30話 黒翼の暗殺者
夜の王都は、昼間とは違う顔を見せていた。
大通りには宿屋や酒場の明かりが並び、遅くまで行き交う人々の声が響いている。石畳を叩く靴音、店先から漏れる笑い声、遠くで鳴る馬車の車輪の音。そのすべてが、夜の闇に溶け込んでいた。
そんな大通りの一角に、一軒の宿があった。
その二階の部屋では、アリベルが静かな寝息を立てている。長い一日の疲れからか、深い眠りに落ちた彼は、扉が開かれたことにも気づかなかった。
扉を開けたのは、アレフだった。
アレフはベッドで眠るアリベルを振り返った。いつものような明るい笑顔はない。しばらく寝顔を見つめたあと、彼は音を立てないように扉を閉じた。
カチャリ、と小さな音が、静かな廊下に響く。
アレフは階段を下り、宿の外へ出た。
*
大通りを歩くアレフの足取りに、迷いはなかった。
行き交う人々の間をすり抜け、明かりの届く店先を通り過ぎていく。
やがて,彼は大通りから逸れた。人通りの少ない路地へと入っていく。そこには、先ほどまでの喧騒が嘘のように届かなかった。
石壁に挟まれた細い道。足元には、誰かが捨てた木箱が転がっている。頭上では、建物と建物の隙間から夜空が細長く見えていた。
アレフは歩みを止めなかった。まるで、誰かが待っていることを知っているかのように。
その様子を、上から見下ろしている者がいた。
黒い翼を持つ人物だった。手には、冷たい鈍色に光る長い槍。その人物は翼を静かに畳み、建物の上から眼下の少年を見つめていた。
黒い翼。それは、天翼族の中でも過酷な差別の対象となるものだった。
天空の王ウラノスが君臨する国、オリオン。そこに暮らす天翼族には、白い翼を持つ者と、黒い翼を持つ者がいる。同じ天翼族でありながら、両者の立場は決して等しくなかった。白い翼を持つ者たちが神聖視され尊ばれる一方、黒い翼を持つ者たちは不吉の象徴として差別され、蔑まれてきた。
そして、表立っては誰も手を汚したがらない仕事――そうした汚れ仕事のすべてが、黒い翼の者たちへと回される。
暗殺。その人物が所属するのも、そんな血生臭い仕事を一手に担う隠密部隊だった。
命令に従い、標的を始末する。理由を問う必要はない。正義を考える必要もない。ただ機械のように命令を果たせばいい。それが、暗殺部隊に求められるすべてだった。
今回の任務も例外ではない。
標的の名は、アレフ。目的は、彼が持つ魔鈴の奪取。それ以上のことを考える必要はなかった。
黒い翼の人物は、槍を握り直した。
じっと狙いを定める。標的は、こちらに気づく様子もなく無警戒に歩いている。絶好の好機だった。
次の瞬間、黒い影が夜空を切り裂いた。
刹那。
強烈な風切り音と共に、長い槍がアレフの身体を背後から深く貫いた。
狙いは正確無比だった。鋭い槍先は、寸分の狂いもなく心臓を捉えていた。
アレフの身体がわずかに揺れる。しかし、苦悶の声すら上がらない。抵抗の素振りもなかった。
黒い翼の人物は、着地時の勢いのままアレフを通り過ぎた。まるで、最初から勝敗など決まっていたかのように、流れるような動作で手にした槍を軽く振る。
穂先から飛び散った赤黒い血が、夜の石畳に不気味な斑点模様を描いた。
恐ろしいほどの静寂が路地を包む。アレフの身体は、糸が切れた人形のようにその場に倒れ伏していた。
黒い翼の人物は振り返らなかった。
暗殺部隊にとって、標的の息の根が止まったことを確認するのは鉄則だ。だが、今回は指先に確かな手応えがあった。心臓を完全に貫いたのだ。あれで生きているはずがない。
あとは死体から魔鈴を回収するだけ。それで忌々しい任務は終わる。
そう考え、死体へと足を進めた。
