25話 万年筆
銀髪の人物は、意識を浮上させてねという旨の内容を一方的に言い残すと、陽炎のようにふっとその姿を完全に消し去ってしまった。
「……は?」
アリベルは、顎が外れそうなほどぽかんと口を開けたまま、誰もいない空間に立ち尽くした。
「いや、ちょっと待って! まだ聞きたいことが山ほど――!」
虚しく叫んでみても、返ってくる声はない。つい先ほどまで確かに目の前に立って人を喰ったような笑みを浮かべていた人物は、最初からこの世に存在していなかったかのように綺麗に消えてしまっていた。
「…………」
肌を刺すような、重苦しい静寂。どうやら、本当にこのだだっ広い偽物の村に一人きりで取り残されてしまったらしい。
「……あいつ、絶対に僕の反応を見て楽しんでただろ」
アリベルは大きく、やりきれないため息をついた。今さら姿を消した相手に向かって文句を言ったところで、無意味なのは分かっている。それに、いつまでもここで絶望して立ち止まっているわけにもいかなかった。現実世界では、自分の肉体がどこの誰とも分からない不気味な存在に操られているのだ。一刻も早く元の世界へ戻らなければ、アレフたちの身に何が起きるか分かったものではない。
「よし……とりあえず、思いつく限りのことを試してみるか」
まず彼が考えたのは、ここが自分自身の精神世界だという銀髪の男の言葉だった。精神世界というくらいなのだから、要するに夢の中と似たようなものではないだろうか。普通の夢の中なら、強く願えば空を自在に飛んだり、瞬時に別の場所へ移動したり、思い描いた通りの道具が目の前に現れたりすることだってあるはずだ。ならば、自分の意識の底であるこの場所でも、同じことができるかもしれない。
「……翼よ生えろ!」
アリベルは、気恥ずかしさを押し殺して勢いよく叫んだ。
…………。何の音もしない。背中に違和感すら起きない。当然のように、何も起きなかった。
「……じゃあ、目の前の壁! 粉々に壊れろ!」
全身に力を込めて念じてみたが、やはり風景には何の変化も起きない。
「巨大な扉! 現実への出口! 何でもいいから目の前に出てこい!」
静まり返った無人の村に、少年の虚しい叫び声だけが何度も木霊した。
「…………」
アリベルはそっと顔を覆い、きつく目を閉じた。恥ずかしい。誰も見ていないはずの世界なのに、自分の行動があまりにも間抜けに思えて妙に恥ずかしかった。
「……次だ、次! 落ち込んでる暇はない!」
すぐに気を取り直して、今度は自分の足で歩いて脱出を試みることにした。村の外へと繋がる境界線を越え、どこまでも続く道を真っ直ぐに進んでいく。世界の果てまで歩いていけば、何か異変や現実へ戻るためのヒントがあるかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、彼はひたすら無心に足を動かし続けた。しかし。
「……なんでだよ、嘘だろ」
しばらく進んだ道の先にあったのは、最悪の行き止まりだった。目の前には、どこまでも続いているように見えた道を無慈悲に遮る、色も形もない完全な虚無の空間が広がっている。慌てて踵を返し、別のルートから村の外を目指して試してみても、結局のところ結果はすべて同じだった。どこをどう進んでも、この村の外へと出ることができないのだ。まるで、目に見えない強固な鳥籠の壁に四方を囲まれているかのようだった。
「…………はぁ」
アリベルはがっくりと肩を落とした。叫んだ。念じた。歩いた。思いつく限りの足掻きはすべて試した。けれど、そのどれもが冷酷に跳ね返され、すべて無駄に終わってしまった。そもそも、どうすれば沈んだ意識が上へと浮上するのか、その具体的な方法すら今の彼には全く分からないのだ。
「……もう、どうすりゃいいんだよ」
完全に行き詰まったアリベルは、絶望の中で途方に暮れながら、ふと、あるひとつの場所を思い出した。アレフの家。この奇妙な村の中で、アレフと初めて出会ったあの運命の場所だ。今はほかに行くあても、縋れるアイデアもない。あそこなら、何か自分を導いてくれる手がかりが見つかるかもしれない。そう一筋の望みをかけたアリベルは、再び無人の村の中へと戻り、慣れ親しんだアレフの家へと足を向けた。
* * *
家の中は、不気味なほどひっそりと静まり返っていた。以前に旅の途中で訪れたときの間取りや家具の配置と、何一つとして変わっていない。アリベルは埃一つない部屋の隅々を見渡しながら、現実と異なる部分や、何か手がかりになるような変わったものが落ちていないか必死に探した。そして、居間に置かれた古びた机の上で、不意に視線がピタリと止まった。
