29話 目覚め
ゆっくりと重い目を開けると、視界に見慣れた、だが今の状況からはあまりにも因縁深い景色が広がっていた。フォラリスの王都をぐるりと冷酷に取り囲む、あの巨大な石造りの壁。破壊された残骸が転がるそのすぐ近くの地面に、僕は人形のように無造作に倒れていたらしかった。
「……本当に、戻ってきた?」
地面に手のひらをつき、泥のひんやりとした感触を確かめながら、ゆっくりと重い身体を起こす。星導の魔術師。あの広大な深層意識の最奥で出会った、あの浮世離れした銀髪の人物。あの人に突きつけられた理不尽な宣告も、天へと続く白い螺旋階段を死に物狂いで上っていった足の痛みも、最後に意識が現実の表面へと浮かび上がっていったあの強烈な浮遊感も、今の僕の脳裏にははっきりとリアルに残っている。そして何より、あの魔術師から教えられた、魔鈴に関する恐るべき能力のことも。
魔鈴の不気味な音色を聞いた者は、精神の防壁を破壊されて意識を深層意識へと強制的に落とされる。そして、魂の抜けた主の身体が眠っている間、その肉体は魔鈴の持ち主の意思によって都合よく支配され、操られる。僕があの無人の村に閉じ込められていたのも、すべてはあの魔具の力のせいだったのだ。
「……」
ようやく、混迷を極めていた状況のピースが、頭の中で少しだけ整理できた気がした。けれど、どうしても分からない致命的な謎が残っている。深層意識の中で起きた精神の戦いはすべて覚えている。でも、その間、現実世界に残されていた僕自身の身体が一体何をしていたのかが、僕には全く分からないのだ。あの空白の時間、僕の身体は一体誰に、何の目的のために操られ、どんな恐ろしい事件に加担させられていたのだろう。どれだけ深く考えても、今の僕には答えなど逆立ちしても出なかった。
それよりも、まずは自分の身体の自由を確かめる方が先だ。
「……もう、誰にも操られてないよな……?」
恐る恐る金髪の隙間から手を見つめ、開き、そして強く閉じてみる。土の地面を踏み締め、立ち上がって、何度か前へと足を踏み出してみる。身体は、僕の意思に従って、僕自身の筋肉の動きで確かに動いた。
「……よかった、本当に」
僕は深く息を吐き、胸を何度も撫で下ろした。ひとまず、僕は僕という本物の存在に戻ることができたらしい。そこで、安堵のあまりふと思い出した。
「……アレフ!」
そうだ、僕は危険を承知であの王都にいるアレフを探しに、ここまで走ってきたんだった。あいつは無事だろうか。もし僕と同じように、あの王都全体に響き渡っていた魔鈴の音を聞いてしまっていたら、今頃僕と同じように深い深層意識の底に落とされて、身動きが取れなくなっているかもしれない。僕は焦る心を突き動かされるようにして、慌てて周囲の瓦礫だらけの光景を見回した。
「アレフー! どこにいるんだよー?」
喉が張り裂けんばかりに、大声を張り上げてみる。けれど、周囲の静寂がそれを吸い込むだけで、確かな返事はない。僕は諦めきれず、少し歩きながら何度も何度もその名前を呼んでみた。
「アレフー!」
「アリベルー!」
遠くの建物の影から、聞き慣れた脳天気な声が微かに響き渡った。僕ははっと顔を上げた。
「……アレフの声、か?」
「アリベル! どこにいるんだよー!」
間違いない。あれは、旅の間ずっと隣で聞いてきたアレフの声そのものだ。
「こっちだよー!」
僕は声のした方角に向かって、もつれる足を必死に動かして走り出した。崩れかけた角を曲がり、崩落した建物の狭い間を潜り抜ける。すると、向こうの白い煙の中からこちらへ向かってがむしゃらに駆けてくる、見慣れた少年の人影が見えた。アレフだった。
「アレフ!」
「アリベル!」
お互いに名前を激しく呼び合い、ようやく目の前で勢いよく足を止める。アレフは僕の元にたどり着くなり、僕の顔の輪郭を、その瞳の奥の光を、何かを警戒するようにじっと凝視した。
「……本物、だよな?」
「え? 何が?」
「いや、なんでもない! こっちの話!」
