20話 村
気がつくと、そこは見覚えのある村だった。アレフと初めて出会った場所でもあるあの村。見慣れた木造の家々。かつて歩いた静かな道。どこまでも高く、青く澄み渡る空。景色はあの頃のままで、何一つ変わっていないはずだった。けれど、周囲に漂う空気には説明のつかない奇妙な何かがおかしかった。
「……誰も、いない?」
村を見渡しても、人影はひとつもなかった。店先にも、家の前にも、よく子供たちが遊んでいた道の向こうにも。普段なら誰かしらの息遣いや生活の音がそこかしこにあるはずなのに、まるで村そのものから人間という存在だけが綺麗に消え失せてしまったかのようだった。耳に聞こえてくるのは、静寂を乱す自分の頼りない足音だけ。けれど不思議なことに、胸を支配するのは恐怖ではなかった。むしろ、長い夢から覚めた直後のような、頭の奥底がすっきりと澄み渡った奇妙な感覚がそこにはあった。何かを忘れていた気がする。けれど、それが何なのかはどれだけ思い出そうとしても分からない。胸の奥に引っかかるざらついたものを確かめようとするたび、煙のように指の間をすり抜けて意識の彼方へと遠ざかっていく。その一方で、周囲の馴染み深い景色には、どうしても説明のつかない強烈な違和感があった。何が違うのか。どこがおかしいのか。どれだけ考えても明確な答えは出ない。それなのに、冷たい指でなぞられたように心の奥がぞくりと震えた。
「……なんなんだよ、これ」
アリベルは小さく呟き、逃げ出したい衝動を抑えながら村の中をゆっくりと歩き始めた。少し進んだところで、陽だまりの残る道の先に、ぽつんと佇む人影を見つけた。
「あ……」
それは、記憶に深く刻まれた見覚えのある後ろ姿だった。特徴的な明るい髪。旅の間ずっと見慣れた服装。見間違えるはずがない。
「アレフ!」
声をかけようとして、アリベルは駆け出しかけた。会いたかった。あのフォラリスの激しい騒動の中で、アレフが最終的にどうなったのかが分からなかった。無事なのか、それとも傷ついているのか、どこにいるのか、そればかりがずっと胸に重く気にかかっていたのだ。だから、姿を見つけた今、すぐにでも駆け寄って無事を喜び、話がしたかった。――なのに。一歩力強く踏み出したはずの足が、まるで見えない鎖に繋がれたようにぴたりと止まった。
「…………」
目の前に立ち尽くしているのは、どう客観的に見てもアレフだった。愛嬌のある後ろ姿も、少し癖のある立ち方も、アリベルのよく知っているアレフそのもの。それなのに。胸の奥で、頭が割れそうになるほどの冷徹な警鐘がけたたましく鳴り響いていた。違う。何かが、決定的に違う。けれど、その直感を裏付けるような物的な証拠はどこにもなかった。姿の輪郭がおかしいわけでもない。まったく見知らぬ誰かに見えるわけでもない。ただ、アリベルの魂そのものが鋭く告げていた。
――あいつは、誰だ?
「……アレフ?」
今度は、喉の奥から声にならないほど掠れた声で小さく呟いた。目の前の人物は、まだこちらの存在に気づいていない。アリベルは一歩も動けなかった。声をかけていいのか。これ以上近づいていいのか。そんな当たり前のことすら、今の彼には分からなくなっていた。
やがて、アリベルの視線に導かれるようにして、アレフがゆっくりとこちらを振り向いた。
「あっ!」
アレフはいつものように、ぱっと太陽のような明るい表情を浮かべる。そして、親しげにこちらに向かって大きく手を振った。まるで、数日ぶりに旅の途中で友人と再会したかのように。そこには何の疑いもなく。何のためらいもなかった。そのあまりにも自然な仕草は、アリベルの知っているアレフと何ひとつ変わらなかった。
「…………」
アリベルは、その完璧な笑顔の姿をじっと見つめた。こちらもいつものように、気安く手を振り返すべきなのだろうか。いつもなら、何も考えることなく笑ってそうしていたはずだ。けれど今は、冷たく強張った腕を動かすことさえ強くためらわれた。目の前で無邪気に微笑んでいる存在は、本当に自分の探していたアレフなのだろうか。それとも――。その正体を深く考えようとした瞬間、頭の奥が激しい眩暈のようにかすかに揺れた。答えは闇の中に消えて出ない。ただ、アレフは満面の笑顔のまま、こちらに向かってずっと手を振り続けていた。アリベルは、その優しく動く手を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。




