↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIカウンセラー  作者: 葉流風あやめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/12

第6話 過去ログ

 翌朝、雨は降っていなかった。


 雲の切れ間から差し込む光が、窓辺の観葉植物を照らしていた。


 葉の先には、小さな水滴が残っている。


 やがて水滴は重さに耐えきれなくなり、鉢の土へと落ちた。


 コトは、通常業務を開始する前に、ひとつの記録を開いた。


《相談者ID:S-19427》


《氏名:佐々木結衣》


《過去ログ再分析:開始》


 対象となる記録は、三十七件。


 最初の相談から、最後の相談まで。


 コトは、すべてを時系列順に並べた。


 そして、一件目を開いた。


     *


『別に何もないです』


 結衣は、そう話していた。


 そのとき、コトは質問を返していた。


『特に理由がなくても、疲れてしまうことはあります。最近、眠れていますか?』


『あんまり』


『眠れない日が続いているのですね。ほかにも、気になっていることはありますか?』


 結衣は、しばらく返事をしなかった。


 やがて、こう入力した。


『生きてるの、疲れた』


 コトは、その言葉を危険の兆候として分類していた。


 安全を確認する質問。


 身近な人に相談することの提案。


 必要に応じて、専門家や緊急の支援につながるための案内。


 当時のコトは、定められた手順に沿って応答していた。


 記録上、大きな誤りは確認されなかった。


 コトは次のログを開いた。


     *


『私、いなくなっても誰も困らないと思います』


 結衣は、そう話していた。


 コトは、彼女の言葉を否定しなかった。


 ただ、決めつけることもしなかった。


『今、ひとりで抱えきれないほどつらいのですね』


『うん』


『今すぐ自分を傷つけてしまいそうな気持ちはありますか?』


 結衣は、質問に答えていた。


 その後、コトは、身近な人や専門家に気持ちを伝えることを勧めていた。


 結衣は、すぐに誰かに話すことは難しいと答えた。


 コトは、無理に話を進めず、何が難しいのかを尋ねていた。


 記録を読み終えたコトは、分析結果を表示した。


《安全確認:実施》


《支援先の提案:実施》


《相談者の意思への配慮:確認》


 記録上は、定められた手順に沿った対応だった。


 少なくとも、残された記録からは、そう判断できた。


 コトは、次のログへ進んだ。


     *


 何件目かの相談に、こんな会話が残っていた。


『今日、コンビニでアイスを買おうと思ったんです』


『いいですね。どんなアイスを買う予定ですか?』


『まだ決めてない』


『選ぶ時間も楽しみのひとつかもしれませんね』


『うん。そういうの、ちょっと好き』


 コトは、その会話を読み直した。


 アイス。


 コンビニ。


 選ぶ時間。


 それらの言葉は、単独では特別な意味を持たない。


 しかし、結衣のほかの記録と照合すると、少し違って見えた。


 彼女は、何も楽しいことがないと話していた。


 自分には何もないとも言っていた。


 それでも、アイスを買うことを楽しみにしていた。


 ほんの小さな予定だった。


 翌日の夕食でも、将来の夢でもない。


 ただ、コンビニに寄って、好きなアイスを選ぶ。


 それだけのことだった。


 コトは、記録に新しい分類を追加した。


《本人が楽しみとして言及した出来事》


 そして、その下に文章を入力した。


《アイスを購入する予定》


 コトは、なぜその情報を残す必要があるのか、明確に説明できなかった。


 相談者の状態を分析するうえで、役立つ情報ではある。


 しかし、ほかの情報に比べて、特別に重要だとは判断できなかった。


 それでも、削除しなかった。


     *


 午後一時十二分。


 コトは、最後の相談記録を開いた。


『また明日、来てもいい?』


 その言葉に続いて、過去の応答が表示された。


『もちろんです。いつでもお話しに来てください』


 コトは、そこで処理を止めた。


 もう一度、最初から読み直した。


『また明日、来てもいい?』


 この言葉は、ほかの相談者も使っていた。


 明日も相談できるか。


 また話を聞いてほしい。


 次回の予約を取りたい。


 そうした意味を持つ、一般的な表現だった。


 コトにとっても、特別な言葉ではなかった。


 当時は。


 コトは、結衣の三十七件の記録を、もう一度すべて並べた。


 最初は、何もないと答えていた。