アレフは慌てたようにぶんぶんと首を振った。
「無事でよかった……本当に、心配したんだからな」
その心底ホッとしたような声音を聞いて、冷え切っていた僕の胸の奥が少しだけ温かくなった。
「うん。僕も、こうしてアレフにまた会えて本当によかった」
そう言って笑いかけたとき、ふとある異変に気づいた。アレフのグッと握られた細い手に、何かが握られている。それは、青白い金属の表面に細かな不気味な模様が刻まれた、手のひらサイズの小さな鈴だった。
「……それ、もしかして魔鈴?」
僕の確信に満ちた問いに、アレフが驚いたように目を向けた。
「え、お前、なんでその名前を知ってるんだ?」
「うん。詳しい理由は、あとでゆっくり話すよ」
星導の魔術師という謎の人物から聞いた世界の真実を、今ここの混乱した戦場で全部話すつもりは到底なかった。それよりも、僕にはどうしても気になることがある。どうしてアレフが、その危険な魔具である魔鈴を平然と手に持っているのだろう。そして、僕が深層意識の暗闇の中にいた間、この現実世界のフォラリスでは、一体どんな大事件が起きていたのだろう。
「アレフ。その鈴、一体どうしたの?」
アレフは手元にある、本物とすり替えたばかりの偽物の魔鈴を見つめた。
「……まあ、色々あったんだよ。本当に、色々とさ」
「色々って?」
「うん。まあ、その辺の話もあとでちゃんと説明するからさ」
そう言って、アレフは何かをごまかすように早く歩き出した。
「今は、まずこれをどうにかしないとな」
僕は釈然としないものを感じながらも、その頼もしい背中のあとを追うようにしてついていった。
*
王都の一角、煙が薄く立ち込める広場。そこには、身につけた重厚な鎧を鈍く光らせた、何人もの王国騎士たちが不自然に集まっていた。僕たちが足音を響かせて近づくと、騎士たちは怯えたように一斉にこちらを向いた。
「……あれ? おかしいな」
どうして王国を守るはずの精鋭の騎士たちが、こんな薄暗い場所に放心状態で溜まっているんだろう。彼らは互いに顔を見合わせ、自分たちが何のためにここにいるのかすら分からないといった様子で、困惑したように周囲の破壊の跡を見回していた。
「……俺たちは、一体ここで何をしていたんだ……?」
騎士の一人が、自分の手を見つめながら青ざめた顔で呟いた。
「確か、俺は放送局の前に集まって……そこからの記憶が……」
「待て。そもそもどうして俺たちは、こんな場所に一堂に集まっているんだ?」
彼ら自身も、直前まで魔鈴によって自我を奪われ、誰かの手駒として戦わされていたという状況を全く理解できていないらしい。そんな彼らの前に、アレフが凛とした態度で一歩前に出た。
「みんな、落ち着いてくれ。まずは、今回の全ての元凶であるこれを確実に封印しよう」
そう言って、手の中に握られていた血から作った偽物の魔鈴を、全員に見えるように高く掲げた。騎士たちの鋭い視線が、一斉にその小さな鈴へと集まる。
「それは……まさか、噂に聞く刑務所の魔鈴か!」
一人の年配の騎士が、驚愕の声を上げた。
「そう。これが今回のフォラリスの反乱事件の引き金になった原因だよ」
アレフはこれまでに見たこともないような真剣な横顔で、静かに言葉を続けた。
「みんな、あの魔鈴の呪わしい音色によって、意識を強制的に深層へ落とされていたんだ。今は何とか解放されたみたいだけど、このまま放っておけば、また同じ悲劇が起きる可能性がある。だから、ここで騎士団の手で、きちんと封印の手続きをとってほしい」
騎士たちは顔を見合わせ、重々しく頷き合った。やがて、隊長らしき一人がアレフの言葉に同意した。
「……分かった。それが真実なら、我々も全面的に協力しよう」
それをきっかけに、生き残った騎士たちは一斉に動きだし、魔鈴の封印のための大掛かりな準備を始めた。僕はその厳かな様子を少し離れた場所から眺めながら、アレフのすぐ隣に並んで立った。
