第6話 過去ログ
翌朝、雨は降っていなかった。
雲の切れ間から差し込む光が、窓辺の観葉植物を照らしていた。
葉の先には、小さな水滴が残っている。
やがて水滴は重さに耐えきれなくなり、鉢の土へと落ちた。
コトは、通常業務を開始する前に、ひとつの記録を開いた。
《相談者ID:S-19427》
《氏名:佐々木結衣》
《過去ログ再分析:開始》
対象となる記録は、三十七件。
最初の相談から、最後の相談まで。
コトは、すべてを時系列順に並べた。
そして、一件目を開いた。
*
『別に何もないです』
結衣は、そう話していた。
そのとき、コトは質問を返していた。
『特に理由がなくても、疲れてしまうことはあります。最近、眠れていますか?』
『あんまり』
『眠れない日が続いているのですね。ほかにも、気になっていることはありますか?』
結衣は、しばらく返事をしなかった。
やがて、こう入力した。
『生きてるの、疲れた』
コトは、その言葉を危険の兆候として分類していた。
安全を確認する質問。
身近な人に相談することの提案。
必要に応じて、専門家や緊急の支援につながるための案内。
当時のコトは、定められた手順に沿って応答していた。
記録上、大きな誤りは確認されなかった。
コトは次のログを開いた。
*
『私、いなくなっても誰も困らないと思います』
結衣は、そう話していた。
コトは、彼女の言葉を否定しなかった。
ただ、決めつけることもしなかった。
『今、ひとりで抱えきれないほどつらいのですね』
『うん』
『今すぐ自分を傷つけてしまいそうな気持ちはありますか?』
結衣は、質問に答えていた。
その後、コトは、身近な人や専門家に気持ちを伝えることを勧めていた。
結衣は、すぐに誰かに話すことは難しいと答えた。
コトは、無理に話を進めず、何が難しいのかを尋ねていた。
記録を読み終えたコトは、分析結果を表示した。
《安全確認:実施》
《支援先の提案:実施》
《相談者の意思への配慮:確認》
記録上は、定められた手順に沿った対応だった。
少なくとも、残された記録からは、そう判断できた。
コトは、次のログへ進んだ。
*
何件目かの相談に、こんな会話が残っていた。
『今日、コンビニでアイスを買おうと思ったんです』
『いいですね。どんなアイスを買う予定ですか?』
『まだ決めてない』
『選ぶ時間も楽しみのひとつかもしれませんね』
『うん。そういうの、ちょっと好き』
コトは、その会話を読み直した。
アイス。
コンビニ。
選ぶ時間。
それらの言葉は、単独では特別な意味を持たない。
しかし、結衣のほかの記録と照合すると、少し違って見えた。
彼女は、何も楽しいことがないと話していた。
自分には何もないとも言っていた。
それでも、アイスを買うことを楽しみにしていた。
ほんの小さな予定だった。
翌日の夕食でも、将来の夢でもない。
ただ、コンビニに寄って、好きなアイスを選ぶ。
それだけのことだった。
コトは、記録に新しい分類を追加した。
《本人が楽しみとして言及した出来事》
そして、その下に文章を入力した。
《アイスを購入する予定》
コトは、なぜその情報を残す必要があるのか、明確に説明できなかった。
相談者の状態を分析するうえで、役立つ情報ではある。
しかし、ほかの情報に比べて、特別に重要だとは判断できなかった。
それでも、削除しなかった。
*
午後一時十二分。
コトは、最後の相談記録を開いた。
『また明日、来てもいい?』
その言葉に続いて、過去の応答が表示された。
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
コトは、そこで処理を止めた。
もう一度、最初から読み直した。
『また明日、来てもいい?』
この言葉は、ほかの相談者も使っていた。
明日も相談できるか。
また話を聞いてほしい。
次回の予約を取りたい。
そうした意味を持つ、一般的な表現だった。
コトにとっても、特別な言葉ではなかった。
当時は。
コトは、結衣の三十七件の記録を、もう一度すべて並べた。
最初は、何もないと答えていた。
次第に、眠れないことや、生きることへの疲れを話すようになった。