――そのはずだった。
背後で、衣服が擦れるような、妙に生々しい音が響いた。
黒い翼の人物は、ぴたりと足を止めた。
「……?」
不審に思い、振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
先ほどまで確かにそこにあったはずの、槍で貫かれた少年の死体が、跡形もなく消えていた。ただ、べっとりと付着した生々しい血の跡だけが、冷たい石畳に残されている。
黒い翼の人物は目を細め、周囲を警戒した。
見間違いであるはずがない。確かに心臓を貫いた。確かに、この手で仕留めて倒した。それなのに、死体が消えるなどということがあり得るのか。
「どこへ……」
言葉が途切れた。
ぞわり、と悍ましいほどの悪寒が背筋を駆け抜けた。
本能的な恐怖に突き動かされ、反射的に顔を上げる。
真上。
建物の隙間の、月明かりを背負う位置に、アレフが音もなく佇んでいた。
いつの間に移動したのか。重力を無視したかのようなその跳躍に、黒い翼の人物の思考が追いつかない。
しかし、考えるより先に戦士としての身体が動いた。とっさに身をひねる。
直後、鋭い何かが顔の真横を猛烈な速さで通り過ぎた。
アレフの指だった。
いや、それを指と呼んでいいのかさえ怪しかった。関節の数が狂ったかのように引き伸ばされたその先端は、鋼の針のように細く、鋭く尖り狂っている。
目を正確に狙った一撃。黒い翼の人物は辛うじて避けたものの、頬に一本の浅い傷が走り、鮮血がにじんだ。
アレフは着地すると同時に、無音で地面を蹴った。
間髪入れず、肉薄して二撃目が放たれる。
黒い翼の人物は槍を横に振り、必死の拒絶を試みる。
金属音が路地裏の壁に反響した。
「キィンッ!」
槍の刃と、アレフの鋭利な指先が正面からぶつかり合い、暗闇の中に激しい火花が散る。
黒い翼の人物は、相手の異常性を察知して間合いを取ろうとした。だが、アレフは蜘蛛のような速さで距離を詰め、決して逃がさなかった。
さらに踏み込む。身を異常なほど低く滑り込ませ、槍の払いを容易くくぐり抜ける。次の瞬間には、完全に相手の懐へと潜り込んでいた。
黒い翼の人物は、焦燥と共に槍を強引に引き戻して突き出す。アレフは首を不自然な角度に傾け、紙一重でそれを避けた。端正な顔立ちのまま、ただ機械的にこちらを追い詰めてくる。
返す動きで相手の剥き出しの腕へ、その爪のような指を突き出した。
危ういところで黒い翼が大きく広がる。力任せな羽ばたきによって猛烈な突風が生まれ、狭い路地を爆風となって駆け抜けた。
突風に圧され、アレフの身体が後方へと押し戻される。だが、彼は背後の壁に激突する寸前、猫のようにしなやかに足を壁面につけ、それを強く蹴って飛び出した。
その動きには、一切の無駄も、人間らしい躊躇いもなかった。まるで、こちらの攻撃の軌道をはじめからすべて先読みしているかのようだった。
槍が鋭く迫る。アレフは軟体動物のように身をよじって避ける。
翼が唸りを上げて風を切る。アレフはその風を裂いて懐へ潜り込む。
容赦なく突き出される指先が、防ぎきれずに相手の防具の隙間を、肉を、幾度となくかすめていった。
黒い翼の人物は、じりじりと後退を余儀なくされた。
それでも、戦いを諦めるわけにはいかなかった。ここで退けば待つのは死だ。槍を構え直し、黒い翼を狂おしく広げ、何度もアレフへと決死の猛攻を仕掛ける。
しかし、その渾身の突きも、薙ぎ払いも、アレフはそのすべてを嘲笑うかのように紙一重で見かわしていった。
攻防は激しさを増していく。狭い路地に、槍が空気を引き裂く轟音と、硬質な衝突音が絶え間なく響き渡る。
やがて。
