第6話:安城
暖簾をくぐると、少し遠くの席で安城が手を上げるのが見えた。酔客を避けながら、ほりごたつの席に腰を落ち着ける。
まもなく二つのグラスが到着した。乾杯とともに、ビールを喉に流し込む。疲れた身体に炭酸が心地良い。
「それにしても、ひっさしぶりだなぁ」
安城はガハハと笑いながら、枝豆を皮ごと口に放り込んだ。
「その食べ方、どうにかならないのか」
口から皮だけを吐き出すと、癖になっちまったからな、と訳の分からないことを言う。昔から食べ方が汚いやつだったが、相変わらずのようだった。
「もう何年振りよ?五年か?十年か?」
「いや、二、三年前に俺がそっちに行った時に、ばったり会ってこうして飲んだことあったろ」
「そんなこともあったっけか。いやぁ、懐かしいなぁ」
しきりに頷いているが、本当に覚えているのかは疑わしかった。まあ、真偽を確かめるほどのことでもない。
駅前の焼き鳥屋だった。量の割に値段は良心的という、まさに薄給サラリーマンの味方とも言える店だ。まだ午後七時前だが、既に客でごった返している。バイトと思しき若い男がせっせと店内を歩き回っていた。
安城は、高校の頃のクラスメイトだった男だ。比較的静かな私と、豪放磊落を地で行く安城。正反対の私たちがどうして惹かれあったのかは分からないが、当時は二人でよく遊んだ。大学進学を期に離れ離れになってしまったが、互いの連絡先は把握していたし、毎年年賀状のやり取りも続いていた。
「ちょっと飲もうや」
突然彼から連絡が入ったのは、ほんの数日前のことだった。旧来の知己からの宴席の誘いである。当然快諾した。
久しぶりの再会とあって、暫く昔話に花が咲いた。嫌いだった教師の机に死んだゴキブリを入れたこと。些細なことで口論になり、取っ組み合いの喧嘩をしたこと。今考えるとくだらないが、どれも色褪せない思い出だった。酒の肴にはうってつけだ。
酔いが進んでくると、話題は近況へと移っていった。安城はそこそこの規模の会社を経営しており、業績も安定しているらしい。二、三年前に会った時はまだ大変な時期だとぼやいていたから、何とか乗り切ったのだろう。
「そういえば、何でこっちに来てるんだ?出張か?それともこれか?」
私は赤く染まった小指を突き立てた。
安城が経営している会社は、ここからだと飛行機でもそこそこの時間がかかるほどの距離にある。彼も会社近くに住んでいて、時たま出張でこちらに出向いているという話は聞いていた。
「んー、実はそのことで話があってな」
安城の顔つきが神妙なものに変化した。もう十杯は飲んでいるだろうに、顔色一つ変わらない。
一方の私はもう頭がボウっとしてきていた。ここが誰もいない山中だったなら、大声で叫びだしたい気分だ。日頃飲むことが少ないせいか、それとも普段大きなストレスに晒されているせいか、腹の底にもやもやとしたしこりが溜まっている。
「さては、今回誘ったのはそれが理由だな。おかしいと思ったんだよ、お前から突然飲みたいだなんて。さては何か悪だくみでもしてんのか、チクショー」
くだを巻く私に、安城は苦笑を返してきた。
「まあまあ。落ち着けよ。悪い話じゃあないんだ」
「じゃあ、何だってんだよ」
「ああ。実は、今月からこっちで住むことにしたんだ」
「……え?引越しか何かか?にしても急だな。会社はどうすんだよ」
辞めたよ、と彼はさらりと言ってのけた。
「おいおいおいおい、本当か?本当にやめちまったのか?そりゃまたどうして」
「お、食いつきが良いな。そう慌てるな。今話してやる」
「金は?生活はどうすんだよ」
不躾な質問にも気を悪くした様子はなかった。それどころかにかっと歯を見せて、
「ああ、その点は問題ない。良い買手がいたんで、売っちまった。おかげ様でむこう二十年くらいは働かずともやっていけそうだよ」
微かな嫉妬の炎が胸の内にゆらめいたが、それを掻き消す。安城に悟られないよう、私は慌てて言葉を継いだ。
「働くの、嫌になっちまったってことか?それとも何かの病気か?」
「ちげーよ。生憎こっちでも新しく仕事始めようかと思ってるし、身体だってこの通りピンピンしてる」
むしろお前の方こそ身体大丈夫なのか、と逆に心配される始末だった。余計な世話だとばかりに、グラスに注がれた酒を体内に流し込む。
