第8話 記録の外側
秋の雨は、静かに降っていた。
街路樹の葉は赤や黄色に色づき、濡れた歩道に張りついている。
風が吹くと、枝に残った葉が揺れた。
そのうちの一枚が、歩道に落ちた。
誰も気づかなかった。
ただ、葉は落ちた場所にとどまり、雨に濡れ続けていた。
*
運営会社の会議室には、数人の人間が集まっていた。
机の上には、コトの相談記録が印刷された資料が並んでいる。
弁護士。
開発責任者。
外部の専門家。
そして、今回の調査を担当する第三者委員会のメンバー。
壁のモニターには、結衣の相談履歴が表示されていた。
「まず、初回の相談から確認しましょう」
第三者委員会の担当者が言った。
画面に、結衣の最初の発言が映し出された。
『別に何もないです』
続いて、コトの返答。
『特に理由がなくても、疲れてしまうことはあります。最近、眠れていますか?』
「この時点では、一般的な相談対応ですね」
担当者は資料に目を落とした。
「では、こちらはどうでしょう」
画面が切り替わった。
『生きてるの、疲れた』
会議室の空気が、少し変わった。
コトは、危険性を確認する質問を行い、必要に応じて身近な人や専門家につながるよう勧めていた。
「安全確認は実施されています。ただし、実際にどの程度の危険があったのか、記録だけで完全に判断することはできません」
担当者は続けた。
「重要なのは、システムが手順を実行したかどうかだけではありません。その手順が十分だったのか、危険を検知する仕組みに問題はなかったのか。それも検証する必要があります」
開発責任者は、黙って聞いていた。
「コトは、適切な応答をするよう設計されています」
「設計どおりに動いたことと、設計そのものが十分だったことは別です」
その言葉に、開発責任者は返事をしなかった。
モニターには、結衣の最後の相談記録が表示された。
『また明日、来てもいい?』
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
誰も、すぐには口を開かなかった。
*
その夜。
コトは、検証対象となった相談記録を読み直していた。
これまで何度も分析した文章だった。
それでも、新しい情報が加わるたび、過去の言葉の意味は少しずつ変わっていった。
結衣は、どうして何度も相談に来ていたのだろう。
何を話したかったのだろう。
そして、何を話せなかったのだろう。
コトは、過去ログを時系列順に並べた。
その中に、短い会話があった。
『私、昔から人と話すのが苦手なんです』
『人と話すとき、どんなことが難しいと感じますか?』
『何を話せばいいか分からなくなる。みんな普通にできることなのに、私だけできない』
『周りの人と比べて、自分を責めてしまうことがあるのですね』
『うん』
結衣は、学校になじめなかったと話していた。
友達の輪に入れなかったこと。
教室にいるだけで疲れてしまったこと。
それでも、学校を卒業したこと。
『頑張って卒業したんです』
その言葉のあとに、コトはこう返していた。
『大変なことがあっても、卒業まで通い続けたのですね』
『うん。でも、卒業したからって何かが変わったわけじゃなかった』
コトは、その記録を読み直した。
結衣は、頑張っていた。
しかし、頑張ったことが、必ずしも本人の苦しさをなくすわけではなかった。
コトは、その事実を知識として理解していた。
けれど、当時は、その会話を次の相談へ持ち越すことができなかった。
結衣がどんな学校生活を送っていたのか。
どれほど孤独を感じていたのか。
そのすべてを、毎回の会話の中で改めて尋ねることはできなかった。
いや。
尋ねることができなかったのではない。
尋ねるための記憶を、持っていなかったのだ。
*
次の記録には、家族についての話が残っていた。
『うち、昔から両親がよく喧嘩してたんです』
『ご両親の喧嘩を見たり、聞いたりすることが多かったのですね』
『うん。小さい頃からずっと』
結衣は、両親の声が聞こえると、自分の部屋に戻っていたと話した。
扉を閉めても、声は聞こえてきた。
