4-1 キスパ
夜明け前に起こされた。周囲はまだ暗く、あたりはしんとしていたが、それでもすぐに朱夏の目は覚めた。肩を揺らされて五秒以内には体を起こし、そばに下央がまだいるか確認する。もたもたしていると顔をしかめられるため、たった数日でそういう習性がついた。
朱夏が起こされる時、大抵下央はすでに身支度を済ませている。放って寄越される木の実や干し肉を慌ただしく口に入れ、下央が火を消せば、それが出発の合図だった。
ひたすら歩き続け、キスパの麓にたどり着き、その地面が傾斜し始めた頃には、利布の村から離れて二日が経っていた。同じキスパ山脈を構成する山でも、このあたりは利布の近くに比べ木々が少なく、山の地肌が露出しているところが多かった。
下央について行くのが必死だった朱夏は、登り始めて二日目には、今自分がいるのがキスパのどのあたりなのか、まったくわからなくなっていた。わかるのは、利布の山の家よりも高い場所だということだけだ。途中何度も置いていかれそうになり、それでもくらいついて、足にまめができてはつぶれた。
そんな朱夏に、下央は気遣う言葉一つかけてこなかった。たまに朱夏がついて来ていることさえ忘れているんじゃないかと思うほどだった。
夏の初めといっても、草原ではまだ涼しく快適なはずだが、ここ数日、朱夏はいつも汗をかいていた。ずっと山を登っているからかもしれない。体を拭いたかったが、そうしているうちにも下央においていかれそうで、できなかった。夜に寝床を決めてから水場まで行くことも考えたが、夜は夜で昼間歩き通した疲れから、一度座れば立つのが億劫になり、しばらくすると泥のように眠ってしまうのだった。
山を登り始めて三日目、太陽が真上にさしかかる頃、二人はこれまでで一番急な斜面を登っていた。山登りというより崖登りといってもいいような場所をいくつも登ると、周囲には切り立った大きな岩が目につくようになった。麓のほうでは細々と、岩の隙間から申し訳なさそうに伸びていた木の幹が、このあたりでは次第に太くなり、その根で大きな岩を抱えているものさえあった。取っかかりの少ない岩を登る時は、さすがに下央も待ってくれたが、手を貸すことはなかった。
連続した岩登りを終え、枝葉の隙間から見える青空にほっとしたのも束の間、下央は空の青さに目を止めることもなく茂みのほうへ歩いて行く。慌ててついて行こうとして足が滑り、今登ってきた岩場を石のかけらが落ちていくのを見た時には、大いに肝を冷やした。
草木が茂る中へ足を踏み入れてしばらく、木々が開けた比較的なだらかな地面が広がる場所で、下央は足を止めるとこちらを振り返った。
休憩を入れるのかと思ったが、違った。
「明日また、ここへ来い」
「え? ……明日?」
首を傾げて下央を見返す。じゃあ、これからは。
「ここが、これからお前をしごく場所だ。ここならある程度広さがあるし、滅多なことでもない限り邪魔も入らない」
下央の言葉に、周囲を見渡す。周りを木々に囲まれた、ぽっかりとした広い空間だ。むき出しの地面には草は生えておらず、木々との境のあたりにはいくつか岩が顔を出しているが、中心には剣を振り回しても邪魔になるようなものが一切ない。まるで修行のために作られたような場所だった。
とりあえずキスパに行くということだけは聞かされてついて来たが、どうやらここが目的地だったらしい。利布から数えて五日。やっと着いたかと思うと、それまでも慢性的に疲れを感じていた体が、どっと重くなった。その場に座り込みたくなるのを何とかこらえる。
もしも今から打ち合うと言われたら、まともにやりあえる気がしない。言われたら朱夏に否と言う権利はないし、言うつもりもないのだが。足の疲れも、喉の渇きも、ようやく手に入れた機会を逃すことに比べたら、我慢するべき瑣末なことだ。
