていた、あの血の気の引くような凄惨な騒動がまるで嘘だったかのように、どこまでも穏やかで、ありふれた風景が広がっている。
「やっぱり、外の空気は最高に気持ちいいな!」
アレフは青空に向かって、両手を大きく広げて伸びをした。
「さっきまで眠いって部屋で大騒ぎしてた人の台詞とは思えないよ」
「えっ? 俺、そんなこと言ったか?」
「言ったよ!」
「うーん……寝起きのことは都合よく忘れちゃうタプなんだよなあ」
「都合よすぎない!?」
アリベルは盛大なため息をついた。
けれど、こうして他愛のない、いつものくだらない会話を交わしていると、自分たちはようやく過酷な戦いを生き延びて、本当の日常に戻ってきたのだという実感がじんわりと湧いてくる。
あの魔鈴の事件は、決して小さな出来事ではなかった。一歩選択を間違えれば、世界中に取り返しのつかない大災厄をもたらしていたはずだ。それでも、自分たちは今、こうして生きて確かな大地を歩いている。
隣にいる、この騒がしい相棒と一緒に。それだけで、アリベルの胸の奥にあった重苦しい澱みが、少しだけ軽くなった気がした。
「……ねえ、アレフ」
「ん?」
「ガルガドスに戻ったら、まず何をする?」
「そりゃあ決まってるだろ! まずは何が何でも美味しいものを腹一杯食べるぞ!」
「やっぱりそこなんだ……」
「その次にギルドに顔を出して、それから街をぶらぶら探索して……あっ、そうだ! 今回のフォラリスの話、色んな街の人に聞いて回りたいな!」
「……噂を広めるのは、ほどほどにね」
「分かってるって!」
アレフは自信満々に胸を張った。その自信にどれほどの根拠があるのかは全く分からなかったが、アリベルはそれ以上何も言わずに小さく笑った。
こうして二人は、懐かしい我が家であるガルガドスへの帰路を、のんびりと進んでいった。
*
城塞都市ガルガドス。
かつてフォラリスの手によって築かれ、今では歴史を経て独立した都市として独自の発展を遂げたこの街は、今日も変わらぬ活気に満ち溢れていた。城壁の内側には活気ある商店や飲食店が所狭しと並び、行き交う人々の怒号に似た賑やかな声が絶えることはない。
そして、ようやく街に戻ってきたアリベルとアレフを待っていたのは――。
「おい、聞いたか!? あの堅物のフォラリスで、とんでもねえ魔具が封印されたらしいぞ!」
「魔鈴とかいう、人を狂わせる危険極まりねえ代物だろ? そいつを完全に封じたって噂だ!」
「しかも、あのプライドの高いフォラリスが、こっちのガルガドスに大きな借りができたんだってな!」
「ははっ! いつも上から目線で偉そうにしてる連中には、最高の特効薬だな!」
街のあちこちの路地や広場で、凄まじい勢いで飛び交う噂話の嵐だった。
酒場の前では昼前から男たちが杯を掲げて声を上げ、道端では商人たちが怪しげに話し込み、店先では買い物途中の主婦たちまでもがその話題に興じている。どうやら、フォラリスでの魔鈴封印の一件は、当事者である彼らが帰還するよりも思いのほか早く、このガルガドスまで伝わっていたらしい。
「……すごい盛り上がりだね」
アリベルは、街の異常な熱気に少し圧倒されながら呟いた。
「まあ、あのフォラリスの連中が盛大に困り果てたって話だからな!」
アレフは他人の不幸がよほど楽しいのか、実におかしそうに笑った。
「でも、魔鈴のことって、そんなに一般の人に簡単に話しちゃっていいのかな?」
「うーん……詳しい政治の裏事情は分からないけどさ。危険な呪いの魔具が完全に封印されたって事実くらいなら、みんな安心して大喜びできるんじゃないか?」
「それは、そうかもしれないけど」
アリベルは複雑な思いで街の景色を見渡した。
けれど、人々の表情は一様に明るい。歴史的な背景もあり、フォラリスに対して複雑な思うところを抱える市民は少なくないのだろう。都市同士の関係は決して単純なものではないが、それでも今回の件がガルガドスの人々にとって、文句なしの朗報であることは間違いなさそうだった。