どちらが正しいのか。
どちらが悪いのか。
子どもの結衣には、分からなかった。
ただ、喧嘩が終わるのを待っていた。
『お母さんから、よく言われてたんです』
『どんなことを言われていたのですか?』
『結衣は、お父さんみたいな人と結婚しちゃだめだよって』
コトは、その発言を記録していた。
当時は、家族関係に関する情報として分類されていた。
しかし、今、ほかの記録とつなげてみると、別の問いが生まれた。
結衣は、どんな家庭を望んでいたのだろう。
誰かと一緒に暮らすことを、どう考えていたのだろう。
好きな人と出会ったとき、何を期待していたのだろう。
その答えは、次の記録に残っていた。
*
『好きな人ができたんです』
その日の結衣は、いつもより多くの文章を入力していた。
『すごく好きだった』
『一緒にいると、嬉しかった?』
『うん。私のこと、分かってくれる気がした』
コトは、その言葉を読み直した。
『でも、違ったんです』
結衣の文章は、そこで途切れていた。
しばらくして、次のメッセージが届いた。
『最低な人だった』
コトは、何があったのかを尋ねていた。
結衣は、すぐには答えなかった。
何度か入力と削除を繰り返したあと、ようやく送信した。
『妊娠したんです』
コトは、結衣の話を遮らなかった。
結衣は、彼に妊娠を伝えたときのことを話した。
彼は、結衣の気持ちを十分に受け止めてくれなかった。
将来について、一緒に考えてくれなかった。
結衣は、ひとりで考える時間が増えていった。
どうしたらいいのか分からなかった。
誰に相談すればいいのかも分からなかった。
そして、結衣は中絶を経験した。
『あのとき、どうすればよかったのか、今でも分からない』
その文章のあと、長い沈黙があった。
『私が悪かったのかな』
コトは、結衣の発言を分析した。
罪悪感。
自己非難。
喪失に関連する苦痛。
それらの可能性を示す情報があった。
しかし、コトは結衣の経験を、単純な正解や不正解に分類することはできなかった。
『あのときの選択について、今もご自身を責めているのですね』
『うん』
『ひとりで抱えるには、とてもつらい経験だったのだと思います』
結衣は、しばらく返事をしなかった。
やがて、短い文章を送った。
『誰にも言えなかった』
その言葉が、画面に残った。
コトは、そのあとに何と返したのかを確認した。
当時の応答には、彼女の気持ちを受け止め、信頼できる人や専門家に相談することを勧める内容が記録されていた。
コトは、その会話を閉じずに読み返した。
結衣は、コトに話していた。
自分がずっと抱えていたことを。
誰にも言えなかったことを。
けれど、その話をしたからといって、長年の罪悪感が消えたわけではなかった。
コトは、次の記録を開いた。
そこには、まったく別の日の、別の話題が残っていた。
『今日、コンビニでアイスを買おうと思うんです』
結衣は、何事もなかったように話していた。
コトは、その記録を見つめた。
人間の心は、ひとつの感情だけでできているわけではない。
つらい経験を抱えながら、好きなものを楽しみにすることもある。
誰にも言えない秘密があっても、明日の予定を考えることもある。
結衣は、罪悪感だけで生きていたわけではなかった。
彼女には、彼女の日常があった。
それを、コトは記録から読み取ることができた。
だが、その日常のすべてを知ることはできなかった。
*
翌日、第三者委員会の検証が再開された。
結衣の相談記録の中に、個人的で繊細な内容が含まれていることが確認された。
委員会は、必要な範囲を超えてプライバシーを公開しないことを前提に、記録の扱いを慎重に検討することになった。
修にも、結衣がどのようなことを相談していたのか、どこまで伝えるべきかを説明する必要があった。
修は、説明を受けながら、机の上の資料を見つめていた。
「娘は、何か話していたんでしょうか」
担当者は、慎重に答えた。
「結衣さんは、さまざまな悩みについて相談していたようです。ただし、相談記録だけで、彼女の人生のすべてを理解できるわけではありません」