だが下央は今しがた、「明日来い」と言った。つまり、今日はここをもう離れるということなのだろう。ではこれから他に、何かすることがあるのかと思っていると、そんな朱夏に下央は告げた。
「お前はこれから、自分の寝床を決めて、今夜食べる獲物を探すんだ」
「は?」
下央に言い渡されたことにきょとんとする。しかし、聞き間違いではなかったようだ。
「稽古には付き合ってやる。が、寝食の世話までするとは言ってない。ここにいる間は自力で生き延びろ。稽古どうこう以前に、それくらいできないと話にならない」
ここまでの道程の食事はすべて、下央が携帯していた干し肉や干菓子と、その場で拾える木の実などに頼っていた。というか、「頼っていた」という意識さえ正直なかった。身一つでついてきた朱夏にそういった備えがなかったのはもちろんだが、ただついて来ることに必死で、自分で用意しなければというところまで意識が回っていなかったのだ。もしも下央が何もくれなかったら考えざるをえなかっただろうが、下央は自分が何かを口にする時は、決して多くはなかったものの、必ず朱夏にも分け与えてくれていた。そのことを、ありがたいとも何とも思っていなかったことに、今さらながら気付く。
正直言うと丸一日ずっと稽古をして欲しいくらいだが、さらに、食べ物もくれ寝床も用意しろというのは、確かに甘えすぎかもしれない。
でもひとつだけ、気がかりがあった。
「どれくらいの間、ここにいるの?」
「それはお前次第だろう」
もっともである。自分が腕を上げれば、すぐにでも次の段階へと進めるし、下央の手も煩わせずに済む。
しかし自分の強さとは関係なく、どうしても、それもなるべく早く、やらなければいけないことが朱夏にはあった。
「あたし、急がなきゃいけないの」
「俺だって、いつまでもだらだらとお前に付き合ってやる気はない。そう思うなら、お前が努力すればいいだけの話だ」
「違うの」
咄嗟の否定に、下央が片方の眉を上げた。
「いや、違うというか……それは違わないんだけど……」
言いよどんでいたところで仕方がない。朱夏は思いきって口にした。
(まずは――)
「茗野を助けないと」
宋重への復讐は何年かかっても構わない。だが、茗野のことはそう悠長にはしていられない。
たとえ今の自分の力で助けるのが無理だとしても、せめて無事なことを確認して、どんな様子でいるかを知りたかった。利布から離れるほどに、自分をかばって行った茗野に対する罪悪感は膨らんでいた。
「誰だ?」
下央が尋ねた。下央には茗野の話はしていない。というより、自分について話していることのほうが少ない。ここまで来る間何も聞かれなかったし、途中であれこれ話しかけて、うるさいと思われ下央の気が変わるのも怖かった。それ以前に、ついて行くのに必死で、長々と話す体力的余裕もなかった。
茗野のことは、捕まった経緯からして、自分から進んで話したい話題ではない。だが、ここで隠していては話が通じない。
「利布で、あたしによくしてくれた人。反宋軍にとって大事な人で……あたしのせいで、捕まった人」
「捕まったって、誰に?」
「宋重の兵士」
「どこに捕まってる」
「たぶん、万理に」
「メイノ……」
呟いて腕を組んだ下央に、朱夏は尋ねる。
「知ってるの?」
「いや……でも、聞いたことがあるような……」
下央が視線を横に流す。その目元に、灰白色の毛先がかかる。キスパに入ってからは、下央はそれまで頭に巻いていた布を取っていた。このあたりでは見たことのないその髪色が珍しくて、たまにじっと見つめてしまう。朱夏は下央に自分のことをあまり話していなかったが、下央はそれ以上に自分のことを語らなかった。
何かを思い出したように、下央の視線が朱夏に戻る。
「……もしかして、冠の茗野か?」
朱夏は頷いた。途斗が、茗野は「冠姓を持つ貴族だ」と言っていた。
下央が少なからず驚きの表情を見せ、腕を解く。
