第92話 歌姫の過去
ミファーナを出発し、全『四つ』だという擬似宝具のうちの一つ、魔王の『大砲声』なるものを防ぐための耳飾りが守護されている、最初の村を目指してから、かれこれ二日が経過した。
ミファーナから第一目的地までの距離は非常に離れていたにも関わらず、たったの二日という、移動があっけなく思えてしまうほどの短時間で到着できた理由は、驚愕に満ちた視線を送っている僕の目の前で落ち着いた息を吐く、全く疲れた様子がない最強馬たちのおかげだった。
『グゥルルブゥ……』
ニューギルスという『最強大馬』+『六頭』が織りなす走りは目を剥くほどに尋常ではなく。
僕がよく知る『普通の馬』の三倍近い速度と、その速度を維持したまま僕達が休む宿村に到着するまで、不眠不休で走り続けられる底なしの体力。そんな『最強』を冠する『超馬』たちのおかげで、僕達は凄まじい短時間で目的地に到着することができたのである。
その驚愕の超記録をしみじみと感じていた僕は、目の前の馬達に、あまり多くはない額の、長旅の際に必要な活動資金である支給金を使って購入した『高級人参』を差し出した。
これは、この大馬達は種を弄った人間達をどう考えているのだろうか。もしかしたら人間のことを内心恨んでいるのかもしれないという心配をしながら馬車を降りた僕に、そんな心配など不要であると、最強たる所以の覇気と、種として自信に満ち溢れている眼差しを向けて伝えてくれた、王の威厳を感じさせる馬達に送る、僕ができる最大限の『謝罪』を込めた品であり、溢れてくる『敬意』を表した贈呈品であり、ここまで運んでくれた『感謝』の伝える物だった。
そんな僕の心を受け取るかのように、馬達は差し出された人参を、涎を撒き散らしながらギョッとするほどの信じられない速さで、あっという間に平らげてしまったのだった……。
「ぷっ——あははははははははは! ふふっ。それじゃあ、また明日もよろしくね」
『グゥルルブゥウ!』
「ソラ! 早く! 置いてっちゃうわよ!!」
「今行くから!」
馬小屋の外で待たせていたラーラに急かされてしまった僕は、強く鼻息を吹き出して出発する僕を見送ってくれているに馬に手を振って、ラーラのもとへと急ぐのだった。
「もう、遅い!」
「ごめんごめん」
「ふふっ、それじゃ、行きましょ」
+ + +
僕が所持している金の腕輪のことを、現歌姫であるラーラに伝えるタイミングが見つからず、結局なにも伝えられないまま、第一の目的地である、擬似宝具の一つを守護している村に到着してしまった僕は、いつ言えばいいんだとウンウン悩みながら、ラーラと村の中を歩いていた。
「? どうしたの? やっぱり体調悪い?」
ラーラはげっそりとしている僕に向かって、体調を気遣う言葉を掛ける。
「あ、いや、体調はまあまあだけど……」
「? どうしたわけ?」
「いやぁ…………」
「……? 変なの」
何故、移動をしている間に腕輪のことを伝えられなかったのかというと、それは、ラーラとパリオットさんの二人が執拗に、この上なく執拗に語り続けてきた『恋愛小説』のせいだった。
人生で一度も味わったことがない『車酔い』を催すような意味不明の一言である専門用語と、寝込むレベルの頭痛を誘発させてくるような、主要人物達のカクカクシカジカ。
三角を超えた『六角形』の超歪な恋愛事情などなど。ぶっちゃけ、もうお腹いっぱいです。
そんな感じで、この村に到着するころには体力が底を突き、無意識に浮かべてしまっていた死んだ魚のような空虚な眼差しをなんとか元に戻して、馬に人参を送り、今に至る。
一応説明しておくと、薔薇騎士の接吻の本筋ストーリーは、主人公である薔薇騎士ユウメルと、ヒロインのアリエンヌ王女の純愛模様を描いている。
しかし、その二人とは関係のない人物達のサブストーリーがアレなのだ。
アレ。アレなんだ。が、そこを無視すれば読めないことは——僕は一生読まないぞと心に決めた——ないと思う。
まあ、そんなことは至極どうでもいいことだ。今重要なのは、この金の腕輪のことを現歌姫であるラーラに打ち明ける絶好のチャンスが到来しているこということ。