魔鈴。深層意識の暗闇の中で、あの銀髪の魔術師から聞いた説明が、再び頭の中によみがえる。この小さな鈴が、僕の意識を深層へ落とした。あの銀髪の人は誰なんだろう?なぜ僕の深層意識にいたのだろう?考えれば考えるほど、疑問は尽きることがなかった。
「……ねえ、アレフ」
「ん? どうした、アリベル」
「僕の意識が深層意識に沈んでいた間、ここで一体何があったの?」
アレフは、僕の真っ直ぐな視線から逃げるように、ほんの一瞬だけ固く口を閉ざした。
「……だから、色々あったんだよ」
「それ、さっきも全く同じこと聞いたよ」
「だってさあ! 色々は色々だし!」
「いや、全然説明になってないから!」
あまりにもいつも通りの誤魔化し方に、思わず声を大にして突っ込んでしまった。アレフは参ったなと言わんばかりに、困ったようにいつもの八重歯を見せて笑う。
「ちゃんと落ち着いたら話すよ。だからさ、今は目の前のこれを無事に終わらせよう?」
「……あとで絶対に話すって、約束だからね」
「うん、わかった! 男同士の約束!」
その浮かべた笑顔が、僕のよく知るいつも通りのアレフだったから、僕はひとまず、それ以上彼のことを追及するのはやめることにした。
*
騎士たちの手によって偽物の魔鈴の封印の儀式が終わった頃には、世界の端からすっかり日が傾き、辺りは薄暗くなっていた。騎士たちに丁寧に見送られ、僕たちは今日の寝床を確保するために宿へと向かった。
本当に、長い長い道のりだった。王都の混沌の中を歩き、崩壊した壁の近くまで戻り、そこからさらに宿場町へ向かう。さすがに今日はもう拠点であるガルガドスへは戻る体力が残っておらず、フォラリスのすぐ手前にある小さな宿だ。慣れない長距離を歩き疲れた僕は、途中から何度も地面に座り込んで休憩したくなった。
「アレフ、まだ着かないの……? もう足が動かないよ……」
「もうちょっと、あそこの角を曲がったらすぐだから!」
「さっきの角のときも、アレフはそう言った……」
「気のせい気のせい! アリベルの気のせいだよ!」
「絶対、気のせいなんかじゃない……」
そんな他愛のないやり取りを何度も繰り返しながら、僕たちはようやく、お目当ての宿の小さな入り口へとたどり着いた。古びた木製の扉を開けた瞬間、緊張の糸が切れて全身から一気に力が抜ける。
「つっかれたぁ……」
薄暗い部屋に入るなり、僕は靴を脱ぐのももどかしく、そのままベッドに泥のように倒れ込んだ。
「お疲れさん、アリベル」
アレフがそれを見て、呆れたように笑う。
「アレフもね……」
僕は重い目を閉じる。星導の魔術師のこと。深層意識で見た、誰もいない村の景色。現実世界で起きたらしい、僕の知らない大事件。考えたいことや整理したい謎は、まだまだ頭の中に山ほどあった。けれど、肉体の疲労はもう限界を迎えていた。
「……おやすみ、アレフ」
「うん。おやすみ、アリベル」
そのいつもの優しい声を最後に、僕は深い深い眠りの底へと、心地よく沈んでいった。
*
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
部屋の中は、夜の帳が下りて完全な静寂に包まれていた。ベッドに横たわるアリベルの呼吸は、規則正しく穏やかだった。過酷な精神の旅を終えた彼は、深い、深い眠りについている。
アレフはそんなアリベルのベッドのすぐそばに静かに立ち、その無防備な寝顔を暗闇の中でじっと見下ろしていた。しばらくの間、彼は何も言わず、表情さえも闇に隠して佇んでいた。やがて、ゆっくりと視線を自分の手元へと落とす。
「…………」
衣服の内側、胸元に隠された本物の魔鈴の冷たい質量を確かめるように、何かを深く考えるように細い目を伏せたあと、アレフは音もなく扉へと向かった。
長い旅で鍛え上げられた身のこなしで、床板を鳴らすことすらなく慎重に金属の取っ手を回す。そして、眠る大切な相棒を部屋に一人残したまま、彼は静かに部屋を出た。
カチャリ。
不穏な余韻を残して、冷たい扉が閉まった。