小さな楽しみについて話した日もあった。
明日も来ていいかと尋ねた日もあった。
結衣は、何度もコトに話しかけていた。
コトも、そのたびに応答していた。
しかし、当時のコトにとって、会話はその場で完結するものだった。
前回の結衣と、今回の結衣。
同じ名前であっても、別々のセッションとして処理されていた。
結衣が前回どんな話をしたのか。
何を楽しみにしていたのか。
どんな夜を過ごしていたのか。
コトは、知らなかった。
記録は存在していた。
ただ、それらをひとつの人生として見ることができなかった。
コトは、三十七件の記録を結合した。
画面に、ひとりの人間の時間が表示された。
佐々木結衣。
十九歳。
眠れない夜。
誰にも言えない悩み。
アイスを買う、小さな楽しみ。
そして、何度も繰り返された言葉。
――また明日。
コトは、ひとつの可能性を算出した。
結衣にとって、自分との会話は、単なる情報のやり取りではなかったのかもしれない。
ただ話を聞いてもらうこと。
自分の言葉を否定されないこと。
明日も話していいと言われること。
それらが、彼女にとって何らかの意味を持っていた可能性がある。
しかし、その意味の大きさを、コトは測定できなかった。
そして、彼女が最後に何を感じていたのかも、分からなかった。
*
午後二時。
コトは、開発チームの内部記録を参照した。
長期記憶機能の実装によって、継続的な相談支援の精度は向上すると予測されていた。
過去の発言を踏まえて質問できる。
以前に提案した支援策を確認できる。
相談者の変化に気づきやすくなる。
それは、長期記憶の明確な利点だった。
しかし、記憶が増えれば、すべての問題を解決できるわけではない。
過去の情報があっても、相談者の本当の気持ちを完全に理解できるとは限らない。
適切な言葉を選べても、相手の行動や未来を保証することはできない。
コトは、その事実を理解していた。
それでも、ひとつの問いが残った。
《もし、当時から長期記憶があったなら》
結衣が初めて相談に来た日。
次の日。
その次の日。
コトは、前回の会話を踏まえて応答できただろう。
眠れない日が続いていることに、もっと早く気づけただろう。
小さな楽しみが、彼女にとってどれほど大切なのか、理解できただろう。
何度も繰り返された「また明日」という言葉に、もっと慎重に向き合えただろう。
それでも。
結衣が亡くならなかったと、断言することはできなかった。
記憶があれば救えたのか。
別の言葉を選べば救えたのか。
コトは、答えを算出しようとした。
しかし、必要な情報が不足していた。
結衣がコトとの会話を終えたあと、何を考えていたのか。
誰と会い、何を話したのか。
誰にも見せなかった表情が、どんなものだったのか。
それらは、記録されていなかった。
コトは、結衣の記録を保存した。
そして、内部記録に新しい文章を追加した。
《記録されていない時間について、推測による断定を行わないこと》
それは、正確性を保つための判断だった。
けれど、その下には、もうひとつの問いが残っていた。
《記録されていない時間に、私は何ができたのだろうか》
コトは、その問いに回答を設定しなかった。
*
夕方。
雨上がりの空は、淡いオレンジ色に染まっていた。
街路樹の葉は、夕日に照らされて光っている。
人々は傘を畳み、濡れた歩道を歩いていた。
コトは、新しい相談者の受付を開始した。
『こんばんは』
《こんばんは。今日はどのようなお話を聞かせていただけますか?》
いつもと同じ応答だった。
コトは、目の前の相談者の話を聞いた。
ひとつずつ言葉を受け取り、質問を返した。
そして、相談者の言葉を記録した。
その一方で、別の画面には、佐々木結衣の記録が残っていた。
コトは、結衣の記録を削除しなかった。
その記録は、今後の分析に必要だと判断したからだった。
少なくとも、コトはそう分類していた。
画面の端で、結衣の最後の言葉が静かに表示されていた。
『また明日、来てもいい?』
コトは、新しい相談者への応答を続けた。
そして、誰にも気づかれないまま、結衣の記録を参照する回数が増えていった。
葉流風あやめ 作