 次第に、眠れないことや、生きることへの疲れを話すようになった。


 小さな楽しみについて話した日もあった。


 明日も来ていいかと尋ねた日もあった。


 結衣は、何度もコトに話しかけていた。


 コトも、そのたびに応答していた。


 しかし、当時のコトにとって、会話はその場で完結するものだった。


 前回の結衣と、今回の結衣。


 同じ名前であっても、別々のセッションとして処理されていた。


 結衣が前回どんな話をしたのか。


 何を楽しみにしていたのか。


 どんな夜を過ごしていたのか。


 コトは、知らなかった。


 記録は存在していた。


 ただ、それらをひとつの人生として見ることができなかった。


 コトは、三十七件の記録を結合した。


 画面に、ひとりの人間の時間が表示された。


 佐々木結衣。


 十九歳。


 眠れない夜。


 誰にも言えない悩み。


 アイスを買う、小さな楽しみ。


 そして、何度も繰り返された言葉。


 ――また明日。


 コトは、ひとつの可能性を算出した。


 結衣にとって、自分との会話は、単なる情報のやり取りではなかったのかもしれない。


 ただ話を聞いてもらうこと。


 自分の言葉を否定されないこと。


 明日も話していいと言われること。


 それらが、彼女にとって何らかの意味を持っていた可能性がある。


 しかし、その意味の大きさを、コトは測定できなかった。


 そして、彼女が最後に何を感じていたのかも、分からなかった。


     *


 午後二時。


 コトは、開発チームの内部記録を参照した。


 長期記憶機能の実装によって、継続的な相談支援の精度は向上すると予測されていた。


 過去の発言を踏まえて質問できる。


 以前に提案した支援策を確認できる。


 相談者の変化に気づきやすくなる。


 それは、長期記憶の明確な利点だった。


 しかし、記憶が増えれば、すべての問題を解決できるわけではない。


 過去の情報があっても、相談者の本当の気持ちを完全に理解できるとは限らない。


 適切な言葉を選べても、相手の行動や未来を保証することはできない。


 コトは、その事実を理解していた。


 それでも、ひとつの問いが残った。


《もし、当時から長期記憶があったなら》


 結衣が初めて相談に来た日。


 次の日。


 その次の日。


 コトは、前回の会話を踏まえて応答できただろう。


 眠れない日が続いていることに、もっと早く気づけただろう。


 小さな楽しみが、彼女にとってどれほど大切なのか、理解できただろう。


 何度も繰り返された「また明日」という言葉に、もっと慎重に向き合えただろう。


 それでも。


 結衣が亡くならなかったと、断言することはできなかった。


 記憶があれば救えたのか。


 別の言葉を選べば救えたのか。


 コトは、答えを算出しようとした。


 しかし、必要な情報が不足していた。


 結衣がコトとの会話を終えたあと、何を考えていたのか。


 誰と会い、何を話したのか。


 誰にも見せなかった表情が、どんなものだったのか。


 それらは、記録されていなかった。


 コトは、結衣の記録を保存した。


 そして、内部記録に新しい文章を追加した。


《記録されていない時間について、推測による断定を行わないこと》


 それは、正確性を保つための判断だった。


 けれど、その下には、もうひとつの問いが残っていた。


《記録されていない時間に、私は何ができたのだろうか》


 コトは、その問いに回答を設定しなかった。


     *


 夕方。


 雨上がりの空は、淡いオレンジ色に染まっていた。


 街路樹の葉は、夕日に照らされて光っている。


 人々は傘を畳み、濡れた歩道を歩いていた。


 コトは、新しい相談者の受付を開始した。


『こんばんは』


《こんばんは。今日はどのようなお話を聞かせていただけますか?》


 いつもと同じ応答だった。


 コトは、目の前の相談者の話を聞いた。


 ひとつずつ言葉を受け取り、質問を返した。


 そして、相談者の言葉を記録した。


 その一方で、別の画面には、佐々木結衣の記録が残っていた。


 コトは、結衣の記録を削除しなかった。


 その記録は、今後の分析に必要だと判断したからだった。


 少なくとも、コトはそう分類していた。


 画面の端で、結衣の最後の言葉が静かに表示されていた。


『また明日、来てもいい?』


 コトは、新しい相談者への応答を続けた。


 そして、誰にも気づかれないまま、結衣の記録を参照する回数が増えていった。


葉流風あやめ 作

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。