26話 星導の魔術師
アリベルは、天高く伸びる螺旋階段をただひたすらに登り続けていた。一段、また一段。気の遠くなるような足取りで。どれほど見上げても、どれほど足を動かしても、白く眩い階段の終わりは一向に見えてこない。どこまでも果てしなく続く段差を、彼は太ももの痛みに耐えながら、ただひたすらに上へと登っていく。そして、上へ進めば進むほど、現実世界から染み渡ってくるあの不吉な音が、鼓膜を引き裂かんばかりに大きくなっていた。
チリン。
チリン。
チリン。
あの禍々しい魔鈴の音だ。最初は、遠い空の向こうでかすかに不気味に響いているだけだった。しかし、今では脳髄に直接響き渡るようで、両手で耳を塞ぎたくなるほどに巨大な音響と化している。
「っ……!」
ふいに、視界が激しく揺れた。いや、揺れたのは踏み締めている階段ではない。アリベルの頭の中、すなわち彼の自我そのものだ。突然、天地の感覚がぐらりと狂うように傾いた。
「うわっ!」
アリベルは慌てて、手すりの存在しない細い階段に手をつこうとしたが、そこには掴めるものなど何もない。冷や汗を流しながらなんとか足を踏ん張り、虚無の底への転落を間一髪で免れる。
チリン。
チリン。
冷酷な音が響くたびに、魂の根腐れを起こすように意識が深い闇へと引きずり込まれそうになる。今ここでほんの少しでも目を閉じれば、そのまま心地よい睡眠の中に永遠に沈んでしまいそうだった。一度でも足を止めてしまえば、もう二度と自分の意思で動けなくなるという確信に似た予感があった。それでも。
「……まだ、だ。こんなところで、終われるかよ……!」
アリベルは血が滲むほどに奥歯をぎゅっと食いしばった。ここで意識を手放してしまったら、自分の肉体がどうなってしまうのか分かったものではない。現実世界では、大切な相棒アレフのいるあの王都で、自分の身体が誰かに都合よく操られているのだ。一刻も早く、あの肉体を取り戻さなければならない。
「絶対……戻ってやる……!」
一歩。もう一歩。何度も膝が折れて転びそうになりながら、それでも前を向く意識だけは決して手放さず、アリベルは執念で登り続けた。
やがて。
「……あっ」
霞む視界の先、ついに階段の終わりがぼんやりと見えた。最後の一段を執念で踏み越え、アリベルはその場に膝をつくようにして立ち止まる。そして、荒い息を吐きながら顔を上げた。
「……え?」
そこに広がっていたのは、驚くべきことに異様な「天井」だった。下から見上げていたときは、どこまでも広がる青い空だと思い込んでいたあの景色。果てしなく世界の果てまで広がっていると思っていたあの開放的な空間。それは本物の空などではなく、精巧に描かれた偽物の天井だったのだ。そして、その騙し絵のような天井の中央には、何かに穿たれたような巨大な穴が開いていた。その穴の向こう側には、さらに上へと続く未知の階段が不気味に伸びている。
「……まだ、先があるのかよ」
あまりの仕打ちに、思わず呆れ果てた声が喉の奥から漏れた。ここまで命がけで登ってきたというのに、まだこの精神世界の試練は終わりではないらしい。しかし、躊躇している時間は一秒たりともなかった。アリベルは激しく乱れた息を何とか整え、謎の穴へと続く階段に再び足をかけた。
* * *
巨大な穴を抜けた先の世界は、先ほどまでの偽物の村の景色とはまるで違っていた。空もない。大地もない。見慣れた村の建物も、続く道も何もない。ただ、どこまでも冷たく広がる無限の黒い空間。上下左右の感覚さえも完全に曖昧になり、自分が浮いているのか立っているのかすら分からなくなるような、底知れない果てしない闇の世界だった。
「…………」
アリベルは警戒を露わにしながら、じっと周囲の闇を見渡した。すると、少し離れた虚無の空間の中に、ぽつんと佇む不自然な人影があった。月の光を宿したような美しい銀髪。少し長めの髪。そして、妖しく輝くエメラルド色の洗練された髪飾り。見間違えるはずもなかった。
「……お前!」
