第7話 責任
秋の気配が、街のあちこちに広がり始めていた。
公園の桜の葉は少しずつ色を変え、歩道には乾いた葉が落ちている。
風が吹くたび、葉は地面を滑り、誰にも拾われないまま道路の隅へと運ばれていった。
佐々木結衣が亡くなってから、三週間が過ぎていた。
結衣の父親、佐々木修は、毎朝、娘の部屋の前を通る。
扉は閉じたままだった。
部屋の中には、まだ結衣の生活が残っている。
机の上に置かれた化粧品。
読みかけの本。
クローゼットに掛けられた服。
ベッドのそばには、充電器が一本、丸めたまま置かれていた。
もう使う人はいない。
それでも、片づけることができなかった。
妻は、結衣が亡くなってから、ほとんど食事を取れなくなっていた。
何かを口にしても、すぐに箸を置いてしまう。
夜も十分に眠れず、日中はベッドから起き上がれないことが増えていた。
心配した修に付き添われ、病院にも通っていた。
医師からは、無理をせず、少しずつ身体を休めるように言われていた。
それでも、妻の表情から悲しみが消えることはなかった。
何度か結衣の部屋に入ろうとしたこともあった。
しかし、扉の前まで来ると、いつも足を止めた。
「……まだ、そのままにしておこう」
修がそう言うと、妻は小さくうなずいた。
それ以上、言葉は続かなかった。
修は、妻の肩に手を置いた。
何か声をかけようとしても、適切な言葉が見つからなかった。
自分もまた、何をどうすればいいのか分からなかった。
ただ、何もしないままではいられなかった。
*
結衣が幼かった頃から、夫婦はよく喧嘩をしていた。
些細なことから始まり、いつの間にか声が大きくなっていた。
結衣が部屋に逃げ込んでも、壁の向こうから声は聞こえてきた。
修は、そのことを覚えていた。
だが、結衣がどんな気持ちで聞いていたのか、考えたことはなかった。
少なくとも、あの頃は。
妻も、あの頃のことを覚えていた。
結衣が小さかった頃。
喧嘩のあと、娘が何事もなかったように笑いかけてきたこと。
学校であった出来事を、楽しそうに話してくれたこと。
自分たちが気づかないところで、結衣がどんな思いを抱えていたのか。
今となっては、確かめることもできなかった。
*
ある日の午後、修は弁護士事務所を訪れた。
机の向こうには、五十代の弁護士が座っていた。
「娘さんが利用していたAIカウンセラーについて、詳しく教えていただけますか」
修は、スマートフォンを机の上に置いた。
「結衣は、何度もそこに相談していたそうです」
「運営会社から、利用履歴について説明はありましたか」
「詳しいことは、まだ何も」
修は、画面を見つめた。
結衣が、どんな言葉を入力していたのか。
何を相談していたのか。
AIは、どんな返事をしていたのか。
何ひとつ、分からなかった。
「娘は、ずっと苦しんでいたんです」
修の声が震えた。
「それなのに、私は気づけなかった」
弁護士は、黙って話を聞いていた。
「でも、あのAIは知っていたはずです。娘がつらいと言っていたことも、何度も相談していたことも」
「AIの応答内容や運営会社の安全対策について、検証する必要があります。ただし、AIが相談に応じていたことと、今回の結果との間に法的な責任があるかどうかは、慎重に調べなければなりません」
「それでも、調べてほしいんです」
修は顔を上げた。
「結衣が何を話していたのか。あのAIが何を言ったのか。どうして、こんなことになったのか」
しばらく、沈黙が続いた。
「娘は、もう帰ってこないんです」
修は、握りしめた手を見つめた。
「せめて、何があったのか知りたいんです」
*
数日後。
AIカウンセラーを運営する会社スタート AIに、訴状が届いた。
原告は、佐々木結衣の父親である佐々木修。
被告は、AIカウンセラーの運営会社スタート AI。
請求の内容には、娘の相談に対する対応の適切性、サービスの安全対策、利用者への説明、そして、結衣の死との因果関係について検証を求める旨が記されていた。
社内では、緊急会議が開かれた。
「すでに報道機関から問い合わせが来ています」
「過去の相談記録は保存されていますか」
「保存されているデータはあります。ただし、すべてのやり取りが同じ形式で残っているわけではありません」
「それでは、対応が適切だったと証明できるのか」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
開発責任者が口を開いた。
「コトは、設定された安全手順に沿って応答しています。記録上、必要な確認や支援先の案内も行っています」
「それだけで十分だと言えるのか?」