「……じゃあよ、何で……その……戻ってきたんだ。大好きな会社まで辞めちまって」
徐々に視界の端が黒いカーテンで覆われてきた。視野が狭まって、安生の顔が二重写しになる。声が遠い。音がゴムまりのように辺りを跳ね回っている。
安城は喉を鳴らすと、少し緊張したように唇を舐めた。
「ああ、それなんだが……」
「何だよ、勿体つけんな」
「いや、ここまでは話す気満々だったんだけどな。いざとなったら怖気づいちまって」
「らしくねぇなぁ。急に萎らしくなっちまって」
「いや……言うぞ。そのために今日はお前を呼んだよなもんだからな」
安城は気付けとばかりに目の前のグラスを一息で飲み干すと、一拍溜めて言い切った。
「俺、結婚したんだ」
さぁ、驚いた顔を見せてみろ!と言わんばかりの表情で、彼は私の反応を窺った。
だが私は、ああ、そうなのかと頷いただけだった。
安城にとっては不運なことに、私は酒が弱かった。そんな私が羽目を外して久しぶりに何杯もあおったものだから、彼にとっては更に不運なことに、私はすっかり泥酔しきっていた。明日地球が終わると宣言されても受け入れてしまえるほど、私の脳みそは既にアルコールで朦朧としていたのだ。
たかが結婚だ。私だってしているんだし、それほど珍しいものじゃない。心の中で、偏屈な自分がそうひとりごちた。
彼の秘めていた思いは、私の空気の読めない反応のせいでいとも無残に砕け散った。
安城はあからさまに失望した様子だった。無理もない。旧知の友人に突然結婚したことを告白したのに、驚嘆どころか、祝福の言葉一つ返ってこないのだから。
「お前なぁ……もっと、こう、驚くとかしろよなあ」
ばつが悪そうに唐揚げを頬張りながら、恨みがましくねめつけてくる。それでも反応しないものだから、安城は私の前にあるグラスまで一気に飲み干した。
もう二杯ビールね!と半ば怒鳴るようにして注文し、再び私に向き直る。
「良いぜ。俺が結婚したからどうだって言いたいんだろう。彼女はこっちに住んでてな。離れたくないって言うもんだから、俺の方が越してきたってわけさ」
「愛してるんだな、奥さんのこと」
「当然。じゃなきゃ会社売り払って引越しなんてしねーだろ」
加奈の顔が泡沫のように一瞬浮かび、消えた。
安城を見ると、何故か黙ったままにやにやと私を見つめている。
「当ててみろよ、俺の相手」
悪戯っぽい目つきで、唐突にそう切り出した。
「はあ?……何言ってんだよ、分かるわけ……ないだろう。このボンクラめ」
呂律の回っていない私を、安城は得意顔で眺めていた。こいつ、俺には当てられないとタカくくってやがる。不意に闘争意識が胸の内に沸き上がり、私は彼の視線を正面から受け止めた。
良いだろう。やってやろうじゃないか。
「ハハッ、その意気だ。安心しろ。お前だって顔は知ってる」
なるほど、そういう趣旨か。顔つきを見るに、私じゃあ絶対に当てられないと思っているみたいだが……ひと泡吹かせてやるとしよう。
「美紀か」
「違う」
「真理?」
「はずれ」
「……まさか霧子か」
「いつの話してるんだよ。何年前だ、それ」
高校時代の同級生の名前を片っ端から挙げてみたが、どうも的外れな場所を探しているような気がする。そもそも、高校時代の同級生で仲の良かった女子など数が限られてくる。もしかしたらその頃はあまり接点のなかった女と結婚したのかもしれないが、だとしたら私に分かるはずがない。
安城ならもっと、劇的な回答を用意しているに違いなかった。今にも眠りに落ちそう頭を必死に回転させる。
私の知り合い。安城の結婚相手。この近くに住んでいる。衝撃的な結末。私が予想だにしていない、衝撃的な。
知っているような、知らないような。知らないような、実は知っているような。
答えが喉まで出かかっている。だが、その名を口にすることはできなかった。酔いのせいか。はたまた、私の奥底に眠る記憶がそれを拒んでいるのか。瞼は益々重くなり、周囲の喧噪はスーパーボールのように壁を、天井を縦横無尽に駆けた。
口ごもってしまった私に、安城は得意気な視線を寄越した。正確に言えば、寄越したように見えた。今や彼の顔は、ぼやけてしまって輪郭すら分からない。赤い塊が、もごもごと動いた。
「分からないか?俺の結婚相手は――」
薄れゆく意識の中で、耳の中に女の名前だけが残った。