「それにしても、僕たちが帰ってくる前からこんなに大ニュースになってるなんてね」
「これ、俺たちワンチャンスで街のちょっとした超有名人になってたりしてな!」
「ならないと思うよ」
「えー!?」
「だって、僕たちが裏で具体的に何をしたか、みんな名前すら詳しく知らないでしょ?」
「……確かに」
アレフはあっさりと納得した。納得するのがあまりにも早すぎた。アリベルは呆れるのを通り越して、思わず吹き出すように笑ってしまった。
「まあ、有名人になれなくてもいいじゃん。とりあえずお腹も空いたし、宿に戻ろう」
「大賛成! 荷物を秒で置いたら、すぐに美味しいご飯に行こう!」
「はいはい」
こうして二人は、賑やかな人混みの街をすり抜けて、いつも利用している馴染みの宿へと向かった。
*
宿に荷物を放り投げた二人は、その足でそのまま街の活気ある飲食店へと向かった。そこは、アリベルが普段、生活費を稼ぐために働いている馴染みの店だ。
年季の入った木製の扉を開ければ、そこにはいつもと変わらない安心する店内が広がっていた。使い込まれた木のテーブル、綺麗に磨かれたカウンター、厨房の奥から漂ってくる、食欲を暴力的にそそる美味しそうな出汁の匂い。
そして――。
「いらっしゃいま……」
店員の威勢のいい声が、途中でぴたりと止まった。
カウンターの向こうで包丁を握っていた店長が、ゆっくりと顔を上げる。その鋭い視線が、店の敷居を跨いだアリベルを完全に捉えた瞬間。
「……アリベル?」
「こんにちは、店長」
アリベルは、いつもの調子で気まずそうに手を上げて挨拶した。
次の瞬間、店長の顔が般若のように険しく怒髪天を突いた。
「お前……!!」
「えっ?」
「あんたというやつは、二日間も何の一言の連絡もなく無断で仕事休んで! いったいどこの馬の骨のところで何をしてたんだい!」
「す、すみません……!」
アリベルは、凄まじい剣幕に慌てて何度も頭を下げた。
そうだった。フォラリスでの国家規模の騒動に強制的に巻き込まれ、命の危機に瀕していたせいで完全に失念していたが、気づけば二日も店を無断欠勤していたのだ。連絡を入れる精神的余裕など皆無だったとはいえ、店側からすれば怒るのも、そして心配するのも当然だった。
「店長、ちょっと落ち着いてください!」
厨房の奥から、慌てた様子でミルケがエプロンを翻して駆け寄ってきた。
そしてアリベルの姿を確認した瞬間、ぱっとその表情を世界が明るくなったかのように輝かせる。
「あら!? アリベルくん!」
「ミルケさん。お久しぶりです」
「お久しぶりです、じゃないわよ! 二日も連絡なしで来ないから、本当にどうしたのかとみんなで生きた心地がしなかったんだから!」
「ご、ごめんなさい……」
「急に体調でも崩して倒れたのかと思ったし、悪いゴロツキにでも捕まってどこかでトラブルに巻き込まれたんじゃないかって、本当にみんな心配してたのよ!」
ミルケはアリベルの身体に不審な点がないか、文字通り至近距離で顔を覗き込んできた。
「怪我はない? どこか痛むところはない? ちゃんとご飯は食べてた? 眠れてた?」
「えっと……怪我はないですし、ご飯もアレフのおかげでなんとか食べました。昨日は眠れましたし……」
「本当に? 無理して隠してない?」
「本当です!」
アリベルは必死に首を縦に振って頷いた。
ミルケはしばらく疑わしそうに彼の様子を隅々まで確かめていたが、やがて嘘偽りがないと分かると、胸に手を当ててほっと深い息を吐き出した。
「……よかったぁ」
その細い声には、心からの、偽りのない安堵がにじみ出ていた。
「無事なら、もうそれでいいの。でも、次からはどんなに急用でもちゃんと連絡してね?」
「はい。本当に気をつけます」
「約束よ?」
「約束です」
アリベルがそう神妙に答えると、ミルケはようやくいつもの太陽のような笑顔を取り戻した。
「ふふっ。じゃあ、無事が分かったところで、今日は久しぶりのお仕事ね!」
「はい! 遅れた分を取り戻すくらい頑張ります!」