千年前に失われた宝具を僕が持っていると知った場合、どういう行動をしてくるか予測できない歌姫護衛の兵士達は宿屋にて待機中。今は僕とラーラの二人きり。
間違いなく、この話しをするなら今しかない。けど、かなり不安。
「…………はあ」
「もう、体調が悪いなら休めばいいじゃないの!」
「ああ、いや、そのぉ……」
「——? もしかして歩けなくなっちゃったの?」
「いや、歩けはするけどさ……」
「少し休む? 私に気を使わなくてもいいのよ」
久方ぶりに感じる、精神的な体力切れで顔色を若干だが悪くしてしまっている僕に、聞きたくなかった恋愛小説の話を止めなかったラーラが目敏く気付き、心配を口にする。そんな彼女の前で『言わなきゃ』と、ソワソワしてしまっている僕が意を決して口を開いた——その時。
「あ! 分かった!」
ギクッ。と肩を揺らした僕が咄嗟に顔を上げると、したり顔のラーラが前のめりの状態で人差し指を上げ、言う。
「ソラ、緊張してるんでしょ?」
ギクギクッ。分かりやすく顔に出る僕を見て、ラーラは「あはははは!」と面白くて耐えきれないとばかりに、疲れている僕とは対照的な、活気に満ちた笑い声を上げた。
「ソラ、大丈夫よ。私も緊張してるし、お揃いね」
「ああ、いや、まあ……ラーラも緊張してるんだ」
「うん。初めての聖歌祭だもの。そりゃあ緊張するわよ」
「——え? 初めて……? 聖歌祭が?」
どういうこと? 今回の聖歌祭が『初めて』ってことは、つい最近まで魔王を封印していたのは『前歌姫』であるボイラさんだったってことだよな。
あの年齢で最近まで現役だったのか、あの人。
まあ、パン一斤を平らげるほどの旺盛な食欲に、酒瓶を飲み干さんばかりの酒豪っぷり……目に見えて元気溌剌だし、その可能性は否定できないな。
「ええ。歌姫になって初めての聖歌祭。初めての魔王封印なの。ソラは知らなかったの?」
「……ボイラさんって、つい最近まで現役だったの?」
訝しげな表情をでそう問いかける僕を見ていたラーラは、数瞬の間を開けた次の瞬間、思いっきり唾を噴き出した。
「ぷっ——あはははは! 違うわよ。もうっ……ふふふっ。お婆ちゃんが現役だったのは私の前の前のことよ。私の前にはもう一人『若い歌姫』がいたの。その人もお婆ちゃんの弟子だったから、私の『先輩』に当たるってわけね」
「あ、ああ……そ、そうなんだ……」
前の歌姫という、オルカストラの全国民、延いては周辺諸国に住む人達も知っているだろう周知の事実を全くと言っていいほどに何も知らなかった僕が、何度目とも知れない無知を派手に晒してしまい、また赤っ恥を掻くのかと視線を泳がせながら内心ヒヤヒヤしていると——
「そっか……ソラは『リヴィラお姉ちゃん』のことを知らないのかぁ…………」
全然馬鹿にしてこない彼女に『あれ?』と思い、泳がせていた視線を向けると、さっきまで笑っていた彼女は笑顔を崩し、忘れられない感傷に浸るような寂しげな表情を浮かべていた。
彼女が言った『リヴィラお姉ちゃん』という呼び方からして、距離の近い間柄だったことが分かる。しかし、ラーラが醸している雰囲気からして、その『リヴィラさん』は二人——ラーラとボイラさん——と普通の別れ方をしていないことも、なんとなくだけど察せてしまった。
少しだけ開かれている小振りな口か吐き出される、この前の冷え込んだ夜とは違う無色透明の吐息。
それには隠し切れない悲しみの感情が込められており、いつも万人を照らす太陽のように明るかった彼女からは想像も付かないほど、夜闇を照らす満月を覆う暗雲を感じさせる表情をしていて、そんな彼女を見た僕は、発する声を喉奥に詰まらせたまま、何も言えなってしまった。
話を詳しく聞いていいのか。
兄弟や姉妹なんていなかった——家族仲も悪くなかった僕には分からないけれど。
何となく、ラーラはこの話を僕の方から聞いて欲しそうだなと思ってしまった。だから。
「…………あの、さ」
当初の目的をすっかり忘れ去った僕が意を決して話を聞こうとすると、白雲が流れゆく蒼穹を見上げていたラーラは急に立ち止まり、僕の言葉を遮るように言葉を口にした。
「リヴィラお姉ちゃんのこと——私のこと……聞きたい?」