「王子の乳姉弟が反宋軍に関わってるって噂は、本当だったのか……。でもそれなら、すぐにどうこうということもないだろう」
下央の言葉に、朱夏は食い下がる。
「でも、もしかして拷問されたり……」
「それはないと思うけどな。いくら宋重のやつらでも、貴族を拷問なんかしたら、これまで大人しく従ってたやつらまで敵に回すことになる。せいぜい隔離して軟禁だろう」
「本当に?」
「嘘を言ってどうする」
「でも、前に万理で反宋軍の根城が暴かれた時には、関わってた貴族が殺されたって……」
「ああ……まあ、確かにそうらしいが、その時のやつらと冠とじゃ位が違う」
それを聞いて、朱夏はようやくほっとした。しかし同時に、自分が知らなかっただけで、茗野はやはりすごい人物だったのだと、改めて思い知らされる。
「まあ、反宋軍にとって重要な人間なら、お前が行く前にそいつの仲間が動くだろ」
下央の言葉に途斗の顔が頭に浮かび、朱夏の中に怒りとも苛立ちとも言えない感情が湧き上がる。
「どうした」
「……何でもない」
茗野が助かるなら、助けるのが自分じゃなくても、それが途斗たちだって構わない。でも、途斗があの日言ったことは、忘れることができない。
下央はそれ以上追及してこなかった。朱夏が納得したと見たのか、話題を変えた。
「それじゃあお前の寝床だが。ここには平地に建ってる家のようなものはない。どこでも自分の好きなとこで寝ろ。先客がいなけりゃどこでもいい」
「下央は?」
「俺は俺の寝床がある」
「どこ?」
「知ってどうする」
つまり、教える気はないということだ。
「向こうに湧き水の出ているところがある。秋に比べると少ないが、この時期食べ物に困ることはないだろう。お前に狩りができればの話だが」
「…………」
正直、わからなかった。朱夏は狩り自体したことがない。紅里にいた時は少ないながらも畑で作物を育てていたし、肉はどこかの家が家畜をつぶした時にみんなで分け合っていた。利布でもシグルの横に畑があったし、たまに崔己や矢己が鳥やウサギを捕ってきていたが、朱夏がそれについて行ったことはなかった。ただ、足の速さには自信があるし、剣だってそれなりには使える。何とかなるはずだ。
「まあ、獣を追うのも単に食べるためと考えるか、そうじゃないかでお前の今後は変わってくる。何を活かすかはお前次第だ。質問は」
唐突に向けられて、咄嗟に聞くことが思い浮かばなかった。大して考える時間も与えられないまま、下央は話を切り上げる。
「それじゃあ寝床を決めて、今日はさっさと寝ろ」
「え?」
他にどんな難題が言い渡されるのかと思っていた朱夏は、拍子抜けした。その表情に、下央がわずかに嘆息する。
「お前、自分が熱を出してることにも気付いてないのか」
二度ほど瞬きをして、下央の言葉を理解した途端、だるかった体に、急に熱さを感じた。
思えば、ずっと汗が引かなかった。足元がふらつくこともあった。それは単に、慣れない強行軍からくる疲れのせいだと思っていた。おいて行かれまいと必死で、発熱に気付く余裕すらなかったのか。
けれど、それがわかったからといって、のんびり休めるわけがない。
「すぐ治す。一晩寝たら絶対大丈夫だから」
身を乗り出しながらも、自覚した熱が、首の後ろあたりからじんわりと広がっていく。でも、撤回はしない。
下央は初めて会った夜、見込みがなければ放り出すと言った。すぐ体調を崩すと見なされて、見放されるなんて絶対嫌だ。
そんな朱夏の顔を、下央はしばらく黙って見つめていた。
「何……?」
「いや。熱が下がるにせよ下がらないにせよ……とりあえず、明日だ」
下がらないという選択肢は残されているのか。よくわからないが、下央はそう締めくくった。
「その剣はここにいる間貸してやる。せいぜいなくさないよう気をつけろ」
利布からここまでずっと、朱夏が背に運んできた剣を指差すと、下央は踵を返し、茂みの奥へと消えていった。