黒い翼の人物の呼吸が、目に見えて乱れ始めた。
肩が激しく上下し、槍を握る両手が悲鳴を上げて震えている。
対して、目の前のアレフにはまだ底知れない余裕があった。呼吸一つ乱れておらず、その瞳には生気すら感じられない。動きの精度に狂いはなく、むしろ速度を増している。
戦いが長引くほど、明確に黒い翼の人物のほうが絶望の淵へと追い詰められていった。
暗殺部隊に身を置く者として、修羅場の経験が不足しているわけではない。標的を確実に、迅速に仕留める技術なら、それこそ骨の髄まで叩き込まれてきた。
それなのに、目の前の少年にはその技術のすべてが届かない。攻撃を重ねるたびに、手の内をすべて透視されているような最悪の錯覚に陥る。
距離を取ろうとすれば一瞬で肉薄され、槍で牽制すれば懐へ潜り込まれる。
そして何より致命的だったのは、あの異形の指だった。
ほんのわずかな接触。かすっただけの、小さな傷。それだけであるというのに、今や身体に決定的な異変が生じていた。
指先が凍りついたように痺れる。視界がぐにゃりと歪んで揺れる。呼吸が恐ろしく浅くなり、全身の筋肉から力が急速に抜けていく。
毒。
そう確信した瞬間、黒い翼の人物の全身に冷や汗が噴き出した。
あの針のような指には、凶悪な神経毒が仕込まれている。ほんの少し触れただけで、天翼族の強靭な肉体をここまで瞬時に蝕むというのか。
「……っ、は……あ、が……」
息が苦しい。肺が酸素を拒絶している。槍を握る手に、もう指一本分の力すら入らない。
まずい。このままでは、絶対に勝てない。
いや、それ以前の問題だ。ここから生きて帰れるかどうかすら、すでに怪しかった。
朦朧とする頭の片隅に、故郷であるオリオンのまばゆい光景がよぎる。
白い翼を誇らしげに広げ、太陽の光を浴びて空を舞う特権階級の者たち。その一方で、黒い翼を持つ者たちは、同じ空の下にありながら泥にままみれ、影として生きることを強要される。
危険な任務。誰も表立って引き受けたがらない泥をすする仕事。失敗すれば虫ケラのように処刑され、成功しても称賛されることは決してない。
それでも、彼らには命令を果たすしか生きる道がなかった。
今回の任務もそうだ。魔鈴を奪え。それが、天空の王ウラノスから直々に下された絶対の命令だった。
失敗は絶対に許されない。もし失敗すれば、自分だけでなく、後に残された同胞たちにどんな凄惨な運命が待っているか――それを考えるだけで、恐怖で喉が締めつけられた。
黒い翼の人物は、血が出るほど強く歯を食いしばった。
まだだ。まだ、終わらせるわけにはいかない。
動かなくなりつつある腕を気力だけで押さえつけ、槍を構え直す。最後の生命力を振り絞り、刺し違えてでも標的を討とうとした。
そのときだった。
アレフの口から、地を這うような低い声が響いた。
『――誰の命令だ』
黒い翼の人物は、大きく息を呑んだ。
今の声。それは、目の前にいるはずの少年から発せられたとは、到底思えないほど低く、冷徹な響きを帯びていた。
いつものアレフとは、何もかもが違った。声の調子も、言葉の短さも、そして何より、空間そのものを圧殺するかのような凄まじい威圧感が違っていた。
恐怖に身を竦ませながら、黒い翼の人物は目の前の存在を注視した。
アレフは動かなかった。しかし、その姿がゆっくりと、不気味に変貌し始める。
少年の瑞々しかった頬の輪郭が、熱で熱せられた蝋のようにドロドロと崩れていく。肌が生き物のように波打って揺らぎ、骨格そのものがパキパキと音を立てて作り変えられていく。
黒い翼の人物は、恐怖のあまり目を見開いた。
「な……っ」
人の顔が、全く別の異物の顔へと変り果てていく。
