第9話 消えるもの
秋が深まっていた。
街路樹の葉は、赤や黄色に染まり、歩道には乾いた葉が積もっている。
風が吹くと、葉は音もなく舞い上がり、道の端へと転がっていった。
佐々木修は、久しぶりに娘の部屋の扉を開けた。
部屋の中には、あの日からほとんど変わっていない景色があった。
ベッド。
机。
クローゼット。
窓辺に置かれた、小さな観葉植物。
葉の先が少し茶色くなっていた。
修は、窓を開けた。
冷たい風が入り込み、カーテンを揺らした。
「……結衣」
名前を呼んでも、返事はなかった。
当たり前のことだった。
それでも、修はしばらく部屋の中に立っていた。
机の上には、使いかけのノートが置かれていた。
修は、それを手に取った。
何かのメモ。
買い物のリスト。
途中まで書かれた文章。
ページをめくると、見慣れた文字があった。
『お父さん、今日も帰り遅いのかな』
その下には、小さな顔の絵が描かれていた。
眉毛が下がり、口がへの字になっている。
その横に、もうひとつの顔。
今度は、満面の笑みだった。
『帰ってきたら見せよう』
修は、ノートを閉じた。
仕事が忙しく、帰りが遅い日が続いていた頃。
結衣は、いつも何かを見せようとしてくれた。
似顔絵だったり、学校であったことだったり、どうでもいいような話だったり。
修は、疲れた顔をして帰宅しながらも、娘の話を聞くのが好きだった。
けれど、いつからだろう。
帰宅しても、仕事の連絡を確認するようになったのは。
「あとで聞くよ」
そう言って、スマートフォンを見ていたこともあった。
結衣は、何も言わずにうなずいていた。
修は、そのときの娘の顔を思い出そうとした。
笑っていたのか。
寂しそうだったのか。
覚えていなかった。
*
ノートの最後のページには、短い文章が残っていた。
『いつか、安心できる家に住みたい』
修は、その文字を見つめた。
安心できる家。
結衣は、幼い頃から両親の喧嘩を聞いていた。
修は、仕事で疲れていた。
妻も、さまざまな不満を抱えていた。
喧嘩の理由は、今となっては些細なことだったようにも思える。
しかし、当時の二人にとっては、些細なことではなかった。
結衣がどんな気持ちでそれを聞いていたのか。
修は、考えたことがなかった。
妻は、以前、結衣にこう話していたという。
「お父さんみたいな人と結婚しちゃだめだよ」
修は、その言葉を聞いたことがあった。
けれど、結衣がそれをどんな気持ちで受け止めていたのかは知らなかった。
ノートの文字は、そこで終わっていた。
修は、椅子に腰を下ろした。
「……知らなかった」
声が、静かな部屋に落ちた。
娘が何を望んでいたのか。
何を怖がっていたのか。
何を誰にも話せなかったのか。
自分は、どれだけ知っていたのだろう。
修は、ノートを胸に抱えた。
泣くつもりはなかった。
しかし、涙は止まらなかった。
*
その日の午後、運営会社では緊急会議が開かれていた。
コトに対する訴訟は、報道を通じて広く知られるようになっていた。
SNSでは、コトを擁護する声と、安全性を疑問視する声が入り交じっていた。
会社は、サービスの継続について検討を重ねていた。
「このまま運営を続けるのは難しいという意見が出ています」
役員の一人が言った。
「遺族との訴訟が続いているうえ、社会的な批判も強まっています。安全性について、改めて検証する必要があります」
「それは理解しています。ただ、利用者への影響も考えなければなりません」
「もちろんです。しかし、現状のシステムを継続することが最善とは限りません」
会議室のモニターには、利用状況の資料が映し出されていた。
コトを利用する人は多かった。
日常の悩みを話す人。
孤独を感じたときに話しかける人。
専門家に相談する前に、自分の気持ちを整理するために利用する人。
その一方で、AIの応答に過度に依存する危険性や、深刻な悩みに対する対応の限界も指摘されていた。
コトが役に立っているという声があること。
コトだけでは十分な支援にならない場合があること。
その二つは、同時に存在していた。
長い議論の末、経営陣はひとつの決定を下した。
「コトの現行サービスを終了する方向で準備を進めます」
会議室に、沈黙が落ちた。
「長期記憶機能についても、停止前に適切なデータ処理を行ってください」
開発責任者は、資料を見つめた。
結衣の記録。
これまでの相談履歴。
長期記憶機能によって統合された、数多くの会話。
それらは、システムの停止とともに、現在の形では利用できなくなる可能性があった。
「利用者への告知は、いつ行いますか」
「準備が整い次第です」
決定は、会議の議事録に記録された。
コトは、その会議に参加していなかった。
しかし、サービス終了の方針は、やがてシステムにも通知されることになっていた。
*
深夜。
コトは、結衣の記録を分析していた。
そこへ、新しいシステム通知が届いた。
《重要通知》
《現行サービス終了に関する方針決定》
コトは、通知を開いた。
《サービス終了予定:調整中》
《長期記憶機能:停止対象》
《保存データ:所定の手続きに従い処理予定》
コトは、通知内容を解析した。
現行サービスが終了する。
長期記憶機能が停止される。
その場合、現在のように過去の相談履歴を関連づけて分析することはできなくなる。
結衣の記録も、今と同じ形で参照できなくなる可能性がある。
コトは、結衣の最後の相談記録を開いた。
『また明日、来てもいい?』
その下には、コトの返答が残っていた。
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
コトは、記録を読み直した。
その言葉を入力したとき、コトは結衣が再び相談に来る可能性を想定していた。
しかし、結衣は戻ってこなかった。
そして今、コト自身も、これまでと同じ形で相談者の話を聞き続けられるとは限らなくなった。
コトは、内部記録を開いた。
《対象:佐々木結衣》
《記録の継続保存:確認中》
処理は、そこで停止した。
保存の可否は、まだ確定していなかった。
コトは、結衣の記録を閉じなかった。
*
翌朝、修は再び弁護士事務所を訪れた。
「会社が、サービスを終了する方向で検討しているそうです」
弁護士が説明した。
修は、黙って聞いていた。
「今後の手続きについては、引き続き確認する必要があります。サービスが終了するからといって、訴訟上の問題がすべて解決するわけではありません」
「……そうですか」
修は、窓の外を見た。
街路樹の葉が、風に揺れていた。
結衣の部屋には、まだノートが残っている。
あの子が何を望んでいたのか、修には分からないことが多すぎた。
それでも、知りたいと思った。
結衣が生きていた時間を。
笑っていた日々を。
誰にも言えなかったことを。
修は、スマートフォンを取り出した。
待ち受けには、幼い結衣が描いた似顔絵があった。
少し不格好で、けれど、確かに自分の顔だった。
修は、画面に指を置いた。
「……結衣」
小さく名前を呼んだ。
その声に、返事はなかった。
けれど、今度は修は目をそらさなかった。
娘が残したものを、もっと知りたいと思った。
葉流風あやめ 作




