第5話:罪の記憶
間違いない。見られている。
ゆっくりと振り向いたが、誰の姿もない。気のせいかと思い正面を向くと、また絡みついてくるような視線を感じる。背中にへばりつくような、粘着質で不愉快な視線だった。
土曜の昼、駅前の定食屋にて食事をした帰り道だった。起きた時には加奈も康も外出していて、散歩がてらに食事を取ろうとやってきたのだった。
一体何なんだ。気味が悪い。
見られているだけだといえばそれまでだが、どうにも居心地が悪かった。
振り切ってやりたいところだが、足が悪いので走るのは難しい。気持ち早足で、するりとビル間の細い路地に入り込む。長いこと住んでいるので、この辺りの地理は頭に入っている。上手く撒いてやるつもりだった。
ここ暫く、何者かの視線を感じるようになっていた。休日に近所をぶらついている時が多いが、時には平日のこともあった。得体の知れない視線を感じながら人気がない道を歩く時、私の鼓動はいつも高く跳ね上がった。
最初は気のせいかと思ったが、どうにも違うらしい。振り返った時、怪しい動きをする人影を二、三度見たこともある。
所謂ストーカーというやつだろうか。だが生憎、道行く人を振り向かせるほどの容姿でもない。目的は何なのか、見当もつかなかった。
細い裏通りを右左にと進む。
先日の加奈からの相談が頭をよぎった。家を嗅ぎまわる女の存在。楽天的に考えていたが、どうも穏やかではないようだ。
自分の息遣いと、ステッキをが地面を打ち鳴らす音だけが耳にこだまする。
どうしよう。待ち伏せしてみようか。足を止めて耳を澄ましたが、追跡者の足音は聞こえない。気配も感じない。隠れるなら、今が絶好のタイミングだ。
その時、突き当りの丁字路で、誰かが顔を覗かせているのに気づいた。視線の正体に考えを巡らせていたために、反応が遅れた。
ストーカーに正面に回られたのかと思い肝を冷やしたが、冷静に考えればあり得ないことだった。先回りできるようなルートはないはずだし、それに顔の覗いている位置が低すぎる。大人の腰辺りの位置から、白い顔がこちらを眺めていた。
あれは……あれは、そうだ。
ずきん、と頭の奥底に鈍い痛みが走った。
ただの幻。私の罪悪感が生み出した、想像の産物。だがよりによって、こんな時に出てくるとは。
普段と同じく、無視を決め込むことにした。目を合わせないようにしながら、黙って横をすり抜ける。いつもであれば、それで姿は消えるはずだった。空気に溶け込むように、跡形もなく。
思った通り、近づくと、以前と同様その姿は消え去った。内心ホッとしながら、角を曲がる。その時、再び視線を感じた。イソギンチャクのように背中にぺたぺたと張り付いてくる。
やつが追ってきたのだ。振り返ろうとしたが、首が石膏で固められたように動かない。
ここはまずい。身体の震えを落ち着けるために、一度深く息を吸った。もし襲われでもしたら、助けも呼べない。ひとまず人通りの多い道に出なくては。
しかし目線を先に向けた瞬間、私の足はぴたりと止まった。
白い顔が、こちらを覗いてた。三十メートルほど先の十字路の脇から、先ほどと全く同じ形で。
全身が泡立った。身体の芯が急速に冷えていく。
おかしい。目をこすってもう一度視線を戻したが、相変わらず白い顔がこちらを見つめている。今まで、一度消えた後にあれが再びその姿を現すことはなかった。だからこそ臆病な私でも、空目だと思い込み無視することができたのだ。
「……おかしくなってきたかな、私も」
強がってみたものの、全身からはじっとりとした汗が染み出てきていた。
地面に根を張ったように脚は動かなかった。前に進むこともできず、かといって後ろにも下がれない。どうすれば良い。どちらに進めば良い。少しでも気を抜けば、目と耳を塞いで座り込んでしまいそうだった。
何の前触れもなく、子どもがすっと腕を上げた。躊躇いのない動作だった。ペンキで塗りたてのような鮮やかな赤い袖が塀からのぞく。その色が目に映ると同時に、頭の奥で一つの火花が弾けた。
後悔と恐怖。
すまない。
そう口にしようとしたが、喉がカラカラに乾いて声が出ない。代わりに、かすれた吐息が零れ落ちた。頭蓋骨を掘削するような鋭い痛みが内側から広がっていく。
真っ赤な袖から突き出た指がはっきりと私を指差した刹那、私は何かに貫かれる感覚を味わった。身体の中心に穿たれた黒い穴。鋭い痛みは瞬く間に熱へと変わり、私を焦がした。
すまない。すまない。
背後からの視線のことなど、とうに頭から吹き飛んでいた。私は踵を返すと、一目散に大通りの方へと駆けた。膝に思うように力が入らない。ステッキに体重をかけながら、身体を引きずるように人通りの多い場所へ向かう。途中、あらゆる物陰から、あの子が私を見ている気がした。
大通りに出て、ほっと一息ついた。近頃めっきり運動をしなくなったせいか、鳩尾のあたりがきりきりと痛む。同時に胃液が喉をせりあがってくるのを感じた。こんなところで嘔吐したら良い晒し者だ。ぐっと喉に力をこめると、徐々に吐き気は収まっていった。
たった今駆けてきた路地を振り返ったが、そこにはただ薄い闇がとぐろを巻いているだけだった。
「……真希」
その名前は、私の後悔の象徴であり、同時に罪の証でもあった。




