第7話:邂逅
足元が覚束ない。フラフラと夢遊病者のようにふらつきながら、家路をたどる。
帰りがけに安城から送ろうかと申し出があったが、断った。若い女ならいざ知らず、おっさんに送られても情けなさが残るだけだ。それに、あの男には一分たりとも貸しなど作りたくない。
今日は飲み過ぎた。普段酒は飲まないのに、あいつといるとついつい手が進んでしまう。向こうのペースに乗せられているだけかもしれないが、悪い気分はしないので良しとする。
……本当に飲み過ぎたようだ。幻聴が聞こえる。こんな夜更けに人通りの少ない道端で、聞こえるはずのないメロディーが耳に流れ込んでくる。
これは……シューベルトの「野ばら」だ。どこの酔っ払いが、こんな子どもじみた曲を。
これは、そう、彼女のー。
そこから先は意識の底に引きずりこまれ、思い出すことはできなかった。
平坦な道で、何度も転びかけた。足がふらつく度に、ステッキをついて身体を支えた。鈍い頭痛とひどい吐き気が交互に襲ってくる。身体が揺れる度、胃袋がごろごろと鳴った。
我慢できない。
口を開けた途端に、刺激臭のある液体がどぼどぼと流れ出た。苦しさのあまり涙目になる。吐瀉物に埋もれた消化されかけの塊が目に入り、気分は益々悪くなった。
酒に飲まれるとは、こういうことか。
道端にかがみこんで呻いていると、背後に誰かが立つ気配がした。
「……安城か」
返事はない。ふふっという笑い声が聞こえた気がした。
普段の私であれば、恐る恐る背後を振り返っていたに違いない。一人夜道でうずくまっている中年男に忍び寄るなど、まともな人間の行動ではない。それこそ金でも強請ろうというチンピラか、狂人くらいのものだ。
しかしその日はひどく酔っていたらしい。背後に立たれ、普段思いもしないような言葉が胸に浮かんだ。
馬鹿にしていやがる。
酔いもあり気が大きくなっていた私は、周りにも聞こえるような声量で言い放った。
「誰だか知らんが、ほっといてくれ」
今度こそはっきり、笑い声が聞こえた。男のものではない。媚びた女の笑いだった。
振り向こうとしたところで、首筋にはりついた視線に気づいた。粘着質な、大きな動物の舌を思わせるような、不愉快な感触。うなじの産毛が逆立った。同時に微かに残っていた高揚感は消え去り、後には背後に立つ何者かへの恐怖だけが残った。
鼻唄はいつの間にか、聞こえなくなっていた。
「お前……」
「やっと、会えた」
街灯を背にして、女が立っていた。コートのポケットに両の手を突っ込み、私を見下ろしている。逆光のため、顔は見えない。ただ、口元に笑みが浮かんでいるのがうっすらと見えた。
私も女も、言葉を発しなかった。同じ姿勢のまま、石像のように動かない。時たま風がそよと吹き、近くの街路樹が乾いた音を立てた。
十分も、一時間もそうしていたような気もするし、三十秒ほどだったと言われればそんな気もする。
不意に女は踵を返して歩き出した。振り返ることなく、距離はどんどん開いていく。
「待ってくれ」
思わずそんな言葉が出そうになったが、ここにきてぶり返した吐き気が胃袋を揺らした。言葉の代わりに、今日食べた夕食が汚い音を立てて足元にぶちまけられた。胃が空っぽになるまで吐き続けて、漸く立ち上がった時には、彼女はとうに姿を消していた。