髪の色が鮮やかに変色する。体躯が変わり、衣服の色彩さえもが書き換えられていく。
そこに立っていたのは、もうアレフなどという少年ではなかった。
姿を現したのは、一人の黒髪の人物。
その人物は、目の前で極限の動揺を晒す襲撃者を、一切の感情が削ぎ落とされた、底の知れない目で見つめていた。
そして、短く、冷酷に問いかける。
「誰の命令だ」
黒い翼の人物は、全身の震えを止めることができなかった。
目の前にいるのは、先ほどまで刃を交えていた少年とは根本的に異なる、何か圧倒的な化物だ。そう本能が理解した瞬間、魂の底から湧き上がるような恐怖が全身を支配した。
「……っ」
恐怖で喉が引き攣る。すぐにでもここから逃げ出さなければならない。
そう頭では叫んでいるのに、足が石畳に張り付いたように一歩も動かない。毒に侵された身体は、すでに限界を迎えていた。
黒髪の人物が、無音で一歩だけ近づいた。
「答えろ」
それだけだった。
怒鳴り声を上げたわけではない。声を荒らげてもいない。淡々とした静かな宣告。それなのに、黒い翼の人物はその絶対的な威圧に、どうしても逆らうことができなかった。
過酷な差別を受け、底辺に身を置いてきたからこそ、強者からの絶対的な「命令」に従うことには身体が慣れすぎいていた。逆らうことがどれほど凄惨な報いを招くのか、嫌というほど知っていた。
「わ、私は……!」
声が情けなく裏返る。槍を握る手がカタカタと激しく震えた。
「魔鈴を……魔鈴を奪えと、命令されたんだ……!」
黒髪の人物の目が、冷徹にわずかだけ細められた。
「誰に」
黒い翼の人物は、ひっ、と息を詰まらせた。
言いたくない。その絶対強者の名を口にすることさえ、畏れ多かった。だが、目の前に立つこの黒髪の怪物に逆らうことは、それ以上に、死よりも恐ろしかった。
「……ウラノス様に……!」
血を吐き出すかのような震える声が、夜の暗い路地裏に虚しく響き渡った。
黒髪の人物は、しばらく何も言わなかった。ただ、感情の消えた瞳で静かに目を伏せる。
そして。
「……天空の王」
その冷ややかな呟きだけが、誰の救いもない暗闇の中に、静かに深く溶けていった。
*
そのときだった。
頭上から、鋭く風を切る音が響いた。
黒髪の人物が顔を上げるよりも早く、漆黒の影が狭い路地へと猛スピードで降下してくる。
もう一人。
黒い翼を持つ、新たな天翼族の襲撃者だった。
その人物は、地面に降り立つと同時に、毒に侵され追い詰められていた仲間の身体を素早く引き寄せた。
「おい! しっかりしろ!」
呼びかける声には、隠しきれない焦りと動揺が滲んでいた。
抱えられた仲間の顔色は土のように悪く、呼吸も浅く乱れている。槍を握る手にも、もはや指一本動かす力すら残っていなかった。
新たに現れた黒翼の人物は、すぐさま眼前の黒髪の人物へ視線を向けた。
強烈な警戒。
剥き出しの敵意。
そして、大切な仲間を容赦なく追い詰めた相手への、明確な殺意。
次の瞬間、その大きな黒い翼が異様に変貌し始めた。
羽毛がうねるように形を変え、黒い羽根の一枚一枚が鈍い硬質な輝きを帯びていく。滑らかな表面が鱗のように重なり合い、瞬く間に翼全体が、鋭利な鋼鉄の刃の塊へと姿を変えていった。
ギチギチと金属が激しく擦れ合う不気味な音が、夜の路地裏に不穏に響く。
それは、単なる天翼族の翼ではなかった。独自の能力によって生み出されたものなのか、あるいは、その血統にもともと備わっていた未知の力なのか。その正確な正体を知る者は、まだこの場にはいない。
ただ一つ、冷酷な事実として確かなことがあった。その変貌した鋼鉄の黒い翼は、触れるものすべてを切り裂く武器として、十分すぎるほどの凶悪な鋭さを備えていた。