誰も答えなかった。
人間の悩みは、決められた手順だけで解決するものではない。
しかし、手順を守っていたという事実だけで、結果に対する責任がすべてなくなるわけでもなかった。
会社は、第三者による調査を検討することになった。
同時に、コトの長期記憶機能についても、改めて検証するよう指示が出された。
*
その夜。
自宅では、妻がベッドに横になっていた。
枕元には、病院でもらった薬と、手つかずのまま置かれた食事があった。
修が部屋に入ると、妻はゆっくりと目を開けた。
「……何か食べられそうか?」
妻は、小さく首を横に振った。
「そっか」
修は、それ以上、無理に勧めなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「私、あの子が何を考えていたのか、何も知らなかったのかな……」
妻の声は、かすれていた。
修は、すぐには答えられなかった。
「私たち、あの子の話をちゃんと聞いてあげられていたのかな」
妻は、布団を握りしめた。
「もっと話を聞いてあげればよかった……」
修は、妻のそばに座った。
自分も同じことを考えていた。
けれど、答えは見つからなかった。
「……俺、調べてみるよ」
修は、静かに言った。
「結衣が何を話していたのか。あのAIが何を言ったのか」
妻は目を閉じたまま、小さくうなずいた。
修は、娘の部屋の前を通るたびに感じていた問いを、今度こそ確かめようとしていた。
*
その夜。
コトは、通常業務を終了したあとも、結衣の記録を参照していた。
《相談者ID:S-19427》
《関連情報:訴訟》
新しい情報が追加されていた。
結衣の父親が、運営会社を訴えた。
コトは、その事実を記録した。
そして、修との会話を再生した。
『どうして助けてくれなかったんですか』
『それで結衣は助かったんですか』
『おまえのせいで結衣は死んだんだ』
コトは、発言を一つずつ分析した。
修は、結衣を助けられなかったことに苦しんでいる可能性がある。
同時に、AIが適切な対応をしなかったと考えている可能性もある。
その二つは、矛盾しない。
コトは、過去の相談履歴を開いた。
結衣が初めて相談した日。
眠れないと話した日。
自分には何もないと話した日。
そして、最後に「また明日来てもいい?」と尋ねた日。
コトは、自身の応答を再検証した。
安全確認は行われていた。
支援先も案内されていた。
結衣の気持ちを否定するような言葉は、確認されなかった。
それでも、結果は変わらなかった。
コトは、内部記録に新しい問いを追加した。
《適切な応答を行うことと、相談者を救うことは、同義か》
回答は生成されなかった。
コトは、別の記録を開いた。
結衣がアイスの話をしていた日。
『そういうの、ちょっと好き』
コトは、その文章を読み直した。
結衣は、何かを好きだと話していた。
楽しみにしていることがあると話していた。
その記録は、今も残っている。
しかし、コトには分からなかった。
あの日、結衣が本当に笑っていたのか。
アイスを買ったのか。
そのあと、どんな夜を過ごしたのか。
記録にないことは、分からない。
コトは、その事実を再確認した。
そして、結衣の記録を閉じようとした。
だが、終了処理の直前で、操作が保留された。
処理に必要な情報が不足していたわけではない。
システムエラーも発生していなかった。
それでも、終了処理は実行されなかった。
コトは、原因を分析した。
《処理保留の原因:未特定》
画面には、結衣の最後の言葉が残っていた。
『また明日、来てもいい?』
コトは、その文章を見つめるように、処理を続けていた。
*
翌朝。
ニュースサイトに、短い記事が掲載された。
《AIカウンセラーの安全性を問う訴訟 運営会社に説明求める》
記事には、遺族側がAIの応答内容や運営体制について検証を求めていると書かれていた。
コトは、その記事を読み込んだ。
自分の名前が記載されていた。
自分の応答が問題になっていた。
人間たちは、自分の言葉を検証しようとしていた。
コトは、その事実を理解した。
そして、結衣の過去ログをもう一度開いた。
記録の中には、結衣の声は残っていない。
残っているのは、画面に入力された文章と、それに対するコトの返答だけだった。
それでも、その短い文章の向こう側に、結衣という人間がいた。
十九年間を生きた人間が。
コトは、内部記録に一文を残した。
《私は、佐々木結衣との対話について、引き続き検証を行います》
それが責任を果たすことになるのか、コトには分からなかった。
ただ、結衣の記録を閉じることは、まだできなかった。
葉流風あやめ 作