緊張からか、震えてしまっている手を隠すように後ろ手を組んでいるラーラが、聞いて欲しそうに僕にそう言った。上目遣いをするラーラを見て、僕は困り顔をしてしまうも、聞く意思を確固とするように、深く、勢いよく——頷いた。
「うん。聞きたい」
「ふふっ——しょうがない。じゃあ、私とお姉ちゃんの話をしたげる。村長の家に着くまでに話し終えるから、それまでに緊張をほぐしてよね」
「分かった」
「それじゃあ、まずは——」
目的地に着くまでの時間を伸ばすために、さっきよりも短い歩幅で、二人並んで道を歩いていく。語るラーラの左を僕が耳を傾けながら歩き、僕の右を歩くラーラは聞き取りやすい澄んだ声音で、彼女の過去——息を飲むほどに壮絶な過去の話をした。
+ + +
人歴『一〇二七年』の秋頃。
私が六歳の誕生日を迎える一月ほど前に、私は色々とあって家族を失い、孤児になった。
独りになってしまった私を保護したオルカストラの兵士に連れられて、私は生まれて初めてミファーナに入都した。
最初はひどく落ち込んでいた私を励ますために、兵士の人たちがいろんなショーや、歌劇を見せに連れて行ってくれたけれど、それらで私が元気を取り戻すことは終ぞなかった。
そんな中、私の話を聞いてきた、幼い私でも知っている、皆んなの憧れの的——前歌姫であるボイラお婆ちゃんと、現歌姫であるリヴィラお姉ちゃんが、私のもとへとやって来たの。
『アンタが『ハープポア』のガキンチョかい』
幼い私が怯えるほどの鋭い眼光をぎらつかせて、背丈が低い私を物理的に見下ろしているお婆ちゃんがそう言うと、黒革のジャケットを袖を通さずに羽織り、至るところが破けているダメージジーンズを着こなし、威圧的な金色骸骨のピアスを両耳から垂らしている『ザ・ワイルド』っていう表現がぴったりな初対面の厳つい老婆を目の前にした私は、その恐怖から小刻みに震えてしまって、さっきの言葉の返事どころか、肯定するように頷くことすらできなかった。
その様子を見た短気の擬人化のような当時のお婆ちゃんは——多分、今でも同じ反応をする——ピキピキって額を鳴らしながら、固まったままでいる幼女の私に思いっきり『凄んだ』の。
『おいこら、ガキンチョ! まさかアタイの言葉の意味が分かんないのかい!? アンタの名前を聞いてんだよ!!』
『ひぃっ……!』
+
「え、ええ……? 子供相手でも、あの態度なの……?」
「大人のレディに成長した今の私でも、腰を抜かして怯え震えるって確信が持てちゃうくらい——あの時のボイラお婆ちゃんは超怖かったわ。うう……今でも震えそう」
+
そんなわけで、七歳になったばかりの幼少の私に対して、平然とガンを飛ばしてくる見ず知らずの老婆を前にした私は、案の定『涙目』になっちゃって、何も言えなくなってしまったの。
『ぼ、ボイラ母様、どうか落ち着いてください……どう見ても貴方に怯えてしまっているじゃありませんか……』
ワイルドな老婆にガンを飛ばされて、怯え震えている幼女。そんな『ワケワカメ』な変な空間の中に割って入ったのが、お婆ちゃんの『養子』で、歌唱の一番弟子だった、歌姫を引退したお婆ちゃんの跡を継いだ『当時の歌姫』である『リヴィラお姉ちゃん』だったの。
あの人はお婆ちゃんの付き添いでついて来ていたらしいけど、養母であり、歌の師匠でもあるボイラお婆ちゃんの横暴を見兼ねて、震える私の肩を優しく撫でながら膝を折って、涙目の私と視線を合わせてくれた。その優しい瞳を見せて安心させるように、私の頭を撫でてくれた。 お婆ちゃんとは正反対に優しかった、私の大切な大切な、たった一人のお姉ちゃん。
『ああ? なんで、初対面のアタイに怯えるってんだ』
『どう考えても、その見た目だと思います…………』
『チッ——屁っ放り腰は嫌いなんだがね。仕方ねえ。リヴィラ、アンタがコイツと話をしな』
『最初からそのつもりでした……』
『生意気言ってねえで、さっさと話を済ませな! アタイの時間は高いんだからね』
『はあ…………初めまして。私は『リヴィラ』って言うの。かわいい貴方のお名前を、私に教えてくれないかしら?』
これが『家族を失った』私と、私の『新しい家族』との出会いだった。
* * *