「……待ちな」
そのとき、カウンターの奥から店長が地を這うような低い声を出した。
アリベルの肩がびくりと恐怖で跳ね上がる。やはりクビだろうか、と身構えた。
「アリベル、今日はもう休みな」
「……え?」
「二日間も外で何をしてたのかは野暮だから知らんが、今帰ってきたばかりなんだろう。顔がまだ疲れてやがる。まずは客として飯を食って、大人しく宿へ帰って休みな。仕事のことはそのあと考える」
「でも、二日も無断で休んじゃいましたし、お店に迷惑を……」
「だからといって、戻ってきた途端にヘロヘロの状態で働かせたら、今度はうちの店の中で倒れるかもしれねえだろう?」
店長は逞しい腕を組み、ふんと不器用に向こうを向いて鼻を鳴らした。
「うちの店は、どれだけ人手が足りねえからって、病み上がりのガキに無理をさせるほど落ちぶれちゃいねえんだ。分かったな?」
「……はい」
アリベルは少し驚きに目を丸くしたあと、店長の不器用な優しさが胸に染みて、嬉しそうに細めて微笑んだ。
「ありがとうございます、店長」
「礼なんかいらん。ほら、そこに座りな。腹が減ってるんだろ、美味いもん作ってやるよ」
「えっ、いいんですか!?」
「やった! ありがとうございます!」
ちゃっかり後ろについてきていたアレフが真っ先に声を上げ、アリベルもぺこりと頭を下げて、二人で空いているテーブル席へと向かった。
その微笑ましい後ろ姿を温かい目で見送りながら、ミルケがカウンターの店長にくすくすと悪戯っぽく笑いかける。
「店長ってば、口は悪いですけど、ほんとは誰よりも優しいですよね」
「うるさい。ニヤニヤしてないで、さっさと仕事に戻りな!」
「はーい!」
店長は照れ隠しに声を荒らげ、完全にそっぽを向いた。けれど、その頑固そうな大きな耳の裏が、ほんのりと赤くなっていることに、ミルケだけはしっかりと気づいていた。
*
「ところで、アレフくんは?」
出来立ての料理をトレイに乗せて運んできたミルケが、不思議そうに尋ねた。
アリベルの向かい側の席では、当のアレフが既に目の前の大盛り料理に夢中になっていた。リスのように頬袋を膨らませて肉を咀嚼している。
「もぐもぐ……ん? 俺がどうかしたか?」
「あなたも一緒に二日間いなかったでしょ? アリベルくんを連れ回して、一体どこに行っていたのよ」
「そうそう! 俺たち、ちょっと遠くまで行ってたんだ!」
「遠く?」
「うん! 隣国のフォラリスまでな!」
フォラリス、という不穏な国名が出た瞬間、ミルケの給仕する手がぴたりと止まった。
そればかりか、カウンターの向こうで不機嫌そうに包丁を握っていた店長までもが、ギロリと厨房から強面を覗かせた。
「……フォラリス?」
「はい!」
アレフは肉汁を口元につけたまま、実にも元気よく頷いた。
「ちょっとした大事な用事があって行ってたんだよ!」
「ちょっとした用事で、二日間も何の一言の連絡もなく帰ってこなかったのか?」
店長の声が低く、地を這うような重みを帯びる。
「えーっと……それは……」
さすがに店長のただならぬ威圧感を察したのか、アレフは泳ぐように視線をあちこちへ彷徨わせた。
魔鈴の事件について、一般の市民である二人にどこまで詳しく話していいものか。詳しい国家間の政治事情まで説明するべきなのか。そもそも、アレフ自身、現時点でどこまで説明するつもりがあるのか。
色々と考えているようでいて、実はその実、何も考えていないだけのような抜けた顔だった。
そんな頼りない相棒に代わり、見かねたアリベルが助け舟を出すように口を開いた。
「フォラリスの王宮で、すごく危険な古い魔具が見つかって、それを僕たちで封印することになったんです。本当に色々と想定外のトラブルが重なってしまって、帰るのが遅くなっちゃって……」
「危険な魔具?」
ミルケが驚いたように丸い目を見開く。
「それって、もしかして、今ガルガドスの街中で噂になってる『魔鈴』のこと?」
「……もう、ここまで具体的な噂が広がっているんですね」
