第8話:父子の関係
どうにか家までたどり着くと、靴も脱がずに玄関に倒れこんだ。暫く待ったが、誰もやってくる気配がない。
仕方なくステッキを玄関に立てかけると、危うい手つきで服を脱ぎ、浴室に入った。幸い浴槽には湯が張ってあり、それに浸かると全身の毛穴から酒が抜けていくような錯覚に襲われた。のぼせない内に湯から上がり、身体を丹念に洗う。
風呂を出て水を大量に飲むと、吐き気はほとんど治まった。頭痛の残滓以外に、これといって症状はない。
一息つくと、先ほどの出来事が脳裏に蘇ってきた。
首筋に感じた、あの粘っこい嫌らしさ。
うっすらと笑みを湛えた口元と、艶のない真っ黒な髪。
打算的な媚びに覆われた、卑しい声音。
ここ最近私をつけていたのは、間違いなく彼女だ。間近で視線を受け止めてはっきり分かった。
駅からつけられたのか。……分からない。
例えそうだとしても、ひどく酔っていたから気づかなかったのも頷ける。
しかし私には、彼女があの場所で待っていたように思えてならなかった。家から五十メートルと離れていないあの場所で、寒空の下立ち尽くす彼女のイメージが浮かんだ。一晩待って私が帰らなくとも、彼女は待ち続けたことだろう。不平も漏らさず、鼻唄など歌いながら。
そういう女だ。
ふと、シューベルトの「野ばら」が頭の中で流れた。先ほど聞こえたあの声は、幻聴ではなかったのかもしれない。
……もう、考えるのはよそう。悪酔いが去り、風呂に入って身体も温まったせいか、心地良い眠気が身体を包んでいた。
明日も朝が早い。今ベッドに入れば、ぎりぎり六時間は睡眠が取れるだろう。
最後に念押しの水を一杯飲み、寝室に行こうと立ち上がった時だった。ゆっくりと玄関のドアが開く音が漏れ聞こえてきた。時計を見ると、もう零時になるところだった。こんな時間に家に帰って来るのは、我が家では一人しかいない。
遠慮がちな足音が階段を上っていく。両親を起こすまいという、彼なりの気遣いなのだろう。
私は廊下に出ると、階段を忍び足で昇っていく影に向かって声を掛けた。
「康」
階下から呼びかけるのと、彼の足が最上段にかかったのはほぼ同時だった。一瞬肩がびくっと動いたかと思うと、ばつの悪そうな顔がゆっくりとこちらに向けられた。
「……まだ起きてたんだ、父さん」
「こんな時間に帰ってきて何言ってる。また夜遊びか」
表情を見るに、図星らしい。康はしおらしく俯いた。
「部活はどうしたんだ」
練習はちゃんと出たさ、という声が返って来る。欠席しないあたり、根は真面目なのだ。
だからこそ、康の交友関係の異質さは際立って感じられる。高校に上がったばかりの頃、一度友人を家に呼んだことがあった。
髪の毛を茶や金に染め、耳にいくつも穴をあけた連中がずかずかと二階へ上がっていく光景を見た時には肝を冷やした。結婚した当時の康は確かに荒れていて、親の手はあまり焼かせなかったものの、柄の悪い連中と付き合いがあることは加奈から聞いて知っていた。
恐らく今日も、その連中と遊び歩いていたのだろう。
「あんまり心配かけるな。私もうるさく言うつもりはないが、加奈が心配するぞ」
「ごめん」
「謝るくらいなら、最初からしなければ良いだろう」
「そういうわけにもいかないんだよ。付き合いってものもある」
康は俯いたまま、力なく答えた。不貞腐れているわけではなく、素直に反省している。息子の帰りが遅いのは今に始まった話ではないが、今まで叱られて不貞腐れたり逆に怒鳴り返してくるようなことは一度もなかった。
正面切って叱るのは苦手だ。だからいつも小言をこぼすような調子になってしまう。一般的な男子であれば反抗期真っ盛りの時期なはずだが、康はまるでその気配を感じさせない。
静かに諭そうが怒鳴りつけようが、反論せずに頭を垂れる。そして最後に一言「ごめんなさい」だ。こんな調子なものだから、勢いのない私流の「説教」であっても我が家では何とか通っている。
いや、もしかしたら、“通っている”と思っているのは私独りだけなのかもしれない。
あまりネチネチと言い続けていても仕方がない。充分に反省していることは、見れば分かる。もう寝るように言おうとしたところで、私は漸く息子の様子が少しおかしいことに気がついた。
顔が少し強張っている。私が目を合わそうとすると、するりと躱された。普段は人の目を真っ直ぐに見て話す子だが、様子が変だ。
加えて、落ち着かないのか、指で何度も太もものあたりを叩いている。気配りの細かい彼らしからぬ行動だった。きっと意識的にやっているのではない。ストレスか何かを感じて反射的に身体が動いてしまっているのだろう。
「どうした、何か……」
嫌なことでも、あったのか。
そう尋ねようとしたが、最後まで言う前に遮られた。
「ごめん、実は、もう立っていられないほど、眠たいんだ。何だか疲れちゃって」
行って良いかな。そう申し訳なさそうに口にした息子を引き留めるほど、私の意志は強くなかった。
ベッドに入ってからも、なかなか寝付けなかった。康の後ろめたそうな表情が、小骨のように喉に引っかかっている。
最初に思いついたのは煙草だった。一度叱られているにも関わらず、また同じ過ちを繰り返してしまった罪悪感。仲間内の誘いを断り切れず、両親との約束を反故にしてしまった背徳感。それが、彼に無意識の内に後ろ暗い表情を作らせたのではないか。
或いはひょっとすると、あれは信じる親へのエス・オー・エスのサインだったのではあるまいか。昔からの柄の悪いツレと手を切りたいが、向こうはそれを良しとしない。むしろ圧力をかけられて、縋る先はもう親しかいない―そんな追い詰められた状況にあるのではないだろうか。
仮にそうだとすれば、私には何ができるのだろう。康の性格からして、過度な干渉はかえって逆効果だ。ただ淡々と息子の話に耳を傾けた方が良いのか。しかし、それでは何の解決にもなっていないじゃないか――。
……流石に、飛躍のし過ぎか。
私も存外に想像力が豊かだなと苦笑する。親の寝静まった後に家に戻ってくれば、そりゃあ後ろめたい表情もするだろう。顔を背けたのだって、単純に帰りが遅いことに対するばつの悪さと考えた方が自然だ。
寝返りを打つと、暗闇の中ぼんやりと浮き出た壁紙が目に入る。真正面から見つめるより、敢えて視界の端に捉えるようにした方が、その色や形をはっきりと把握することができた。
私は、どうすれば良かったのだろうか。
そう問いかけてみても、誰からも返事はかえってこない。
傍らに横たわる妻の規則正しい寝息を聞きながら、私はきつく瞼を閉じた。