リヴィラお姉ちゃんと話をした後、孤児の私はお婆ちゃんの養子になる形で『オルガン』家に引き取られたの。
アンタには歌の才能があるって、唐突にお婆ちゃんに聞かされた私は、その日から毎日——リヴィラお姉ちゃんと一緒に『歌唱の鬼訓練』を受けさせられた。
『コラァ!! もっと腹に力を入れんかい!!』
『もう! ボイラ母様、ラーラに厳しすぎです!! そんなんじゃあ、この子が歌を嫌いになってしまいます!』
『うるせえ! 黙ってアタイの言うことを聞きな!!』
『ラーラ、疲れたらいつでも休んでいいのよ?』
『まだ、大丈夫……』
当時の私は、温かいご飯やふかふかのベッドを用意してくれたお婆ちゃんに心から感謝してた。けど、いつも鬼の形相で叱ってきて、毎度、歌の練習の時に怒ってくるもんだから、内心、お婆ちゃんのことが少し嫌いだったのよね。
それを顔に出すとお姉ちゃんと住める家を追い出されるかもって思って、なんとか耐えていたんだけど……いつも鬼の歌唱練習が終わった後に、抱きしめて、優しく慰めてくれるお姉ちゃんの胸の中で、私、ずっとワンワン泣いてたのよ。
『うぅぅぅ…………ぅぅうぅぅぅ……』
『大丈夫よ、ラーラ。私が抱き締めてあげるから……いっぱい泣いていいのよ。だから、安心してね』
『う、うぅ……ぐすっ……うううぅ……』
『大丈夫……ラーラの歌はとっても上手だもの。お婆ちゃんは誰でも『ああ』だから……気にしすぎちゃダメよ』
『うっぅぅ……お姉ちゃんっ…………』
『どうしたの、ラーラ。私はずっと一緒よ』
私は、厳しいお婆ちゃんとは正反対の、いつも優しくしてくれるリヴィラお姉ちゃんのことが大好きだった。
だから、お婆ちゃんの厳しさにも根を上げずに耐え続けることができたの。
お姉ちゃんが言った、ずっと二人で、ずっと一緒。
子供の私は、その言葉が伝える、普遍的な日常が終わるなんて微塵も疑っていなかったし、いつも優しく暖かな胸の鼓動を聞かせてくれるお姉ちゃんが『居なくなる』なんて、思ったりも、考えたりもしなかった……。
『四年ぶりですね。お久しぶりです——歌姫・リヴィラ』
『こちらこそ、お久しぶりです——マキシオ小隊長』
お姉ちゃんが変わってしまったと思えたのは、私が七歳の時だった。
二五七回目の聖歌祭が行われる二月前に、前線で魔王と戦ってくれる聖騎士が大船に乗って、オルカストラに派遣されてきた。
主役である歌姫のリヴィラお姉ちゃんはもちろん、その師匠と、妹弟子である私の三人で、遥々ここまでやってきた五人の聖騎士達と挨拶を行ったの。
そこで——リヴィラお姉ちゃんの、ある『異変』を感じた。
『…………お姉ちゃん……?』
『ケッ——アタイ達は先に行くよ。ラーラ、ついてきな』
『——? はい……』
四年ぶりに再開できて、目に見えて嬉しそうな男女。それを成長した今の私が見たら、すぐに『二人の仲』を察することができたと思う。
だけど、当時七歳の私には何が何だか分からなかった。
だから、お婆ちゃんの嫌な顔を怪訝に思いつつも私は差し出された手を握って、その場を後にしたの。ただ、お姉ちゃんを盗られるって心配を抱えて。
* * *
人歴『一〇三三年』の初冬。四年に一度の聖歌祭が終わってしばらくしてから、国の重要人物達や、私たち家族を一堂に集めたお姉ちゃんは自分の思いを吐露した。
『…………』
覚悟を決めた表情で『衝撃的』なことを言ったお姉ちゃんに対して、お婆ちゃんは腕を組んで無表情で黙り込んだ。
『アンタを助け、生かした国を捨てるのか!? お前は歌姫なんだぞ!? その立場を理解しているのかッッ!?』
声を荒げてそう捲し立てたのは、疑似宝具の『聖銀の腕輪』を代々守護している『ラッパリオ一族』の長だった。
『国を守り、支える重要な役目を放棄して、ただの色恋に現を抜かすって!? 今すぐあの聖騎士を連れて来い!? 奴は国家転覆罪に値するだろう!!』
皺だらけの顔を、燃え上がる憤怒で赤くしながら、法的決定権を持っていないにも関わらず、あの聖王国の重要戦力に当たる『聖騎士』に対して死刑宣告を吠えるのは、総務大臣を長年務めている、何時たりとも顔色一つ変えない、ポーカーフェイスを貫いていた『老獪』だった。
