一話 泣き虫皇子と花咲じい
狭野――後に磐余彦と名乗り、橿原の地で初代天皇として即位することになる一人の皇子がいた。後世、人々は彼を神武天皇と呼ぶ。だが……。
西暦二百三十五年。
筑紫の日向の地で、一人の御子が山の中へ逃げ込み、ひとり泣いていた。
その姿に気づいたのは、山を歩いていた五十猛である。五十猛はすでに七十歳を超えていた。かつては戦場で名を馳せた武人だったが、今では戦を捨て、各地の山々に木を植えながら暮らしている。
五十猛は、泣いている子供の身なりから、ただの村の子ではなく高い身分の御子だと察した。それでも特別扱いすることなく、驚かせないようゆっくりと近づいて声を掛けた。
「何を泣いているのだ?」
御子は声に驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、七尺に届こうかという大男だった。幼い御子からすれば見上げるほどの巨体で、一瞬だけ身を固くする。
だが、その警戒はすぐに解けた。
老人の顔には怖さなどなく、穏やかで優しい笑みが浮かんでいたからである。
「兄上達に馬鹿にされたんだ。役に立たないとか、弱いとか……」
そこまで言うと、御子の顔は再びくしゃりと歪み、今にも泣き出しそうになった。
五十猛は、その姿に少年時代の自分を重ねた。父である須佐之男王の役に立ちたい。ただそれだけを願い、認めてもらおうと必死にあがいていた、かつての自分に。
「そうかぁ。それは辛くて、悲しかったのぉ」
五十猛は狭野を慰めるように優しく笑った。
「どれ、一つ見せてやろうかのう」
そう言うと、五十猛は一つの木の実を手に取り、地面に小さな穴を掘って土の中へ埋めた。狭野は涙を拭うことも忘れ、不思議そうにその様子を見つめている。
やがて五十猛が土の上へ手をかざすと、その掌から淡い妖気が漂い始めた。妖気がゆっくりと土へ注ぎ込まれていく。
すると、埋めたばかりの木の実から小さな芽が顔を出した。
芽は狭野の目の前でみるみる伸びていく。細かった茎は幹となり、枝を伸ばし、青々とした葉を茂らせていった。それだけでは終わらない。伸びた枝の先に次々と蕾が生まれ、やがて淡い桜の花が一斉に咲き誇った。
「凄い、すごーーーい!」
先ほどまで泣いていたことなど忘れたように、狭野は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「じい様は花咲じい様なのだ!」
「ほっほっ。爺はの、こうやって山に木の実を撒いておるのじゃよ」
五十猛は楽しそうに笑いながら、咲き誇る桜を見上げた。
「どうして木の実を植えているの?」
御子が不思議そうに尋ねると、五十猛は土をならしながら穏やかに答えた。
「緑じゃ。倭の国を、緑と水の豊かな国にしたくての」
御子は首を傾げた。木の実を植えることが、どうして水の豊かさにまで繋がるのか、まだ幼い御子にはよく分からなかった。
五十猛はそんな様子に気づき、別の木の実を土へ埋めながら話を続けた。
「山に木を植えるとな、山が豊かになる。動物も増える。それにな、木の多い山は降った雨をすぐには流してしまわぬ。土が水を抱えて、少しずつ川へ返してくれるのじゃ。木が豊かな山は、川も豊かになるのだよ」
五十猛は埋めた木の実の上へ、そっと土をかぶせた。
「爺はの、こうやって倭の国を豊かにしたいのじゃ」
「爺はすごいなぁ~。私もいつか、やりたいことが見つかるかな?」
御子の問いに、五十猛は優しく笑った。
「見つかるとも。その時期が来たらの」
そう言って立ち上がると、五十猛は周囲の山へ目を向けた。
「ほれ、山は気性の荒い獣も多い。爺が里まで送って差し上げよう」
五十猛は御子の身体を軽々と抱き上げ、そのまま右肩へ乗せた。七尺近い巨体の肩は高く、御子の目にはそれまでとはまるで違う景色が広がった。