「……ん?」
木製の机の上には、ぽつんと一本の万年筆が転がっていた。それはアリベルのこれまでの記憶には存在しない、まったく見覚えのないものだった。少なくとも、旅の途中でアレフがこんな上等な筆記用具を使っていた記憶はない。……いや。本当に、そうだろうか。一瞬、心臓がトクンと不自然に跳ねるような、言葉にできない奇妙な感覚が胸の奥をよぎった。けれど、その胸のざわつきの正体が何なのかを深く考えるより前に、アリベルの手は吸い寄せられるようにして万年筆へ伸びていた。
指先に触れる、ひんやりとした硬い金属の感触。掌の中に収め、目の前に掲げて眺めてみる。特別な豪華な装飾があるわけでもない、どこにでもあるごく普通の、どこかクラシカルな万年筆にしか見えなかった。
「……何だ、これ。どうしてこんなところに」
当然、その疑問に答えてくれる者は誰もいない。アリベルは万年筆を不思議そうに握りしめたまま、再び机の上に目を向けた。その万年筆のすぐそばには、白くさらさらとした紙が一枚、誘うように置かれていた。
「…………」
ふと、頭の中に電撃のような閃きが思いついた。どうせ、ほかに試せる手段は何一つ残されていないのだ。アリベルは覚悟を決め、白い紙を自分の手元へと引き寄せると、迷いを振り切るようにして万年筆のペン先を走らせた。
彼が紙の上に描き始めたのは、上へと昇るための「階段」だった。一段、また一段。地を這うような場所から、遥かなる高みへと伸びていく、長い長い階段の線。最初は何となく、現実逃避のようにお調子半分で描いていただけだった。しかし、黒いインクが紙に染み込んで描き進めるうちに、アリベルの手はまるで何かに取り憑かれたかのように止まらなくなった。もっと高く。もっと遥か上へ。世界の天井すらも突き抜けて、どこまでも続いていくように。
そして、溢れる衝動のままに最後の一段を描き終えた、まさにその瞬間だった。
――ゴゴゴゴゴゴッ!!
家の外から、鼓膜を激しく揺らす地鳴りのような巨大な地響きが轟いた。
「うわっ!?」
アリベルはあまりの衝撃に思わず肩を大きく跳ねさせた。何が起きた? まさか、今の大音響は――。彼は手の中の万年筆を落とさないよう強く握りしめたまま、慌ててアレフの家を飛び出した。そして、眩い光が差し込む空を大きく見上げた。
「…………は?」
驚愕のあまり、声が出なかった。村の外れの虚無だったはずの空間から、天を突くほどの巨大な建造物が天高く伸びていたのだ。それは、果てしなく長く美しい、純白の螺旋階段。それは重力を無視して空を縦横に貫くように、上へ、上へと幾重にも続いていた。どこまで高く続いているのか、地上から見上げただけではその全貌を捉えることすらできない。ただ、その階段の最果ては白く立ち込める雲を軽々と突き抜け、さらにその遥か向こうの宇宙の深淵へと伸びていた。まるで、世界の創造主が住まう天そのものへと続いているかのように。
「……これ、俺が……紙に描いたから、なのか……?」
アリベルは、冷や汗の滲む手の中の万年筆をじっと見つめた。ただ紙に描いたはずの、あの小さな階段の線が、この世界を塗り替えて本物の道になったのだ。いや、ここは現実ではない。あくまで自分の深層意識の中なのだ。それでも、その巨大な螺旋階段は、確かに圧倒的な質量を持って目の前に存在している。
「…………」
アリベルは、もう一度、天まで届く白い螺旋階段を厳かに見上げた。さっきまでは、何をどう叫んでも念じてもすべてダメだった。どこにも進めず、鳥籠の中に閉じ込められていた。それなのに、この謎の万年筆を使って紙に線を走らせた途端、世界が応じるようにして目の前に新たなる道が現れたのだ。これがただの偶然なのか。それとも、この手の中にある万年筆には、世界そのものを書き換えるような何か特別な力が秘められているのか。
今の彼には、分からないことだらけだった。けれど、混迷を極める状況の中で、今はひとつだけ揺るぎない確かな事実がある。上へと進むための、現実へ戻るための確かな道ができたのだ。
アリベルは手の中の万年筆を強く握り直し、螺旋階段の記念すべき最初の一段へと、力強く足を向けた。
「……行くしかないよね、待っててよアレフ」
その遥かなる道の先に何が待っているのか、どんな真実が隠されているのかもまだ知らないまま。アリベルは、天へと果てしなく続く階段を見上げて、一歩を踏み出すのだった。




