21話 天国
アリベルは、目の前のアレフを見つめ続けていた。向こうは相変わらず、機械的なほど完璧な笑顔を浮かべたまま、こちらに向かって楽しげに手を振っている。けれど、どうしてもその手に振り返す気にはなれなかった。直感が、生存本能が、あれは自分の知る大切な相棒ではないと拒絶している。何かが決定的に、狂っている。その言葉にできない薄気味悪い感覚だけが、いつまでも消えずに胸の奥底に残り続けていた。どれほどの間、そうして張り詰めた対峙を続けていただろうか。不意に、アレフの顔からすべての表情が完全に消え去った。
「……え?」
さっきまで満面に湛えられていたはずの笑顔から、すっと一切の生気が抜け落ちる。それはまるで、操り糸を突然切られた木人形のようだった。次の瞬間、その立ち姿が陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ、霧のように薄れていった。輪郭がぼやけ、色彩を失った身体が背景に溶け込むように透けていき、やがて塵一つ残さず跡形もなく消え失せてしまう。
「なっ……!」
アリベルが驚愕に目を見開いた、まさにその直後だった。
「やあ」
鼓膜を揺らしたのは、すぐ目の前からの不意な声だった。
いったいいつの間にそこに現れたのか。気づけばそこには、アリベルのまったく見知らぬ奇妙な人物が佇んでいた。少し長めの、月の光を浴びたような美しい銀髪。その流れるような髪には、深い森の奥を思わせるエメラルド色の鮮やかな髪飾りがひとつだけ静かに添えられている。見たことのない整った顔立ち。聞いたことのないどこか涼しげな声。少なくとも、アリベルの短い旅の記憶をどれだけ手繰り寄せても、該当する人物は誰一人として存在しなかった。その謎めいた人物は、切れ上がった瞳でじっとアリベルの出方を見つめていた。そして、まるで今日のお天気の天気でも語るかのように、何でもない自然さで静かに口を開く。
「ここは天国さ。君はもう死んだんだ」
「…………え?」
一瞬、自分の耳が何を捉えたのか、言葉の意味が理解できなかった。天国。死んだ。突きつけられたあまりにも唐突で理不尽な現実の言葉が、脳内でゆっくりと残酷な形を成していく。――自分が、もう死んでしまった?
「……うそ、だろ」
かすかに絞り出した声が、小刻みに震えた。そんなはずはない、認めたくなかった。だって、自分はついさっきまであの混乱のフォラリスの王都にいたはずなのだ。アレフの無事を探して、崩れた壁の隙間から命からがら中へ入り、そしてあの街全体を切り裂くような奇妙なベルの音を聞いて――。そこから先の記憶が、霧がかかったようにどうしても思い出せない。あそこで何が起きたというのか。自分は一体どうなってしまったのか。本当に、自分という存在はここで終わりを迎えて、死んでしまったのだろうか。考えれば考えるほど、立っている地面が音を立てて崩落していくような凄まじい喪失感に襲われた。
目の前が真っ暗になっていく。もう、あの懐かしい場所には帰れない。もう、誰にも会うことはできない。自分を我が子のように愛し育ててくれた母様にも、あの最初の村で温かく迎え入れてくれた父様にも、いつも傍にいてくれた大切なアクアにも。そして、今もどこかで戦っているはずのアレフにさえも。胸の奥底に、底無しのどす黒い絶望感がじわじわと広がっていった。
なのに。その身を引き裂くような絶望の奥底で、何かが小さく引っかかった。この全てを失うような感覚を、自分はどこか知っているような気がする。今世で初めて経験したはずの終わりであるはずなのに。どうして、こんなにも魂の奥が覚えているように重苦しいのか――。
「…………」
アリベルはそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。そんな絶望に打ちひしがれるアリベルの様子を観察していた目の前の人物は、困惑する少年を見て少しだけ面白そうに、笑みを浮かべて目を細めた。
「……冗談だよ」
「…………は?」
あまりの落差に、アリベルの思考が完全に停止した。
「じょ、冗談……?」
「うん」
銀髪の人物は、酷く人を小馬鹿にしたように、悪びれる様子もなく飄々と頷いた。
「いやあ、思ったより真に受けるんだね」
「…………」
アリベルは怒りで強張る身体を震わせながら、相手の掴みどころのない顔をまじまじと見つめた。さっきまで、自分は本当に死んだのだと絶望していたのだ。二度と帰れないのだと。大切な人たちに、もう誰にも会えないのだと心を引き裂かれていた。それなのに。
「……は?」
もう一度、腹の底から怒りの混じった声が漏れた。こいつは、人の命や感情を何だと思っている。ふざけているのか。頭の中を埋め尽くしていた冷たい絶望が、今度はドス黒く熱い別の感情へと急速に形を変えていく。激しい怒り。理不尽への困惑。そして、目の前に立つ正体不明の人物への強烈な不信感。
「……お前なあ!」
堪りかねて、思わず激昂の声を荒らげかけた、まさにそのとき。アリベルはふと、熱くなりかけた脳の片隅である重大な事実に気づいた。そもそも、この白昼夢のような場所は一体どこなのだろう。どうしてアレフの幻影が現れては消えたのか。そして、このふざけた嘘をのたまう銀髪の人物は、一体何者なのだろうか。疑問は、最初から何ひとつとして解決していないのだ。
「……ここ、どこなんだよ」
アリベルが押し殺した声で睨みつけながら問いかけると、銀髪の人物は待っていましたとばかりに楽しそうに唇を歪めて笑った。
「そうだね。まずは、そこから説明しようか」
まるで、アリベルがそう問いかけてくることを最初からすべて見越していたかのように。その人物は、妖しい光を宿した瞳で、アリベルのことを静かに見つめていた。