「ありがとう、花咲じい様。私は狭野というんだ。この日向の国を治める主の子供だよ」
それはつまり、大倭壱国の王族に連なる御子ということであった。
「狭野か。良き名じゃ。将来が楽しみだのう」
五十猛は自らの名を明かすことなく、肩に狭野を乗せたまま山を下り、無事に里まで送り届けるのであった。
数週間後、五十猛は一族の祖神である伊邪那岐を伴い、再び日向の地を訪れていた。
伊邪那岐は、大倭壱国の女王・日巫女の父であり、不老長寿の身と不可思議な妖術を持つ、一族の祖ともいえる存在である。だが、表舞台から退いてすでに久しく、今では隠居の身として比較的自由に暮らしていた。
狭野の父親との話を終えて戻ってきた那岐は、待っていた五十猛へ声を掛けた。
「ただいま。狭野の面倒をしばらく見てもいいと、父親から許可をもらってきたよ」
「おお、さすがはおじい様だ」
五十猛が嬉しそうに顔をほころばせると、那岐は少し困ったように笑った。
「でもね。父親といっても、彼らからすれば私は一族の祖だからね。たぶん断れなかったと思うんだ。だから本当は、頼みに行くのも少し心苦しかったよ」
狭野の父親にとって、伊邪那岐は遥かな祖先にあたる。そんな人物から直々に頼まれれば、断ることなど難しかっただろう。
そして今、見た目だけなら可愛らしい少年にしか見えない那岐を、七十歳を超えた大男の五十猛が「おじい様」と呼んでいる。
知らぬ者が見れば、首を傾げずにはいられない不思議な光景であった。
「それに五十猛は強引だよ。山門からこの地まで私を駆け足で連れてきて……こんなに急がなくてもいいのに」
那岐が少し困ったように言うと、五十猛は悪びれる様子もなく力強く答えた。
「善は急げです! それに儂は御子をおじい様に託したら、筑紫を離れようと考えておりましてな。どうしてもちゃんと見届けてからでないと、心配で筑紫を離れられんのです」
「……次はどこに行くの?」
「そうじゃの。まずは四国へ向かい、そこからさらに東へ進みながら、山々に木を植えて回りたいと思っております」
「倭国中を回るつもりかい?」
「出来ることなら、すべて回りたいものですな」
五十猛の答えに、那岐は少しだけ笑った。
「わかったよ。とりあえず私は行ってくるよ。その泣き虫皇子の元にね」
「頼みまする」
狭野は山の麓で蹲り、ひとり泣いていた。ここ数週間、花咲じいさんの姿を見かけなくなり、寂しくなってしまったのである。
そんな狭野のもとへ、一人の少年が歩いてきた。
「君が泣き虫皇子の狭野かい」
その声に、狭野の肩がぴくりと動いた。涙で濡れた顔を上げ、目の前に立つ少年を見つめる。
「泣き虫じゃないもん……お兄さんは?」
目の前の人物は、自分よりずっと年上には見えたものの、大人というにはあまりにも若かった。柔らかな顔立ちもあって、狭野には少し年上の兄のように見えた。
「私は伊邪那岐。君の先生をすることになったんだ」
「先生?」
「うん。君の父上とも少しお話をしてね。しばらく君の傍にいてもいいことになったんだ」
狭野は少し考え込んでから、不安そうに那岐を見上げた。
「お勉強ばかりはやです……」
「ふふっ。まだ何も始めていないのに、もう嫌なのかい?」
那岐は楽しそうに笑うと、狭野の頭を優しく撫でた。
その様子を、五十猛は少し離れた桜の木の下から静かに見つめていた。
狭野が那岐を見上げ、那岐が穏やかに微笑んでいる。
それを見届けた五十猛の顔にも、自然と笑みが浮かんでいた。
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の神武編を、神武天皇を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。