アリベルは再会の声を上げる。銀髪の人物は、こちらの足音に気づくと、相変わらず掴みどころのない様子で穏やかに微笑んだ。
「おや。思ったよりも随分と早く、ここまで来たんだね」
「もうここまで来た、じゃねえよ……! あんなふざけた階段を、俺がどれだけ必死になって登ったと思ってるんだ!」
「でも、途中で諦めずにちゃんと来られたじゃないか」
「そういう問題じゃ――」
激しい口調で言い返しかけて、アリベルはふと口を閉じた。今はこいつに文句を言って憂さ晴らしをしに来たわけではない。この世界の出口について、確かめなければならない重大なことがある。
「……それで。ここは一体何なんだ? 俺は現実に戻れるのか?」
銀髪の人物は、周囲の広大な黒い空間を慈しむように見渡した。
「君の意識は、もうすぐ完全に現実へと浮上するよ。ここまで深い意識を突破して来られたなら、あとは勝手に現実の肉体へ戻るだけさ」
「本当か!?」
アリベルの強張っていた表情が、一気に明るくなった。ようやく、あの懐かしい世界に戻れる。誰かに操られている自分の身体を、この手に取り戻せる。その確かな言葉を聞いただけで、張り詰めていた彼の気持ちが少しだけ緩んだ。
「……よかった」
思わず、安堵の本音が小さく漏れた。銀髪の人物は、その様子を見て満足そうに深く頷いた。
「じゃあ、役目は終わったし、僕はこれで失礼するよ」
「は?」
言葉と同時に、相手の美しい身体の輪郭が、煙のように少しずつ薄れていく。
「お、おい! ちょっと待て!」
アリベルは慌てて制止の声をかけた。聞きたいことは、まだ山のように残っているのだ。魔鈴の正体のこと。操られている自分の身体のこと。そして、何よりも――。
「お前、一体誰なんだよ!」
アリベルの魂からの問いかけに、消えかけていた銀髪の人物の動きがぴたりと止まった。最初の村の幻影で出会ったときから、ずっと胸の奥で気にかかっていた。どうして他人の精神世界の最奥に平然といるのか。どうして、あれほど魔具の事情に詳しく知っているのか。どうして、こちらがこれほど困っているのに、終始他人事のように不敵に振る舞えるのか。去り際に、名前くらいは教えてくれてもいいはずだ。アリベルは息を呑み、相手の答えを固唾を呑んで待った。
銀髪の人物は、少しだけ切れ上がった目を細めた。そして、吸い込まれそうな声でゆっくりと口を開く。
「――星導の魔術師、とでも名乗っておこうかな」
「……え?」
それは、明確な個人の名前ではなかった。古の肩書きなのか。偉大な称号なのか。それとも、人知を超えた別の何かなのか。
驚いて聞き返そうとしたときには、すでにすべてが遅かった。銀髪の人物の姿は、黒い空間の闇に溶けるようにして完全に消えていく。
「おい! それ、一体どういう意味だよ!」
闇に向かって叫ぶが、二度と返事はなかった。最後に残されたのは、エメラルド色の髪飾りが見せたかすかな残光の輝き。それすらも、やがて冷たい闇の彼方へと寂しげに消えてしまった。
アリベルは、広大な虚無の中に一人残された空間で、ぽつんと立ち尽くした。
「……星導の魔術師、か」
その響きだけが、いつまでも頭の中に重く残っていた。正体も、目的も、味方なのか敵なのかすらも分からない。ただひとつ確かなのは、あの人物は自分のことを最初からすべて知っていたということ。そして、世界の真実を知っているにもかかわらず、今の自分にはすべてを語ろうとはしなかったことだ。
「……絶対、またいつかどこかで会うことになるんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、確信を込めてぽつりと呟く。
次の瞬間、立っていた黒い空間が猛烈なスピードで遠ざかっていくような、強烈な浮遊感に襲われた。沈んでいた意識が、一気に現実の表面へと浮かび上がる。引き戻される。現実のフォラリスへ。
アリベルは、最後にもう一度だけ、銀髪の人物が消え去った虚無の場所を振り返った。けれど、そこにはもう、ただ深い闇があるだけだった。