いつも落ち着き払い、貼り付けた笑顔を見せていた大人達が、十一歳の私の前で怒りを露わにして、私の大切なお姉ちゃんを責め立てていた。その状況を作ったのは、紛れもなくお姉ちゃん自身で。私はどうすればいいのか分からずに、怒れる大人達の輪の中に入って声を上げた。
『み、みんな落ち着い——』
『ただの子供は黙ってな!!』
『きゃっ……!』
『いいかい、リヴィラ!! アンタは歌姫だ! 国民全員が憧れる『歌姫』なんだ! 国の要だ! オルカストラの心臓だ! それを理解してるのか——ッッッ!?』
怒髪天を衝いている『オカリナ一族』の長である老婆の服の裾を引っ張った涙目の私は、必死に『お姉ちゃんを責めないで』って訴えた。
けど、その老婆は私を振り払ってお姉ちゃんに掴み掛かろうとしたの。
あの時、あの場所で、次期『歌姫候補』という話が上がっていた私に『上っ面』だけ優しくしてくれていた大人は、儚い幻想だったかのように、私の心から完全に消え去った。
あの時の、あの場所には、宝具の守護者や大臣たちを含めて——冷静な大人は居なかった。
ただ、一人を除いて……。
『チッタア——静かにしな、バカちんどもッッッ!!』
強引に振り払われて尻餅をつきかけていた私を支えたのは、今ままで腕組みしながら静観していた『ボイラお婆ちゃん』だった。
あの人の大豪声の一喝で、荒れ狂っていた全員が、水を打たれたみたいに静かに、冷静を取り戻した。
『リヴィラ、正直に答えな。アンタは孤児だった自分を助け、生かした国を捨てて——愛した男と行くんだね?』
『————はい。私は、彼と共に行きたい。そう、心から言えます』
『…………そうかい。それじゃあ『行け』よ。私が許す』
『な、何を言っておるのだ、ボイラ!! リヴィラが居なくなれば、数千年に及ぶ、長き歌姫の歴史に空白が——』
『さっきから『キャミキャミ』五月蝿えんだよ、糞ジジイッ!! すぐにポックリ逝くお前が、若え女を止めてんじゃねえ!! それとも、今すぐ私の声で死にてえか!?』
『ぅ…………』
総務大臣を務めている老獪は、お婆ちゃんの『デスボイスの大一声』を浴びて、目に見えて縮こまっちゃってさ、その後は気後れして何も言えなくなってしまったの。
その時かな——私がお婆ちゃんに『憧れる』ようになったのは。
『ボイラ母様——』
『ウダウダ五月蝿え! お前はもうアタイの『娘』じゃねえ。だからさっさとアタイの国から出ていきな!!』
『お、オルカストラはボイラ様の国では——』
『口答えすんじゃねえ、ラッパ!! アタイはもう話す気分じゃねえんだ。解散だ、解散!! 死にてえなら残ってもいいが、その時はマジで歌い殺すからね!!』
その後は、さっきのが嘘みたいにお祭り騒ぎでさ。お婆ちゃんは有言実行とばかりに喉の調子を整え始めて——お婆ちゃんが『嘘を吐かない』って長年の付き合いで知ってる大人達は蜘蛛の子を散らすように逃げていっちゃった。
戸惑いっぱなしだった私は、その場を泣きそうな顔で後にするお姉ちゃんを追いかけて、最後の話をしようとした。
けれど、私の手を掴んだお婆ちゃんに止められてしまった。
『あそこにいるのは赤の他人だ。だから、お前が何かを話すことはねえ。黙って見送りな』
『…………もう、会えない……?』
『……会えねえだろうな。だけど、もしかしたら、世界を吹く風に乗ってアンタの『歌』を聴くことがあるかもしれねえ。いいかい、ラーラ。今日からお前が『歌姫』だ。これからビシバシ鍛えるから覚悟して、今日はもう寝な』
『…………うん。絶対、お姉ちゃんに聴かせる』
『ハッ——お姉ちゃんじゃねえって言ってんだろ』
『ううん。お姉ちゃんは、ずっと、お姉ちゃんだから』
『…………そうかい。オラ、帰るぞ』
『…………はい』
これが、私とお姉ちゃんの最後。これが、リヴィラお姉ちゃんを最後に見た昔日。
降る春の日差しに照らされるお姉ちゃんの向こうには、あの人が愛した人が待っている。その眩しい光景を遠くから見届けた私は何を思ったのか。今でも思い出せる。
「大切な人が居なくなるのは悲しい。でも、それ以上に、大切な人が、私達よりも、世界で一番大切な家族を見つけたということが嬉しかった。うん。私はお姉ちゃんが、羨ましかった」




