21.ラインハルトの気鬱
紙をめくり羽ペンを滑らせる音だけが、静かに聞こえる。
ラインハルトは、側近たちによって持ち込まれた大量の書類に埋もれるようにして、公務に勤しんでいた。
書類は自分の分と、父である国王の分——これは代理での執行ということになるが——とがあり、いずれもいつ崩れてきてもおかしくないほど、うず高く積まれている。
普通なら投げ出したくなるほどの凄まじい量に、辛抱強く取り組む姿は、まさに未来の国王に相応しいものだ。
ただ、いつもは勤勉で知られる王太子だというのに、今日は事あるごとに、窓の向こうに広がる曇空を眺めては、嘆息を繰り返している。集中している、とはとても言い難い様子だった。
トントトン、軽やかなノックがされる。
ランハルトは書類から一旦目を離し、音がした方向を見た。だが直ぐに視線を戻し、応じようとはしなかった。
「……いらっしゃるのでしょう?」
呼び掛ける声は、反応がないことに困惑しているようだ。
ドアを叩く音が次第に大きくなっていく。
トントン トントン トントントントン
トントントン トントントン トントン
トントントン トントントントン トン
トントントントン トントントントン!!
トントントントントントントントン!!!!
「……」
一度は無視を決め込んだラインハルトも、あまりのしつこさに、ついに根負けをした。
「——どうぞ」
大きくため息をつき、低い声でぶっきらぼうに入室を許可する。
「んもう、いるなら返事くらいしてよ」
カツカツとヒールを打ち鳴らして入ってきたのは、長い黒髪が綺麗な女だった。
女は一直線に机の前までやってきて、下からすくい上げるようにラインハルトの顔を覗く。
「悪いな。少しばかり考え事をしていたんだ」
ラインハルトはペラペラと書類をめくるだけで、視線を合わせようとはしない。
失礼な態度ではあったが、女は意に介する様子はなかった。それどころか、ねっとりとした大きな舌打ちを返す。
「はあ。その傷、見れば見るほど最悪だわ。跡が残ったらどうするのよ。素敵な顔が台無しじゃない」
「……またその話か、もう聞き飽きたぞ。そんな直ぐに治るわけないだろうに。医者も、傷自体は浅いし綺麗に治るだろうと言っていたから、よしてくれないか」
「でも医者って、あの昔からいるヨボヨボのお爺ちゃんのことでしょ。なんだか信用できないわ。ほかの医者にも見せましょうよ」
サインを書き込みながら、ラインハルトは自嘲的に笑った。
「……リーナ、貴方は私の顔が本当に好きだな」
ふくよかな赤い唇がふっと緩み、尖っていた声が瞬時に甘くなる。
「うふふ。前も言ったでしょ。『好き』じゃなくて、『大好き』だって。そのツヤツヤした栗色の髪、榛色の輝く瞳、そして引き締まった口元、どれも素晴らしいわ。見るだけでドキドキしちゃう」
相手は王太子だというのに、リーナはその顔に何の躊躇もなく触れ、愛おしげに撫でさする。
ラインハルトは一瞬ぴくりと肩を震わせはしたが、それでも抵抗はしなかった。
「ああ、惚れ惚れするわ。みんな言っているわ、あなたは“エレン王の再来”だって。本当に瓜二つだもの。廊下の肖像画なんて、あなたのものかと思うくらいよ」
「……ふん。ただ顔が似ているだけだろ。伝説の王に似ているというなら、顔以外で言われたいものだな」
「それは、あなた次第ね。剣術だって、もう誰にも負けないじゃない。一歩一歩踏み固めていけば、いずれ——」
そういうと、眉から目元、頬へと官能的ともいえる仕草でなぞっていく。
なすがままにされていたラインハルトだったが、それが口元に至った時、その手をギュッと掴み、下に降ろさせた。
「——それで話はなんだ。私は見てのとおり忙しい。父の分も代わりにみる必要があってね。言いたいことがあるなら、手短に頼むよ」
「まあ、つれないわね。私が来た理由は、決まっているわ。昨日の“あのこと”についてよ。とんだ失態だわ、逃がしてしまうなんて」
ラインハルトは、静かに目を伏せる。
「簡単にいうが……あんな魔術なんてものを使われたら……」
「そうよね、でも言い訳はききたくないの。——確かに、庭のアレまで壊れたのは予想外よ。なかで生きていたというのも、まだ信じられないわ。……でもその前に、あの子、ミーティアだけは逃がさず置いておけたはずよね。油断して取り逃がしてしまったのは、誰かしら。早く捕まえないと大変なことになるのよ。何か進捗はないの?!」
リーナは一方的に捲し立て、バンバンと机をたたく。
「——すでに先駈は放った。なにかつかめば、すぐ知らせが入るはずだ」
「それで? あなたはここで高みの見物、ってわけ?」
ラインハルトは首を振り、次の書類を取り目の前におく。
「指揮する側がやみくもに動いても、意味はないだろ。ある程度情報が絞り込まれたら、私も動くさ」
ふーんとリーナは呟き、先ほどまで愛でていた顔を探るようにマジマジと見つめる。
「ずいぶんと悠長なこと。どれだけ大事かわかっているはずなのに。…………まさかとは思うけど…………わざと逃がしたってことはないわよね」
サインしかけていた手が、ぴたりと止まった。
「……どういう意味だ」
「あら、言った通りよ。あの子のこと、気に入ってたじゃない。ごまかしたってだめよ。私、そういうのはわかるの。そうだわ、気に入ってたというより、本当は————好きだったりして」
榛色の瞳が、リーナを初めてまともにとらえる。
「何を言うかと思ったら……。悪い冗談はよしてくれ。今も昔も、私の気持ちは変わらない。それは、貴方が一番わかっているはずだ」
「うふふ、怒らないで。冗談に決まってるじゃない。少し言いすぎたわ。でも、それもこれも愛するがゆえなの。
もう……お父上は長くないわ。あなたがやらなければ、誰がこの国をまもれるというの? 課せられた義務と責任を、忘れたわけではないでしょう?」
「当たり前だろっ。さあ、何かあればすぐ知らせるから、もう一人にしてくれ」
「————いつになく不機嫌ね。まあいいわ、今のところは出ていってあげる。でも、何かあれば直ぐ知らせてね」
ラインハルトは軽く頷くと立ち上がり、退出を促すようにドアを開ける。リーナはラインハルトの頬に、濃厚なキスをしたため、「必ずよ」と念押ししてから颯爽と出ていった。
身じろぎもせず、ラインハルトはその後ろ姿を見送る。
そして、なびく黒髪が小さな点になり、靴音が聞こえなくなったところで、張り付いていた曖昧な微笑をさっと消した。
「——っ!!!」
苛つきをあらわに、叩きつけるようにドアを閉める。
ドンと背中を壁にもたれると、胸元を押さえ喘ぐように息づいた。
「ったく、勝手いいやがる。………好きだったかって?……ハッ、よくいうよ」
忌々し気につぶやき、リーナに触れられたところを、自身のはめる白い手袋で拭うようになぞっていく。
「……もし……もし、仮に、そうだったとして…………」
次第に言葉が詰まり、震える。
「————誰が、許してくれたというんだ」
苦しげに絞り出される声は、まるで泣いているかのようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本話から、当ストーリーは新たな段階に入ります。不定期な投稿で恐縮ですがお楽しみいただけると幸いです。
※次回は、1週間後の更新を目処にしています。