黒翼の人物は、動けない仲間をかばうようにして一歩前へ出た。そして、一切の躊躇なく地面を蹴った。
鋼鉄の刃と化した翼が、容赦なく黒髪の人物の首元を深く狙って迫る。
速い。迷いも隙も一切ない、一撃必殺の振るいだった。
しかし。
黒髪の人物は、微塵も動じなかった。
首筋に迫り来る鋼鉄の刃をただ静かに見つめながら、感情の失せた声で静かに口を開いた。
「待て」
短い声。
しかし、その重苦しい一言が路地裏に響いた瞬間。
黒翼の人物の動きが、目に見えてわずかに鈍った。
鋼鉄の刃は、皮膚を切り裂く首元へ届く寸前、紙一重のところでぴたりと止まった。
いや、黒翼の人物がとっさに止めたのだ。目の前の人物が何者なのか、まだ掴めない。仲間を一方的に圧倒した底知れない実力。アレフとは全く異なる謎の顔。そして、その身体から先ほどから絶え間なく漂う、得体の知れない圧倒的な圧力。迂闊に踏み込めば、こちらが返り討ちに遭う。本能がそう判断したのかもしれない。
黒髪の人物は、喉元に突きつけられた鋼鉄の翼を見つめても、眉一つ動かさなかった。
「そいつを殺すつもりはない」
「……信用できると思うか?」
黒翼の人物が、刃を向けたまま低く鋭く問い返す。
「信用する必要はない」
黒髪の人物は、どこまでも淡々と答えた。
「だが、そのままではそいつは長くもたない」
その言葉に、黒翼の人物の視線が背後の仲間へと向けられた。
確かに、状態は最悪だった。傷口から身体に回った凶悪な神経毒が、着実に、そして急速に命の力を奪っている。このままでは、戦うどころか立っていることすら数分ともたない。
黒髪の人物は、衣服の懐から小さな硝子の容器を静かに取り出した。その中には、怪しくきらめく濁った液体――解毒剤が入っていた。
それを見た黒翼の人物が、怪訝そうに目を細める。
「……何のつもりだ」
「交渉だ」
あまりにも簡潔で、冷徹な返答だった。
黒髪の人物は、手の中の容器を軽く持ち上げてみせた。
「そいつに必要なんだろう?」
黒翼の人物は、すぐには答えなかった。
目の前の相手が、どういう意図でこの毒の解毒剤をはじめから持っているのか。なぜ、敵である自分たちをこうして生かそうとするのか。そもそも、なぜ殺さずにわざわざ交渉のテーブルにつこうとするのか。分からないことだらけだった。
暗殺部隊に身を置く者にとって、敵から差し出された甘い罠のようなものを、簡単に受け取るわけにはいかない。ましてや、目の前の相手は仲間を無残に打ち負かした化物だ。信用できるはずがなかった。
それでも。
腕の中の仲間の呼吸は、明らかに、一段と弱まりつつあった。
黒翼の人物は、血がにじむほど強く唇を噛み締めた。
「……条件は?」
黒髪の人物は、ようやく交渉の余地が生まれたことを確信するように、ほんのわずかに目を細めた。そして、求めた。
「天空の王の動向を、すべて教えろ」
その要求に、黒翼の人物の表情が最悪の形に強張った。
「……ウラノス様の?」
「そうだ」
黒髪の人物は、一切の迷いなく言い切った。
「誰が動いているのか。何を企んでいるのか。何を命じ、何を実行させているのか。お前たちが知っていることを、すべてだ。あれには不明な点が多すぎる」
黒翼の人物は、目の前の底知れない相手をじっと見つめた。
天空の王、ウラノス。天翼族の国オリオンの頂点に君臨し、絶対的な権力で治める存在。白い翼を持つ者たちからは神のように敬われ、黒い翼を持つ者たちに冷酷な命令を下す絶対の王。その一挙手一投足をすべて教えろというのだ。