「そりゃあそうよ! 今日はお店が開いた朝から、来る客みんながずっとその話でもちきりなんだから!」
ミルケは興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「それで、それで? 実際のところはどうだったの? その魔鈴って、噂通り本当に恐ろしい力で人間を操るの?」
「えっと……」
アリベルは返答に詰まり、困ったように眉を下げて笑った。
自分が実際にフォラリスの地で体験した、あの身の毛もよだつ光景を頭の中で思い返す。
空気を不気味に震わせていた、あの美しい鈴の音。自分の意志とは無関係に、意識が底暗い深い場所へ沈んでいくあの感覚。そして、自分の知らないところで勝手に身体が動かされていた悍ましい出来事。
今こうして平和な店内にいても、思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。
「……はい。本当に、取り返しのつかないくらい危険な魔具でした」
アリベルは、これ以上の余計な心配をかけまいと、詳しい凄惨な説明を意図的に避けながら答えた。
「でも、もう騎士の皆さんのおかげで完全に封印されましたから、これからはもう絶対に大丈夫だと思います」
「そう……」
ミルケはそれを聞いて、誇張でなくほっと胸に手を当てて撫で下ろした。
「それなら本当によかったわ。大きな事件に巻き込まれていたのね。二人とも怪我もなく無事に帰ってきてくれて、本当によかった」
「ありがとうございます、ミルケさん」
「ふふっ。どういたしまして!」
ミルケはいつもの優しい笑顔を取り戻すと、空いたスペースへアレフの分の追加料理を置いた。
「それで、アレフくんは向こうで何か特別な活躍をしたの?」
「俺? 俺はな……」
アレフは咀嚼を止め、一瞬だけ神妙な顔をして考え込んだ。
そして。
「フォラリスで美味しいものをいっぱい食べてた!」
「それ、今もここでやってるでしょ!?」
あまりのブレなさに、ミルケが思わずお盆で机を叩く勢いで突っ込んだ。
張り詰めていた空気が一気に弛緩し、アリベルも我慢できずに吹き出してしまう。
「アレフ……!」
「えっ、だって嘘偽りない本当のことだぞ!?」
「そういう意味で聞いてるんじゃないの!」
「あはははっ!」
ミルケの快活な笑い声が、店内に明るく響き渡った。
厨房の店長は呆れ果てたように額に手を当て、本日何度目か分からない深いため息をついた。
「……あんたらは、国家の危機に関わってきたってのに、もう少し緊張感ってものを持てんのか」
「えー? でも店長、こうして無事に生きて帰ってきたんだから結果オーライでいいじゃん!」
アレフは全く悪びれることなく、満面の笑みで答えた。
「それは……まあ、そうだが」
正論といえば正論の相棒の笑顔に、頑固な店長もさすがに言葉を詰まらせた。
そして、しばらく皿を挟んで笑い合う二人を温かい目で見つめていたあと、小さく諦めたように息を吐いた。
「……ったく。帰ってきたなら、ガタガタ言わずにしっかり食って、今日はしっかり休め」
「はーい!」
「ありがとうございます!」
アリベルとアレフの元気な声が、綺麗に重なった。
*
次の日の、昼時を少し過ぎた頃。
店内は、いつも通りの大繁盛の賑わいを取り戻していた。
昼酒を楽しむ客たちのガヤガヤとした話し声。食器やジョッキが慌ただしく触れ合う硬質な音。厨房の奥から活気よく聞こえてくる店長の短い指示。そして、フロアを忙しなく動き回るミルケの明るい接客の声。
そのすべての雑音が、アリベルにとっては堪らなく心地よかった。
つい昨日までのフォラリスでは、一歩歩くたびに何が起こるか分からない、張り詰めた緊張の連続の中にいた。けれど、ここには自分がよく知るいつもの日常がある。
いつもの温かい店があり、いつもの大好きな人たちがいる。そして、何より自分の帰りを心から心配し、待っていてくれる人がいる。
それは、旅を続ける中で当たり前のように錯覚してしまいがちだが、決して当たり前などではない、奇跡のような幸福だった。