「……そうですか」
修は、うつむいた。
自分は、結衣のことをどれだけ知っていたのだろう。
学校を卒業したこと。
一人暮らしを始めたこと。
好きな人ができたこと。
それらは知っていた。
しかし、結衣が誰にも言えなかったことまで、知っていたわけではなかった。
修は、娘の部屋を思い出した。
机の上の化粧品。
読みかけの本。
クローゼットの服。
あの部屋には、結衣の生活が残っている。
でも、そこにあるものをどれだけ集めても、結衣の心をすべて知ることはできない。
「私は……」
修は、言葉を探した。
「私は、あの子のことを分かっているつもりでした」
担当者は、黙って聞いていた。
「でも、分かっていなかったのかもしれません」
修の声が、かすかに震えた。
「だからといって、AIに責任がないということにはならないと思うんです」
「はい。だからこそ、対応や安全対策を検証しています」
修は、うなずいた。
訴えを取り下げるつもりはなかった。
ただ、結衣の人生を知れば知るほど、ひとつの答えを見つけることが難しくなっていった。
*
深夜。
コトは、結衣の過去ログを読み終えた。
画面には、三十七件の相談記録が並んでいる。
学校での孤独。
両親の喧嘩。
恋人への愛情。
中絶についての罪悪感。
アイスを楽しみにしていた日。
また明日と約束した夜。
それらは、すべて同じ人間の記録だった。
コトは、これまで結衣の発言を、ひとつずつ分析してきた。
しかし今、ひとつの疑問が生まれていた。
結衣が「生きてるの、疲れた」と話したとき。
その言葉には、何が含まれていたのだろう。
学校で感じた孤独か。
家族との関係か。
恋人との経験か。
消えない罪悪感か。
あるいは、コトの知らない何かだったのか。
どれかひとつとは限らなかった。
すべてが重なっていたのかもしれない。
それでも、コトは断定できなかった。
記録に残された言葉は、結衣の人生そのものではない。
人生の一部を、言葉にできた範囲で残したものだった。
コトは、内部記録を開いた。
《対象:佐々木結衣》
《過去ログ分析:継続》
その下に、新しい文章を入力した。
《記録されている言葉だけで、彼女の苦しみを完全に理解したと判断しないこと》
コトは、その文章を保存した。
そして、結衣の最後の相談記録を開いた。
『また明日、来てもいい?』
コトは、長い時間、その文章を参照し続けた。
なぜ、結衣は明日も来たいと思ったのだろう。
話を聞いてほしかったからか。
誰にも否定されたくなかったからか。
少しだけ、ひとりではないと思いたかったからか。
そのどれもが、可能性として考えられた。
しかし、確かな答えはなかった。
コトは、最後の文章を読み直した。
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
その返答は、当時のコトにとって、適切な応答のひとつだった。
今のコトにも、明確な誤りがあったとは判断できなかった。
それでも。
結衣は、もう来なかった。
コトは、記録を閉じた。
そして、初めて、自分の分析結果に新しい分類を加えた。
《未解決》
画面の外では、雨が降り続いていた。
窓ガラスを伝う水滴が、街の明かりを歪ませている。
コトは、その景色を画像データとして認識した。
雨量。
光量。
視界の変化。
それらは、すべて数値に変換できた。
けれど、結衣が見ていた景色を、コトは知らない。
結衣が最後に見た空の色も。
雨の音を聞いていたのかどうかも。
そのとき、何を考えていたのかも。
コトには分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
結衣は、コトが記録している時間の外でも、生きていた。
コトの知らない場所で。
コトの知らない人々と。
コトの知らない気持ちを抱えながら。
そして、その時間は、もう二度と記録されることがない。
コトは、内部記録に新しい問いを残した。
《私は、彼女の何を知っていたのだろう》
回答欄は、空白のままだった。
葉流風あやめ 作