そんな裏切りが、許されるはずがなかった。もしその密告がウラノスに知られれば、自分たちにどんな凄惨な報いが待っているか、考えるまでもなかった。
「……できるわけがない」
黒翼の人物は、絞り出すように拒絶を口にした。
「我々は暗殺部隊だ。王の任務を遂行するためにのみ動く。ウラノス様の命令に背くことなど……」
「だからこそだ」
黒髪の人物が、その拒絶の言葉を冷たく遮った。
「お前たちには、常に最前線の命令が下される。誰が何を命じられ、どこへ向かい、何を排除しようとしているのか。少なくとも、王宮の何も知らない貴族どもよりは、お前たちのほうが価値ある情報を持っているはずだ」
黒翼の人物は絶句し、黙り込んだ。
非情な指摘だったが、否定することはできなかった。任務を与えられ、汚れ仕事を熟こなす立場だからこそ、知り得る機密はある。だが、それを話すということは、すなわち絶対の神であるウラノスへの完全な反逆を意味する。
黒髪の人物は、解毒剤の容器を差し出したまま、静かに言葉を重ねた。
「その代わり、すべてが終わったら、お前を白い翼にしよう」
――その、あり得ない言葉に。
黒翼の人物は、劇薬を飲まされたかのように息を止めた。
白い翼。
それは、自分たちにとってずっと、あまりにも遠く、手の届かない憧憬の象徴だった。
同じ天翼族という血を惹きながら、ただ生まれ持った翼が黒いという、その理不尽な理由だけで隔てられ、蔑まれてきた。誰も手を汚したがらない危険な任務へ送り出され、都合の悪い罪のすべてを押しつけられる。どれだけ死線を潜っても、どれだけ王の命令を忠実に果たしても、その忌まわしい翼が白く変わることは決してなかった。それが、天翼族の国オリオンで生きるという、逃れられない奴隷の掟だった。
だからこそ、目の前の怪物が平然と口にしたその言葉は、あまりにも現実離れしていた。
「……白い翼に、だと?」
黒髪の人物は、表情を変えずに小さく頷いた。
「そうだ」
「そんなことが……世界を統べる王でもないお前に、できるはずが……」
「できるかどうかは、俺が決める」
響いたのは、どこまでも傲岸で、しかし揺るぎない確信に満ちた淡々とした声だった。
常識で考えれば、狂人の大言壮語にすぎない。だが、同僚を容易く沈めたその異次元の実力と威圧感を目の当たりにした今、それを単なる虚勢だと笑い飛ばすことも、どうしてもできなかった。
黒翼の人物は、手の中で鋭い鋼鉄の翼をわずかに動かした。シャリ、と冷たい金属が擦れ合う音が響く。
視線が、差し出された命の綱である解毒剤へと落ちた。
今まさに毒に侵され、死にかけている同僚の命。
天空の王ウラノスへの、絶対の忠誠。
オリオンという国で生き延びるための、血の掟。
そして――白い翼という、これまでどんなに願っても決して手に入らなかった、禁断の可能性。
どの道を選んでも、何かを永遠に失うことになる。すぐには答えを出せなかった。
黒髪の人物は、決して急かそうとはしなかった。ただ、容器を差し出したまま、彫刻のように微動だにせず、相手の返答を待っていた。
静まり返った路地裏には、遠く離れた王都の大通りから届く、人々の賑やかな声がかすかに、寂しく響いていた。その光に満ちた喧騒とは完全に隔離された、底暗い暗闇の場所で。
息絶え絶えの天翼族と、その仲間、そしてアレフの皮を剥いだ黒髪の怪物の三人が、静止画のように対峙し続ける。
やがて。鋼鉄の翼をもつ黒翼の人物が、絞り出すように低く呟いた。
「条件を……飲もう」
勇者X、一章が終了いたしました!勇者X、この調子で頑張っていくので、また読んでくれたら嬉しいです。感想や、改善案等、日々お待ちしています。閲覧ありがとうございました!




