15話 異変
アリベルの初めての飲食店での仕事は、想像していた以上に過酷だった。
注文を正確に聞き取り、出来立ての温かい料理を素早く運び、空いた皿をテキパキと片づける。
次から次へとやってくる客の波に対応していると、時間はあっという間に過ぎていった。
「アリベル、そっちのテーブルの片づけお願い!」
「は、はい!」
「あと、こっちの空いたお皿も下げちゃっていいよ!」
「分かった、すぐ行く!」
ミルケにコツを教えてもらいながら、アリベルは必死に体を動かした。
慣れない立ち仕事と目まぐるしい作業に戸惑うこともあったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなるような楽しさがあった。
自分が運んだ料理を口にして「おいしい」と笑顔を浮かべる客たち。
目が回るほど忙しい中でも、店員同士で声を掛け合い、息を合わせて仕事を進めていく一体感。
それは、ずっと孤独に森で暮らしていた頃には知る由もなかった、人々の営みの温かさだった。
やがてお昼のピークが過ぎ、店内に穏やかな時間が戻ってきた。
「お疲れさま、アリベル! 初日なのにすっごくよく頑張ったね!」
「ありがとう、ミルケ! 大変だったけど、声を掛け合って働くのって、すごく楽しかったよ」
「ふふっ、それならよかった! 最初はみんな足がパンパンになるからね!」
ひと仕事を終えた二人は、店内の片づけをしながら世間話に花を咲かせた。
ミルケからこの街の隠れた名物について教えてもらったり、今日来た少し変わった客の話をしたり。
他愛のない何気ない会話だったが、アリベルにとってはどれもが新鮮で、愛おしい時間だった。
しばらくして、すっかり日が暮れた頃にアリベルは店を後にした。
「それじゃあ、また明日ね、ミルケ!」
「うん! また明日! しっかり休むんだよ!」
お互いに手を振り合って別れ、アリベルは夜風が心地いい路地を通って宿へと帰った。
静かに部屋の扉を開けると、同室のアレフはすでにベッドの上で泥のように眠りについていた。
「……ふふ、もう寝てるんだ」
どうやらアレフも、ギルドでの初めての仕事で精一杯体を動かして疲れたらしい。
幼い相棒を起こさないように、アリベルは極力音を立てずにそっと扉を閉めた。
自分自身も心地よい疲労感に包まれていたため、荷物を整理し、手早く寝る準備を済ませる。
「……今日は、本当に良い一日だったな」
薄暗い天井に向けて小さく呟き、アリベルは柔らかいベッドに潜り込んだ。
明日もまた、あの温かいお店での仕事が待っている。
そんなささやかな楽しみに胸を膨らませながら、アリベルは深い眠りへと落ちていった。
*
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ましたアリベルは、新調した旅衣に身を包んで飲食店へと向かった。
店に着くと、朝の澄んだ空気の中で、すでに何人かの早起きな客が朝食のスープを囲んでいた。
「おはようございます!」
「おはよう、アリベル! 今日もバシバシ頼むね!」
ミルケのハツラツとした挨拶に笑顔を返し、アリベルはさっそくエプロンを締めて仕事に取りかかった。
昨日よりは少しだけ器用に料理を運び、注文を聞き、客の空いた食器を片づけていく。
まだまだ覚えることは山積みだが、昨日よりも確実に足取りは軽かった。
そんな中、アリベルは店の一角から聞こえてきた、低いひそひそ話にふと足を止めた。
「なあ、聞いたか? 故郷のフォラリス王国で、また何やら不穏な事件が起きてるらしいぞ」
常連客らしきガタイのいい男が、向かいに座る年配の男へ深刻な顔で話しかけていた。
「またか。アズライト刑務所の脱走劇の次は、一体何があったんだ?」
「大量行方不明事件だとよ。しかも不可解なことに、いなくなってるのは囚人や犯罪者じゃねえ。普通に街で暮らしていた、一般の民たちらしい」
「一般人が足跡もなく消えたってのか? そりゃあ、ただ事じゃねえな……」
ガタ、とアリベルの手がわずかに震えた。
フォラリス――その忌まわしい名前を聞けば、どうしても自分が冤罪で捕らえられていたアズライト刑務所の出来事が脳裏に蘇る。
あの嵐の夜に逃げ出した囚人たちの中には、今も行方が分からない者が大勢いるという。
そして、あの場所からは強力な「魔具」まで消失していたはずだ。
普通に暮らしていた一般人の、大量の失踪。
この異常な事件は、あの刑務所で起きた出来事と、どこかで繋がっているのだろうか。
「話はそれだけじゃねえんだ。どうやらフォラリスの近衛兵ども、自分たちだけじゃ完全に手に負えなくなったらしいぜ」
「まさか、あのプライドの高い王国が……?」
「ああ。この城塞都市ガルガドスに、公式に調査の協力を求めてるって噂だ」
「おいおい、あのフォラリスが、反逆して独立したこの街に頭を下げてきたってのか?」
二人の客は、信じられないといった様子で顔を見合わせた。
男はスープを一口すすると、さらに声を潜めて続けた。
「よっぽどの異常事態なんだろうよ。何しろ、何の予兆もなく人間が大勢消えてるんだ。現場には争った形跡もねえらしくて、原因も分からねえんじゃ、いくら国の兵隊でも手の打ちようがねえだろうからな」
「いったい、何が起きてるんだか。薄気味悪いねえ……」
二人はスープの湯気の向こうで、不安そうに顔を曇らせた。
アリベルは、持っていたトレイの端を指が白くなるほどぎゅっと握りしめた。
一般人の大量行方不明事件。そして、因縁の深いガルガドスへの協力要請。
かつて自分がいた国で、一体どれほどおぞましい何かが動き出しているのだろう。
あの脱走事件を引き起こした誰かの陰謀なのか、それとも、世界を揺るがす全く別の「何か」が胎動しているのか。
今のアリベルには、それを知る術はなかった。
「アリベル? ……アリベルってば、どうしたの?」
ハッと我に返ると、ミルケがトレイを覗き込むようにして不思議そうにこちらを見つめていた。
「あっ、ご、ごめん! ちょっと、ぼーっと考え事をしてた」
「もう、そんなにぼんやりしてたら大事なお皿を落としちゃうよ? ほら、あっちのテーブルにお水持って行ってあげて!」
「うん、すぐ行くね! ごめん!」
アリベルは慌てて笑顔を作り、賑やかな仕事の渦へと戻った。
けれど、先ほど男たちが交わしていた不穏な会話は、霧のように胸の奥に居座り、どうしても頭から離れなかった。
せっかく王国の魔の手から逃れてガルガドスまでやってきたのに、フォラリスでは新たな怪事件が起きている。
しかもその事件は、自分が宿命を背負わされるきっかけとなった、あの夜の脱走事件と見えない糸で繋がっているような予感がしてならなかった。
――フォラリスで、いったい何が始まろうとしているんだろう?
平和な活気に満ちた飲食店の中で、アリベルの胸には、拭い去れない言いようのない不安の影が静かに広がっていた。




