第二話:氷の計算と、深紅の誤算
数日後。王宮の応接室。
サイラスは、手元の資料に目を通しながら、これから現れる人物の「解析」を終えていた。
マーガレット・ガーネット。 国内最大手「ガーネット商会」の若き女会長。元は没落子爵家の令嬢で、先代会長の後妻に入り、夫の死後に経営を引き継いだ未亡人。
(データによれば、先代の威光を借りてなんとか組織を維持している、といったところか。……感情に訴えれば、王家の要求を呑ませるのは容易だろう)
サイラスが必要としているのは、東方皇国との貿易交渉における「商人の顔」と、今回の水害復興のための「資金」だ。 彼は、彼女を利用し、用が済めば適当な名誉職を与えて切り捨てるつもりだった。
先日起こった水害は東部の堤防を決壊させることで最悪の結果を回避することが出来た。とはいえ、下流の集落は水没し、そこにいた住人たちも第四王子の手腕により助かったが、肥大は甚大であった。
「――失礼いたします、殿下」
重厚な扉が開き、一人の女性が入室した。 サイラスは、形式的な笑みを浮かべて顔を上げたが――その瞬間、計算がわずかに狂った。
そこにいたのは、彼の予想した「儚げな未亡人」ではなかった。 深紅色の髪を緩やかに結い上げ、喪服を思わせる黒のドレスを、これ以上ないほど艶やかに着こなした美女。
その深紅色の瞳には、王族を前にしても揺らがない、静かな「炎」が宿っていた。
「お初にお目にかかります。ガーネット商会代表、マーガレットでございます」
彼女の淑女の礼は洗練されていたが、その後の第一声は、サイラスの予想を裏切るものだった。
「して、殿下。本日は『堤防決壊による損害補填』の件でのお呼び出しでしょうか? それとも、『東方貿易への出資』の件? ……どちらにせよ、無料というわけにはまいりませんわよ?」
サイラスは眉をひそめた。
(……ほう。私の狙いを、すでに見抜いているか)
「単刀直入だな。……いいだろう。貴女には、国のために働いてもらいたい」
サイラスは冷徹に切り出した。
「単刀直入に言おう。私と結婚してほしい。……もちろん、戸籍上の話だ」
サイラスが告げた言葉は、普通の令嬢であれば悲鳴を上げるか、頬を染めて卒倒するような内容だった。
しかし、マーガレットは扇で口元を隠し、その深紅の瞳をわずかに細めただけだった。
「あら、私のような未亡人を? 殿下も物好きですこと」
彼女は艶然と微笑んだ。 その笑みには、王族に対する畏怖よりも、年下の若造の戯言を楽しむような余裕が滲んでいた。
「まさか、年増の未亡人を妻にする代わりに、莫大な持参金を要求したりなさいませんわよね? ……王家の金庫が、先の水害対策で寂しくなっているのは存じておりますけれど」
図星を突かれたサイラスは、表情こそ崩さなかったが、内心で舌を巻いた。
(……これもまた。こちらの財政状況まで把握済みか。この女、ただの飾りではないな)
マーガレットは扇を閉じ、パチリと小気味よい音を立てた。彼女の纏う空気が、夜会の貴婦人のものから、商人のそれへと一瞬で切り替わる。
「ガーネット商会は、慈悲深い慈善団体ではありませんわ。 ――私にどのような利益があるのか、ご説明いただけますかしら?」
サイラスは、微かに口角を上げた。 感情論で喚く相手は嫌いだが、損得勘定で話ができる相手は好ましい。
「いいだろう。こちらが提示するのは『絶対的な盾』だ」
サイラスは指を一本立てた。
「現在、貴女の商会は急成長しすぎた。貴族たちは、貴女が『後ろ盾のない未亡人』であることをいいことに、利権を奪おうと圧力をかけているはずだ。違うか?」
マーガレットの瞳が、一瞬だけ鋭く光った。 それは彼女が抱える、最大の懸念事項だったからだ。
「私と婚姻を結べば、貴女は『王族』となる。ハイエナのような貴族たちも、王子の妻には手出しできない。……さらに、今回の東方貿易が成功すれば、貴女の商会に王家御用達の特権と、永代の免税措置を与えよう」
サイラスは、冷徹な計算式を提示した。 これだけの条件を出せば、商売人なら飛びつくはずだ。
「対価として貴女に求めるのは、東方皇国とのコネクション、そして商会長としての手腕だ。……悪い取引ではないはずだが?」
マーガレットは、しばらく沈黙し、サイラスをじっと見つめた。 やがて、彼女はふぅ、と小さく息を吐き、艶やかな笑みを戻した。
「……合格点ですわ、殿下」
「何?」
「私の身を守るための『盾』。確かに、今の私には喉から手が出るほど欲しい商品です。それに……」
彼女は、亡き夫から受け継いだ指輪をそっと撫でた。
「夫が遺したこの商会を、私の代で潰すわけにはいきませんもの。……よろしいでしょう。その商談、乗らせていただきます」
彼女はサイラスに向けて、右手を差し出した。 愛を誓うためではない。契約を成立させるための、握手の手だ。
「ただし、殿下。一つだけ条件がございます」
「言ってみろ」
「私の心は、亡き夫と共に墓場にあります。殿下に差し上げるのは、私の『戸籍』と『頭脳』だけ。……それでもよろしいですわね?」
サイラスは、その潔さに、奇妙な高揚感を覚えた。
「構わない。私が求めているのも、貴女の機能だけだ」
サイラスもまた、彼女の手を握り返した。 氷のように冷たい手と、炎のように温かい手。 蒼玉石と石榴石。 正反対の二人が、ここに「共犯関係」を結んだ瞬間だった。