「アリベルくん、こっちの三番テーブルにこれお願い!」
「はい、ただいま!」
ミルケに名前を呼ばれ、アリベルは厨房から上がってきたばかりの湯気立つ皿を受け取った。
料理を客のもとへ正確に運び、笑顔で追加の注文を聞き、空いた食器を手際よく片付けていく。二日ぶりの仕事で少しブランクを心配していたが、身体は思ったよりもよく馴染んで動いてくれた。
何より、こうしてまた誰かの何気ない日常の役に立てていることが、純粋に嬉しかった。
「……ふう」
ピークタイムが過ぎて一段落したところで、アリベルは小さく息を吐いた。
「はい、お疲れ様!」
いつの間にか隣に来ていたミルケが、冷たい水の入ったコップを差し出してくれる。
「あ、ありがとうございます」
「どう? 久しぶりの丸一日のお仕事は。身体は大丈夫?」
「すごく楽しいです。やっぱり、ここのお店は一番落ち着きますね」
「ふふっ。お店の看板スタッフにそう言ってもらえると、すっごく嬉しいわ」
ミルケは姉のように優しく笑った。
そのとき、店の賑やかな隅の席から賑やかな声が飛んできた。
「アリベルー! こっちの美味い料理、もう一皿追加でお願い!」
「はーい、ただいま行きます!」
アリベルは疲れを感じさせない元気な声で返事をした。
今日も、城塞都市ガルガドスはどこまでも平和だった。少なくとも、今この目の前にある瞬間だけは。
*
その日の夕方。
無事にシフトを終えたアリベルは、宿へ戻るための夕暮れの道をのんびりと歩いていた。
隣には、一日中街を連れ回されていたはずなのに、相変わらず底なしに元気なアレフがいる。
「いやあ、やっぱり色々回ってみたけど、ガルガドスは最高にいいね!」
「うん。僕も本当にそう思うよ」
「明日は何をしようかなあ。朝イチでギルドに顔を出すのもいいし、裏通りの新しい店を見て回るのもいいし……」
「アレフ、昨日まであんなに眠いって騒いでた疲れはもういいの?」
「……あっ」
アレフの軽快な足取りが、ピタリと止まった。
「そうだった。俺、フォラリスの戦い大活躍したからすげー疲れてたんだった!」
「今思い出したの!?」
「いやあ、ガルガドスが楽しすぎて、すっかり忘れてたよ!」
「もう……」
アリベルは呆れ果てながらも、そのあまりの単純さが可笑しくて、堪えきれずに笑ってしまった。
ふと空を見上げれば、燃えるような夕焼けが街全体を赤く染め上げている。石造りの歴史ある建物の壁が美しい橙色に輝き、家路を急ぐ人々の影が石畳の上に長く伸びていた。
今日一日、何か特別な事件は起きなかった。
呪いの魔具が暴走して人を襲うことも、騎士たちに剣を突きつけられて追われることも、暗闇から命を狙われることもなかった。
ただ、朝になっても眠そうなアレフを無理やり起こし、懐かしい街へ帰り、心配してくれた優しい人たちと笑顔で再会し、いつもの大好きな店で全力で働いただけ。
けれど、アリベルは胸の底から強く思った。
こんな、何も起こらない退屈で平穏な日々も、決して悪くない。
「ねえ、アレフ」
「ん?」
「明日も、こんな風に穏やかな一日だといいね」
アレフは歩きながら、少しだけ意外そうに目を丸くした。
それから、いつもの太陽のような屈託のない笑顔を浮かべて答えた。
「そうだな! でもさ、もし明日何か面白いハプニングが起きたら、それはそれで絶対に楽しそうだけどな!」
「……僕は平和が一番いいよ」
「あははっ! 分かっているって!」
本当に分かっているのかどうかは、これまでの行動を振り返る限りかなり怪しかった。
それでも。
響き合う二人の無邪気な笑い声は、夕暮れに染まるガルガドスの賑やかな街並みへと心地よく溶けていった。
新しい日常の一日は、こうして静かに幕を閉じる。
そして、彼らの終わらない旅の足跡は、これからもまだどこまでも続いていく。
明日、その道の先に一体何が待っているのか。
それを知る者は、まだ世界のどこにも誰もいなかった。




